ss 巨木フォーラム in 青森・階上2023 巨木の郷階上町では庭先に巨樹が [巨樹・巨木]
ss 巨樹と私たち 巨樹信仰からSDGsまで [巨樹・巨木]
巨樹あるいは巨木は、多くの人々に畏敬の念を抱かせ、現代でもパワースポットとして老若男女が訪れる。
オオカミ信仰でも有名な秩父の三峯神社にもパワースポットの巨樹があり、休日には行列ができるほどだ。
ブログ記事「ss オオカミ信仰 関東最強のパワースポット三峯神社」
そんな巨樹と私たちとの関わりを、古代のアニミズム(自然信仰)から説き起こし、現代生活での枯葉問題など地域資産としての保全管理のあり方、NIMBY、SDGsなどに至るまでを西欧と東洋の自然観・宗教観なども交えながら、世界中で自ら撮影した写真を多用して講義した。
まずは、「巨樹とは何か!」ということで、ギネスブック登録の世界最大の樹「シャーマン将軍の木」(樹高83.8m 幹周34.9m 体積1487㎥)(米国セコイア国立公園)や日本最大幹周の「蒲生の大クス」(幹周24.2m)(鹿児島県姶良市)などの紹介から始めた。
そのほか、講義の目次は、ざっとこんなところ(講義パワーポイントの「あらすじ」より)。
◎「巨樹」の誕生
・巨樹とは何か!
・本多静六・里見信生と巨樹
・巨樹・巨木林調査
◎巨樹信仰の原初
・アニミズム
・巨樹信仰と行事
◎自然へのまなざし
・自然破壊の始まり
ー農耕・牧畜の始まり、ギルガメッシュ叙事詩
・西アジア・ヨーロッパと東洋の比較
ー「自然」の捉え方、登山、自然との対立と共生の思想
◎巨樹と私たちの生活
・現代にも連なる巨樹信仰
・現代生活での巨樹
・巨樹と地域社会
ー地域資産、地域との絆
◎巨樹とSDGs
・SDGsとは
・巨樹の役割とSDGs
◎明日の巨樹へ向けて
・現代に蘇る巨樹信仰
・巨樹を心に
・自然観・環境倫理の変遷と巨樹
◎【付録】全国巨樹・巨木林の会
内容は追って少しずつこのブログでも紹介したい。
いずれにしろ、地球上で最大・最長寿の生命体である「巨樹」
ひとりでも多くの方に関心を持っていただき、地域に存することに愛着と誇りを持っていただきたいとの願いを込めて、講義を終了した次第。
覚書程度の中身がない記事で失礼します。
毎度で恐縮ですが、講義の一部は拙著『生物多様性を問いなおす 世界・自然・未来との共生とSDGs』(ちくま新書)でも詳しく解説。
目次は下記ブログ記事からどうぞ。
『生物多様性を問いなおす』書評と入試問題採用 - みどりの旅路
水害復興と修験修行の支え 一木で森を成す福岡の巨樹たち(2) [巨樹・巨木]
それが、「隠家(かくれが)の森」(幹周18.0m)だ。
これも、国の天然記念物に指定されているクスノキだ。
筑後川流域で水が豊かな「三連水車」の里として知られる朝倉市は、2017年7月と2018年7月の二年連続の豪雨により被害を受けた。
写真は、道の駅「三連水車の里あさくら」にある実物大の三連水車モニュメント。
隠家の森は、この朝倉市にあり、地上3mほどで3本に分かれていたが、1991年の台風で大枝が折れて現在の形となった。
幹の内部には8畳ほどの空洞があり、関所を通れない人が夜になるまで隠れていたことから、隠家の森と呼ばれるようになったという。
その隠家の森の根元には「田神社」が祀られている。
訪問の日はちょうど恵蘇八幡宮のご神幸祭で、ここに御旅所を設置する準備中だった。
恵蘇八幡宮にも、県天然記念物に指定されている「恵蘇八幡のクス」(幹周9m)がある。
周辺には、ほかにも安長寺境内の「安長寺の大クス」(幹周12m、県天然記念物)や須賀神社境内の「祇園の大クス」(幹周10.8m、県天然記念物)など、多くの巨樹がある。
巨樹も、太さ(幹周)で比べるとクスノキが圧倒的に多くなる。
前回記事でも記したとおり、クスノキは、日本一の「蒲生の大クス」(幹周24.2m)をはじめ、トップ10の半数以上を占める巨樹になる樹種だ。
今回巡った巨樹には、クスノキのほかにスギがあった。
焼き物で有名な小石原の「行者杉」は、修験の聖地・英彦山に峰入りする修験者たちが植栽したと伝えられる樹齢200年から600年の杉林だ。
スギ林から突出してフォークのような株立ちの幹を表している(↑写真)のは、「霊験杉」。
行者杉の中で最大とされるのは、推定樹齢600年の「大王スギ」(幹周8.29m)だ。
一木で森を形成するようなクスノキの巨樹。
そして、修験者たちが修行の成就を祈って植栽したであろう行者杉の森。
福岡の巨樹たちは、人々の生活を見守り続けている。
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宇美八幡宮は巨樹の森 一木で森を成す福岡の巨樹たち(1) [巨樹・巨木]
まずは、フォーラム開催地の宇美町にある宇美八幡宮の巨樹。
