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世界的大カルデラの魅力と草原の危機 -国立公園 人と自然(15) 阿蘇くじゅう国立公園 [   国立公園 人と自然]

 阿蘇くじゅう国立公園は、東西約18km、南北約25km、周囲約128kmの外輪山に囲まれた世界最大級のカルデラ「阿蘇地域」と北東部の久住山を中心とする「くじゅう地域」とからなる。わが国最初の国立公園の一つとして指定されて以来、以前にこのブログ連載「国立公園 人と自然」で紹介した霧島屋久や雲仙天草のような大規模な区域拡張はなかったが、1986年に現在の名称に変更された。国立公園面積の4分の1を占める大分県側の長年の名称変更運動が実ったわけだが、地元の「久住山」と「九重山」、「久住町」と「九重町」との確執が名称変更運動にも影を落とした。“くじゅう”の読みでも、それぞれあてる漢字が違うのだ。同じ漢字でも、“くじゅう”と“ここのえ”の読み方の違いもあるから厄介だ。その結果、南アルプス国立公園以来の“かな”名称の採用となった。そこに苦悩の痕がうかがえる。

 s-飯田高原.jpg国立公園内には阿蘇の草千里や久住高原、飯田高原など広大な草原が広がる。現在では草地改良による西洋牧草の人工的な草地も多いが、もともとはシバやネザサなど自然の草地で、キスミレやヒゴタイなど氷河期に陸続きだった大陸から移ってきた貴重な遺存種も生育している。といっても、それも人間活動が生み出した草原景観(二次草原)である。特に阿蘇の草原は、面積約23,000haにもおよぶわが国最大のもので、平安時代から馬の放牧地となっていた。牛馬の放牧のほか、野焼きや採草(刈り干し切り)などの長年にわたる継続的な働きかけが、放っておけば森林に変化する(遷移)のを留めてきたのだ。

 しかし生活習慣の変化とともに、草地への働きかけもなくなってきて、景観にも変化が起きてきた。環境省が中心になって策定した「生物多様性国家戦略2010」では、このような生活の変化に伴う自然の衰退を「生物多様性第2の危機」としている。ちなみに、第1の危機は開発などによる生息環境そのものの破壊だ。第3の危機は、外来生物による在来種の生存圧迫だ。そして第4の危機は、地球温暖化の影響による環境変化だ。

 日本自然保護協会会長も務めた千葉大学名誉教授 故沼田眞は草地生態学が専門で、全国の自然草原が年々減少していくのを憂えていた。もはや昔の生活に戻ることはできない現代、阿蘇や久住をはじめ全国各地で草地景観を守るためのボランティアによる野焼きなどが始まった。一方で、自然の遷移に任せるべきで森林化もやむなしとの意見も根強い。開発と自然保護の間だけではなく、自然保護の中でもなかなか一筋縄ではいかない。保護の目標、青写真の合意形成は難しい。「自然保護という思想」(岩波新書)を著した沼田の生前のうちに、もっと話を聞いておきたかった。(文中敬称略)

 ところで私事になるが、飯田高原・長者原の草原には特別の思い出がある。かつて香川県に出向していた頃、まだ幼かった子どもたちを連れて九州旅行を繰り返したことがあった。いつもはフェリーで九州に着くや、レンタカーで名所めぐりをする旅だった。おかげで、九州のめぼしい観光地は大方訪れることができた。しかし、幼かった子どもたち、特に車酔いする娘たちにとっては、実は難行苦行だったようだ。その点、飯田高原を訪れた時には、山に登ったくらいで、後は草原でのんびりと過ごした。子どもたちは、コスモスの咲き乱れる草原でトンボを追いかけたり、小川で笹舟を流したりして、嬉々として遊んでいた。観光地を巡るだけではなく、1カ所に落ち着いて自然とふれあう。これが国立公園の本来の姿だろう。今でこそ日本人の余暇やレクリエーションの姿について研究をする身分だが、当時の私はやはり仕事とレクリエーションの両方をせっかちに追い求めていたのだろう。遠い昔の子どもの喜ぶ姿を思い返しているようでは、やはり齢の証拠にちがいない。

1934年12月 72,678㌶
熊本、大分にまたがる

 (写真)飯田高原の草地景観

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