前回記事でも紹介したとおり、宇美町は神功皇后が朝鮮半島出兵(三韓征伐)の帰路、応神天皇を出産した地とされる。
町名もこの故事にちなんでいるが、神社も安産信仰「子安の杜」として知られている。
境内末社「湯方社」の周囲には、安産のお礼に子どもの名前などを記入した玉石が積み上げられている。
また、神功皇后が木の枝に取りすがって応神天皇を出産したと伝えられる社殿脇のエンジュの木は、「宇美宮の槐(えんじゅ)」として代々更新されてきた。
宇美八幡宮境内の二本の国指定天然記念物のクスノキの巨樹も、これらの出産にまつわる伝承を受け継いでいる。
社殿右手の「湯葢(ゆぶた)の森」(幹周15.7m)は、この木の下で産湯を使った際に、枝葉が覆いかぶさって蓋の役割をしたと伝えられる巨樹だ。
根元に6畳ほどの空洞があるというその太さには、圧倒される。
社殿の左手奥にある「衣掛(きぬかけ)の森」(幹周20.0m)は、出産の際に産衣を掛けたとされ、樹齢は千年とも二千年ともいわれている。
さすがに寄る年波には勝てずに弱ってきたが、2002年には大治療がなされ、樹勢は回復してきている。
この二本のほかにも、境内には多くのクスノキの巨樹が生育し、「蚊田(かだ)の森」として県天然記念物に指定されている。
クスノキは、日本一の「蒲生の大クス」(幹周24.2m)をはじめ、トップ10の半数以上を占める巨樹になる樹種だ。
衣掛の森も、全国トップ10に名を連ねる。
衣掛の森も、湯葢の森も、全国巨樹・巨木林の会初代会長の里見信生・元金沢大学教授が作成した「巨樹見立番付」の樟(クスノキ)の部では、それぞれ東西の張出横綱となっている。
宇美八幡宮の湯葢の森や衣掛の森は、まさにその名のとおり「一木で森を成す」巨樹だ。
古くから信仰を集め、国の天然記念物に指定され、クスノキの中でも巨樹中の巨樹たちだ。
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巨木の下での全国フォーラム 今年は福岡・宇美大会2019 [巨樹・巨木]
今年(2019年)の第32回フォーラムが、福岡県宇美町で10月19日午後に開催された。
宇美町は、神功皇后が朝鮮半島出兵(三韓征伐)の帰路、応神天皇を出産した地とされている。町名は、その故事の「産み」にちなみ、2020年には町制施行百周年を迎える。
出産の地とされる宇美八幡宮境内には、出産の際に産衣を掛けたとされる「衣掛(きぬかけ)の森」(幹周20.0m)と、産湯の蓋の役割をしたと伝えられる「湯葢(ゆぶた)の森」(幹周15.7m)という二本のクスノキの巨樹がそびえ立っており、共に国指定天然記念物となっている。
会場の「宇美町立中央公民館」や周辺道路には、フォーラムの立て看板や幟旗も。
会場入り口では、地元小学生が描いた衣掛の森などの巨木の絵と、地元会員などの巨樹写真が展示され、参加者は熱心に見ていた。
フォーラムの開会に先立ち、宇美八幡宮の伝統神楽が披露された。
フォーラム開始には、例年どおりの主催者挨拶などがあり、私も共催者の「全国巨樹・巨木林の会」会長として挨拶した。
その後は、基調講演、シンポジウムと続き、宇美町緑の少年団による大会宣言の朗読と採択があった。
最後は、第1回から引き継がれてきた大会旗が、木原宇美町長から来年度開催の東京都三宅村の櫻田村長に引き継がれて、フォーラムは幕を閉じた。
夕刻からは、場所を移しての交流会。
勇壮な宇美太鼓は、腹の底にまで響く。
年1回の全国の仲間たちとの再会を会員たちは何よりも楽しみにしている。
そして、フォーラムを作り上げた地元の人々との交流も。
昆布漬明太子や本物の力士が作ったちゃんこ鍋など、地元の味自慢の料理と酒もまた交流会の楽しみのひとつだ。
翌日は、3コースに分かれてのエクスカーション。
どんな巨樹のドラマを見聞きすることができるか、楽しみだ。
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北海道で初 巨木フォーラムin釧路・阿寒2018
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巨木の郷 青森県階上町の巨樹 [巨樹・巨木]
町内には、多数の巨樹が存在している。
全国的には、巨樹は社寺境内や山奥が多いが、ここでは民家の庭に生育しているのだ。
町内有志は「階上売り込み隊」を結成して、巨木・古木の調査とパンフレット作製、巨木巡りなどを実施している。
町でもこれを支援し、「巨木の郷」として町興しを図っている。
町内には、巨木巡りのコースがいくつも設定されており、コース案内の道標と案内板も整備されている。
9月初旬、そのいくつかを見学してきたので紹介しよう。
町役場に近い天当平地区には、樹齢250年という放射状に枝分かれした「天当平のアカマツ」がある。(幹周3.73m、樹高22.20m)
その枝先は特に赤く、燃え上がる炎のようだということで、「火炎の松」とも名付けられている。
また、その容姿から「うつくし松」とも呼ばれている。
枝が三叉に分かれる三頭木は、神が宿る山ノ神として崇められ、伐採からも免れてきた。
根元には、小さな祠が祀られている。
「茨島のトチノキ」は、地元の旧家、茨島家の敷地内に生育している。
推定樹齢850年というその巨樹は、青森県天然記念物に指定されている。
見学時には、枝先に無数の栃の実をつけていた。
樹高28.5m、県内最大級という6.98mの幹周から長く伸びた枝は、まるで何匹もの大蛇のようだ。
最大級といえば、「柳沢家のアサダ」は、幹周4.3mで国内でアサダの幹周としては第2位にランクされている(樹高は22.0m、樹齢は不明)。
幹に空いた穴からは、どんな生きものが顔を出すのだろうか。
想像を掻き立てられる。
町の天然記念物に指定されている幹周6.4mの「平野家のサイカチ」も、サイカチとしては国内最大級という。
樹齢800年という主幹は残念ながら朽ちているが、朽ち果てつつある主幹を支えるように、その両側から新しい幹が伸びている。
この地域の旧家で、代々久五郎を名乗る平野家の庭先で守られてきた。
マメ科巨樹の実(さや)は、昔から広く洗剤代わりに使用され、現在でも漆器用の洗剤として使用されているという。
町民に愛され、共に生活してきた巨樹たち。
その巨樹たちは、町興しという形で、町民に誇りと希望をお返ししようとしているようだ。
来月(10月19~20日)には、福岡県宇美町で巨木フォーラムが開催される。
ここでも、巨樹と人々とのドラマが待ち受けていることだろう。楽しみだ。
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北海道で初 巨木フォーラムin釧路・阿寒2018 [巨樹・巨木]
8月の宮古島記事以降、長らくブログ更新していませんでした。
仕事が立て込んで、更新できなかった、というのが言い訳です。
でも、以前の方がよほど仕事も忙しかったのですがね。
どうやら、歳になると、仕事効率が悪くなり、時間がかかって、仕事が進まず、精神的な余裕がなくなったということのようです。
根を詰めて仕事に集中する時間も、これまでより短くなってきたような気がします。
かつては徹夜もいとわなかったのですが、それもできない、というか、意識的に徹夜をしないようにしています。
結局、締め切り設定の仕事を優先して、ブログ更新は後回しになってしまいました。
春のラオス旅行を含めて、アップしたいものはたくさんあるのですが、今年も残りあと1週間。
全国巨樹巨木林の会会長として、毎年開催の「巨木を語ろう全国フォーラム」の報告は、ぜひ年内に済ましておかなければと思い、久しぶりに記事更新をします。
取り急ぎのご報告となり、失礼いたします。
巨木を語ろう全国フォーラム 北海道・釧路大会2018
「巨木を語ろう全国フォーラム」が、今年(2018年)は北海道釧路市の阿寒湖畔で10月13日に開催された。
第31回目となるが、北海道内での開催は今回が初めて。
その道内初のフォーラムが開催されたのが、阿寒湖畔だ。
その阿寒湖畔に、40年ほど前、国立公園管理官として勤務・居住していたことがある。
その阿寒湖畔でぜひフォーラムを開催したいというのが、いわば私の夢でもあった。
フォーラムの私物化とお叱りを受けるかもしれないが、北海道の巨木林を全国の皆さんにご紹介したいとの熱意からと、ご容赦願いたい。
おかげで、地元釧路市や森林を所有する「前田一歩園」、仲介の労をとっていただいた環境省釧路自然環境事務所をはじめ、関係者の皆様のご尽力により開催の運びとなり、遅ればせながら改めてお礼申し上げます。
前置きが長くなってしまったが、フォーラム当日は、例年だと散ってしまう紅葉が私たちを出迎えてくれた。
フォーラム開催に際して、地元の皆さんは、阿寒にはこれまでのフォーラム開催地のような巨木がないことを心配していた。
確かに、天然記念物になるような巨木はない。
しかし、極寒の厳しい風雪に耐えてきた樹々は、幹周こそ大きくはないが、十分巨樹に値する。
それだけではない、特別天然記念物マリモを育む阿寒湖、さらに釧路湿原にまで連なる豊かな水を涵養してきたのも巨木林だ。
シマフクロウ、クマゲラ、さらにヒグマなどの野生動物の生息地となり、アイヌ民族による巨木林や鳥獣との共生文化をも育んできた。
フォーラム会場は、阿寒湖アイヌコタンにある、アイヌ古式舞踊などを伝承するための建物「イコロ」だ。
アイヌコタン入口のモニュメント
イコロの入口
フォーラムでは、アイヌの皆さんによる歓迎の舞踊が披露された。
挨拶に続き、講演、パネルディスカッションでは、マリモと阿寒湖、自然と共生するアイヌ文化、阿寒の森を守ってきた前田一歩園の活動など、阿寒の巨木林に関わる大変興味深いお話を聞かせていただいた。
最後には、釧路市長(代理)から次期開催地の福岡県宇美町長にフォーラム大会旗が引き継がれた。
フォーラム終了後は、参加者が楽しみにしている交流会。
釧路市観光大使を務める地元デュオ「ヒートボイス」のライブ。
初めての知り合い、年に一度の再会など、思い思いの交流の輪が広がった。
翌日は、阿寒湖畔の巨木林や普段は立ち入ることのできない湖北の森、あるいはオンネトーなど、いくつかのコースに分かれて巨木林を巡るエクスカーションが開催された。
参加者の皆さんは、それぞれ紅葉の阿寒湖と巨木林を堪能して、家路へ向かわれたようだ。
エクスカーションの対象にもなった阿寒の巨木林の様子や前田一歩園については、昨年現地を訪れた際の記事「阿寒湖の巨樹・巨木林」をご覧ください。
年内のブログはこれで終了します。
来年はもっと頻繁に更新したいと思います。
皆さま、良いお年をお迎えください。
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湯河原の巨樹再び [巨樹・巨木]
今年は特に花々が一斉に開いたような気がするのは、自然の移ろいに思いを馳せる余裕がなかったせいだろうか。
4月の庭の花々も、あっという間に満開になったと思ったら散ってしまった。
毎年春になると、藤の花を酢の物でいただいている。
甘い香りとともに、季節の味覚でもある。
ツツジ類も、彩りの競演だ。
ところで、ちょうど1か月前の桜がほころび始めた頃になるが、湯河原(神奈川県)での会合の際に、駅周辺の巨樹を巡ってみた。
源頼朝の旗挙げを支えた土肥次郎実平の居城もあった湯河原は、駅前に実平と妻の銅像が建立されている。
まずは、1年前にも訪れた土肥氏の菩提寺城願寺へ。
そこに聳えるのは国指定天然記念物「城願寺のビャクシン」。
この寺を建立した土肥実平のお手植えと伝えられ、樹齢は約800年、幹周6m、樹高20mの巨木で、かなわがの名木百選にも選定されている。
土肥一族の墓所からは、湘南の海も一望できる。
湯河原にあるもう一つの国指定天然記念物。
それは、「山神の樹叢」だ。
土肥実平の時代から山の神として崇められた小さな祠がある。
その周辺の約620平方メートルの暖帯性の常緑広葉樹林だ。
林内には、タブノキ、イヌマキ、クスなどの巨樹が繁茂しているが、かつてあったホルトノキの巨樹は現在では見ることができない。
山神の樹叢は、この暖帯性広葉樹林、特にまとまったホルトノキの樹林として最も北に位置する貴重な樹叢だったが、その巨樹を見ることができなくなってしまったのは残念だ。稚樹が成長して巨樹となるのを期待するばかりだ。
南北に長い日本列島では気温などの関係で、北海道ではエゾマツ、トドマツなどの常緑針葉樹林、東日本ではブナなどの落葉広葉樹林、西南日本ではタブノキ、クスノキなどの常緑広葉樹林が多く生育する。いわゆる「水平分布」だ。
こうして生物の多様性が形成される。日本が生物多様性の豊かな国と言われる所以だ。
この常緑広葉樹林は「照葉樹林」とも呼ばれ、日本で最大級の照葉樹林として有名な「綾の照葉樹林」(宮崎県綾町)は、ユネスコの生物圏保護区(ユネスコエコパーク)にも登録されている。
ちなみに、「水平分布」と対をなす「垂直分布」とは、標高が上がるにつれて気温が下がり、植物分布も麓の広葉樹林から針葉樹林、さらにお花畑へと変化する分布を示す。
登山の際に体験された方も多いことだろう。
さらに近くの産土(うぶすな)八幡神社に立ち寄った。1108年(天仁元年)の創立と伝えられるから、今年でちょうど910年。
その石段脇には、樹齢600年と伝えられる町指定天然記念物「産土八幡神社のクスノキ」やケヤキ(数本の合体)も聳えている。
巨樹巡りの後は、駅近くのレトロな感じの喫茶店で、ビーフシチューの昼食。
隙間もないくらい肉が盛られ、その肉がまたとろけるように柔らかい。
この店では値が張るメニューの一つだが、ビーフシチューが好物の私は、これを食べたいがために早めに家を出て巨樹巡りをしたくらいだ。
巨樹と歴史と御馳走と。のんびりと幸せを噛みしめた至福の一日だった。
そしてまた、あわただしい日々が続いている。
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行った と・こ・ろ
ご存知! 金沢 街歩き [巨樹・巨木]
北陸新幹線の開通で、金沢駅はもてなしドームなどなどでモダンになったが、その入口部(兼六園口)には伝統を活かした木造の鼓門が建てられている。
噴水にはデジタル時計が。これぞ、水時計!?
駅から、海産物や野菜など金沢の台所、「近江市場」を通過して金沢城方面へ。
「尾崎神社」は、加賀藩三代藩主の前田利常を祀っていて、北陸の日光とも呼ばれたという。
すぐ近くの「黒門前緑地」には、タカジアスターゼで有名な高峰譲吉の父、加賀藩御典医の精一の居宅一部(写真左の木造)が移築されている。
並んで、旧検事正官舎(右の白い洋館)も移築されている。
いよいよ金沢城黒門から「金沢城公園」に入園。
以前は金沢大学のキャンパスとなっていたが、移転(1995年)に伴って公園として整備された。
園内は改変も多いが、鉄砲蔵の「三十間長屋」(上写真)や武具蔵の「鶴丸倉庫」(下写真)は国指定重要文化財として残っている。
また、さまざまな積み方の石垣を見ることもできる。
本丸跡などは森林となっている。
二の丸や三の丸は広場となって、「五十間長屋」や「橋爪門」などが復元されている。
その他園内には、明治以降、第二次世界大戦まで軍事施設として使用されていた「第六旅団司令部」建物も残っている。
現在の金沢城で最も有名なのは、おそらく「石川門」だろう。
これも重要文化財で、藩政期は裏門だったというが、現在は兼六園に面した表門として利用者が多い。
ご存知、金沢の代名詞の感もある国指定特別名勝「兼六園」は、加賀藩の藩庭で、後楽園(岡山市)、偕楽園(水戸市)とともに、日本三名園に数えられる。
園内には巨木・名木も多いが、最も有名なのは「根上の松」(ねあがりのまつ)だろう。
また、徽軫灯籠や雪見灯篭など、有名な灯篭も多いが、私が興味を持ったのは↓の灯篭。
実は、灯篭ではなく「ラジオ塔」だという。
NHKが昭和8年に設置したもので、ラジオ普及のためにラジオ放送を受信して流すもので、全国に約460基も設置されたという。
私が子どもの頃の街頭テレビのラジオ版か?
兼六園に隣接する(というか、実際には園内?)、12代藩主の奥方の御殿「成巽閣」も、重要文化財だ。
また、加賀藩老臣で一万石の「津田玄蕃邸遺構」も移築保存されている。
さらに、兼六園に隣接する位置には、旧石川県庁の建物「石川県政記念しいのき迎賓館」がある。
石川県内の建築物としては初めて鉄筋コンクリート構造を採用したもので、国会議事堂などの設計を手掛けた矢橋賢吉によるという。
建物玄関前には、樹齢300年という国指定天然記念物「堂形のシイノキ」が対をなしている。
国指定重要文化財の旧第四高等中学校本館は、現在では石川近代文学館と石川四高記念館で構成される「石川四高記念文化交流館」として使用されている。
「尾山神社」は、加賀藩藩祖の前田利家公と正室お松の方を祀っている。
百万石通りから見える三層楼門(神門)は明治時代に完成し国指定重要文化財になっているが、その独特の風情が人気だ。
ちょうど日没の時間、最上階のステンドガラス(色ガラス)に夕日が差し込んで美しく輝いていた。
社殿脇には、この地方には珍しく、樹齢200年以上というイスノキもある。
繁華街香林坊に接する「長町武家屋敷」には、細い路地や土塀、長屋門などが続く。
金沢城を囲むように流れる二つの川、浅野川と犀川は、市の風情に趣を与えてくれる。
その一つ犀川にかかる「犀川大橋」は、加賀藩の時代からの木造橋が何代かにわたり架け替えられた。
現在のワーレントラス式の鉄橋は大正時代に架けられたもので、国の登録有形文化財だ。
この橋を渡ると、寺町と呼ばれる60余りの寺院が集中した地区になる。
その一角に、今回のフォーラムを記念して「全国巨樹・巨木林の会」が行った巨樹健康診断の対象の「神明宮の大ケヤキ」がある。
また、金沢の茶屋街の一つ、「にし茶屋街」もある。
その一角には、作家島田清次郎の資料などが展示されている「西茶屋資料館」があり、2階にはかつての茶屋の部屋が復元されている。
半日での街歩き。
これくらいの規模と伝統のある町が心地良いと思う。
東京も、部分的にはこんな感じだけれども、ちょっと手に負えなくなってきたかな~
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ツアーは、市内を徒歩で回るものから、能登半島の1泊まで、5コースが用意されていて、どれも魅力あるものだった。
以下は、私が参加した加賀方面コースの一部をご紹介。
時間がなくて、解説も付記できませんが、とりあえず写真をご覧ください(実際のコースとは順不同)。
このコースには、国指定天然記念物が4件ある。
その一つが、「御仏供スギ」(白山市)。読み方は、〝おぼけすぎ”
遠景は杉の木の森のよう。
樹下に入ると、1本の木から十数本の太い枝に分かれているのがわかる。
その結果、まるで森のように見えるのだ。
樹齢660年余、幹周720㎝、樹高24mの堂々たるものだ。
樹形が仏様にお供えする「おぼくさま」のように見えることから、御仏供スギと呼ばれるようになったとか。
「栢野の大スギ」(加賀市)も国指定天然記念物。
菅原神社の参道の両脇に門のように聳える2本のスギ。
このうち右手の幹周914㎝のスギは、昭和天皇が石川県行幸の際にご覧になったというので、「天覧の大杉」とも呼ばれている。
神社側からは左手になるが、人と比べるとその大きさが際立つ。
もう1本の国指定天然記念物は、「八幡神社の大スギ」(加賀市)。
名前のとおり、八幡神社の入り口にある。
このスギの特徴は、地上からおよそ3mのあたりで3本に分岐していることだ。
帆柱にしようとしたところ、一夜にして三本に分岐したという言い伝えがある。
残る国指定天然記念物は、単木ではなく、樹林だ。
越前加賀国定公園内の石川・福井の県境にある森、「鹿島の森」(加賀市)だ。
かつては北潟湖の島だったというが、今では陸続きになっていて、島内はスダジイやタブなどの森となっている。
この島には、「赤手ガニ」というカニがたくさん生息している。
石川県内には、国指定でなくとも、巨樹は多い。
「十村屋敷跡のスダジイ巨木群」は、加賀市指定天然記念物だ。
加賀藩で砂防造林や農業振興に尽くした鹿野小四郎の居宅跡という一角には、スダジイの巨樹が何本も残っている。
こうした巨樹に対して、人々は昔から畏敬の念をもって接してきた。
全国三千余社といわれる白山神社の総本宮、「白山比咩神社」(白山市)。
白山開山1300年の今年、毎月1日(と15日)の月次祭(つきなみさい)と重なり、多くの参拝客でにぎわっていた。
その杉の参道の最奥には、しめ縄が巻かれた幹周700㎝の杉の巨樹があり、市指定天然記念物に指定されている。
多くの参詣人が、その巨樹の肌に触れて、巨樹から霊気を得ようとしている。
古代から人々は世界中で、巨樹だけではなく、大きな岩など、偉大な自然や異形などに神の存在を感じてきた。いわゆるアニミズムだ。
日本三大霊山(富士山、白山、立山)のひとつ白山山頂には、白山神社の奥宮がある。
白山比咩神社境内には、山頂まで行けない人のために離れたところから白山山頂を拝む遥拝所の「白山奥宮」が祀られている。
大汝峰、御前峰、別山の「白山三山」の形をした巨岩に、多くの人々がお参りして手を合わせていた。
ところで、本日は第48回衆議院議員選挙投票日。
大型台風21号が東海・関東地方に上陸の恐れがある中だが、是非とも投票所に向かってほしい。
最近は投票所も、商業施設などずいぶんと多様化したが、昔は小学校が主体だった。
先の巨樹ツアーの弁当昼食のために立ち寄ったのは、廃校の小学校を利用した「竹の浦館」(加賀市)。
かつて北前船が栄えた頃、船主が寄贈した木造小学校をNPO法人が体験交流施設として運営しているものだ。
玄関わきには、二宮金次郎像があり、講堂には懐かしい肋木(ろくぼく)も!(下の写真の右側窓)
天候も社会情勢も不順の昨今だが、こうなったら昔の人のように巨樹で神頼み!?
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阿寒湖の巨樹・巨木林
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巨木文化と巨石文化 -巨樹信仰の深淵
今年は金沢 巨木フォーラム2017 [巨樹・巨木]
2017年9月30日に「第30回巨木を語ろう全国フォーラム 石川・金沢大会」として、金沢市の石川県文教会館で開催された。
開催の中心となったのは、石川県巨樹の会のメンバー。
この会は、全国巨樹・巨木林の会の初代会長 故、里見信生氏が初代会長となって設立された県単位の巨樹の会だ。
今回のフォーラムでも、会員の皆さんはボランティアでフォーラム開催から、翌日の巨樹ツアーまで、大活躍だった。
フォーラム受付での会員の皆さん(緑のベスト)
フォーラムは大盛況で、参加者配布の500部の資料が足りなくなり、急遽追加したとか。
フォーラムは、地元愛好家グループのアルプホルンの演奏から始まった。
主催者や来賓の挨拶。
私も共催者の全国巨樹・巨木林の会会長として挨拶(写真はありませんが)。
続いて、基調講演(石川県地域植物研究会会長 古池博氏)、巨樹健康診断報告などが行われた。
巨樹健康診断の対象木は、市内の「神明宮の大ケヤキ」。
樹齢900年以上、幹回りおよそ9m、樹高約24mの堂々たるものだ。
パネルディスカッションでは、福井県立大学長(元、東京農業大学長)の進士五十八先生をコーディネーターに、街中の巨樹の保全の課題や巨樹と人とのつながりなどが話し合われた。
進士先生とは数十年来のお付き合いをさせていただいているが、今回もいつもながらの名コーディネーターぶりだった。
来年は、北海道釧路市阿寒湖畔でのフォーラム開催の予定で、主催地の釧路市名塚副市長に大会旗が引き継がれた。
夜は、参加者が待ちに待った交流会。
年に1回の再会の顔、顔・・・巨樹同窓会のようだ。
地元の料理やお酒もふんだんに。御馳走さまでした!
翌日は、5コースに分かれての巨樹探訪ツアー。
この報告は、後日。
全国巨樹・巨木林の会URL http://www.kyojyu.com/
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阿寒湖の巨樹・巨木林
巨木フォーラム in 秩父 ― 秩父夜祭 屋台芝居と囃子でおもてなし
阿寒湖の巨樹・巨木林 [巨樹・巨木]
なかなか更新もできず、また皆様のブログへの訪問もできませんでした。
今回は、北海道阿寒湖畔の巨木林です。
私が会長を仰せつかっている「全国巨樹・巨木林の会」では、毎年「巨木を語ろう全国フォーラム(巨木フォーラム)」を開催している。
今年(2017年)は、9月30日(土)・10月1日(日)に石川県金沢市で開催する。主催は、石川県巨樹の会を中心とする地元の関係団体の皆さんだ。石川県巨樹の会は、全国の会の初代会長 里見信生先生が設立した団体だ。(本ブログ記事「巨樹の番付 -本多静六と里見信生」参照)
ところで、来年度(2018年)のフォーラムは、北海道の阿寒湖で開催することとなった。
先日、開催引き受けのお礼と打ち合わせで、釧路市長さんほか、関係機関、関係者を訪問してきた。
開催地の阿寒湖は、阿寒国立公園(近々、阿寒摩周国立公園に名称変更)の中心地のひとつで、特別天然記念物マリモの生育地としても有名だ。
阿寒湖と雄阿寒岳
この湖の周囲の原生林には、ヒグマ、エゾシカ、キタキツネ、シマフクロウ、クマゲラなどをはじめとする野生鳥獣が生息している。
林道に餌をくわえて出てきたキタキツネ
同時に、湖周囲の原生林は、「前田一歩園」が所有する森林でもある。
前田一歩園の初代園主・前田正名は、鹿児島県(薩摩藩)出身で、明治2~9年の8年間のフランス留学後、大蔵・内務・農商務の各省要職を歴任し、各地で農場経営や山林事業も手掛け、パリ万国では事務館長も務め、後には、釧路でパルプ製紙会社や銀行の設立にも携わった。
これらの功績と造林、自然保護にかける熱意などから、帝室御料地の払い下げも受けた。その払い下げ地は全国各地にあったが、中でも北海道阿寒湖畔の森林は、正名の座右の銘「万事に一歩が大切」から、後に「前田一歩園」と名付けられた。
今は前田一歩園財団となっている前田一歩園事務所
阿寒湖の北岸には、雄阿寒岳山麓の神秘の湖パンケトー、ペンケトー方面へと続く林道があるが、一般車は通行止めとなっている。
北岸の少し標高の高い部分にはミズナラの巨木林が広がる。秋の黄葉は見事だそうだ。
特に名前などは付いていないが、樹齢数百年と推定されるミズナラの巨樹もある。
パンケトーの碧色の水面
パンケトーから雄阿寒岳
パンケトーから阿寒湖に流出するイベシベツ川の滝
エゾオオサクラソウ
エゾノレイジンソウ
エゾカラマツソウ
ギンリョウソウ
阿寒湖南岸の阿寒湖温泉街裏手には、源泉の白湯山麓に光の森と呼ばれるアカエゾマツやトドマツの針葉樹林が広がる。
その中にあるカツラの巨樹
実は私は、40年ほど前に国立公園管理官として阿寒湖畔に居住していたことがある。
その後、釧路湿原を国立公園にするための検討会設立のために釧路市に出張することになっていたが、ちょうどその時に、前田一歩園三代目園主の前田光子氏の葬儀があり、参列したことがある。
あれからおよそ35年ぶりの阿寒湖訪問だった。
いつか一度は巨木林に囲まれた阿寒湖で巨木フォーラムを開催したいというのが、会長になってからの思いだったが、関係機関・関係者の皆様のご協力で開催の運びとなり大変うれしい限りだ。
古くはアイヌ民族の自然と共に生きる文化によって育まれ、また前田一歩園によって管理されてきた巨木林。
その巨木林は、世界で唯一(アイスランドでは絶滅?)の大型マリモの生育環境を創り出し、またシマフクロウなどの住処を提供してきた。
一方で、増えすぎたエゾシカによる樹皮の食害への対策も課題になっている。
そこには、野生鳥獣と人が織りなす巨木の森の物語がある。
来年のフォーラムが、今から楽しみだ。
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城願寺のビャクシン 頼朝の旗挙げを支えた土肥氏の菩提寺 [巨樹・巨木]
城願寺は、JR東海道線湯河原駅裏手にある寺院だ。もともとは、城山山麓に平安時代からあった密教寺院だったが、800年ほど前の土肥郷(現在の湯河原)の豪族、土肥次郎実平の時代に、万世までもの一族の繁栄を願う「萬年山(万年山)」と号した菩提寺として現在地に建立されたという。
駅からの道路をそれて参道を進むと、仁王が対峙する山門がある。
門の裏には、六地蔵(?)が。
山門からの石段を上ると、右手に目当ての国指定天然記念物「城願寺のビャクシン」が聳え立っている。
この寺を建立した土肥実平のお手植えと伝えられ、樹齢は約800年、幹周6m、樹高20mの巨木だ。
国の天然記念物に指定されており、かながわの名木100選にも選定されている。
ビャクシン(イブキ)の幹はよじれ、いかにも800年を生き抜いてきた巨樹という風情がある。
境内には本堂のほか、釣鐘堂、七騎堂などがある。
さらに土肥一族墓所には、実平など66基もの墓石があり、その形態も多様だ。
この寺を建立した土肥実平は、もともとは平氏一族の中村氏の出身で、中村宗平の次男として相模国土肥郷を治めていた。
しかし、伊豆に流されていた源頼朝が平家打倒の旗挙げをすると、これに嫡男の遠平とともに参加した。
以後、多くの合戦に出陣して頼朝の平家討伐などにも功績があったという。
毎年4月には、頼朝の平家討伐旗挙げを記念した武者行列が開催されるそうだ。
土肥氏の館跡とされるJR湯河原駅前には、実平と妻の像がある。
今回は残念ながら、城山山上の土肥城址までは足を延ばすことはできなかったけれど。
歴史のロマンを感じる土肥郷の道路脇には、小さな石像がたたずんでいた。
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行った と・こ・ろ
(湯河原町 福泉寺の首大仏を含む)
源氏との因縁 鶴嶺八幡宮と大イチョウ
パワースポット 来宮神社の大クス
太古の珍獣と悠久の巨樹 -秩父の神社と巨樹(5) [巨樹・巨木]
秩父市での「巨木フォーラム」エクスカーションの続き。
大徳院の門前には「大徳院の一本スギ」がある。
推定樹齢300年というスギだが、寺に伝わる延享3年(1745年)の古地図にその存在が記されているという。
大徳院からしばらく歩くと、「奈倉妙見宮」がある。
ここでは、小鹿野町の秋祭りに女歌舞伎が上演される。
今年も訪れた前夜の10月1日に上演されたことが、テレビニュースで報じられていた。
そのすぐ近くには、化石で有名な「ようばけ」がある。
荒川支流の赤平川右岸の第三紀層地層の大露頭で、約1500万年前の堆積物からはクジラやサメ、貝類などの化石が発見されている。
2016年3月には、これらの堆積層と化石群が国指定の天然記念物に指定された。
そして「ジオパーク」にも認定されている。
ジオパークは、一定の価値ある地形や地質などを教育や観光などに活用しながら保全もしていこうとする活動だ。
日本には40以上のジオパークに認定された地域があるが、そのうち8地域は世界的なジオパークネットワークの「ユネスコ世界ジオパーク」にも認定されている。
「おがの化石館」には、ようばけや近くの同じ地層から発見された化石などが展示されている。
その中でも奇獣といわれるパレオパラドキシアは、約2000万年前から1100万年前に日本と北アメリカ西海岸の海辺で生息していた体長2mほどの哺乳類だそうだ。
骨格模型や復元模型も展示されているが、現在では類似の骨格をもつ生物が生存していないため、その形態はもちろん、生態も謎が多いという。
現在のところ、現代のカバに似た形態と生態であったと想像されている。
浅い海中にも潜って海藻など食べる“草食系”と推定されているせいか、復元模型もそれとなく優しげだ。
全身骨格の化石は今から40年前の1975年に秩父市大野原で発掘されたが、世界で2例目という貴重なものだ(展示は、レプリカ)。
歯などの部分化石は、海外や日本の他地域でも発見されているが、埼玉県は世界で最もパレオパラドキシアの化石が発見されている地域だそうだ。
エクスカーション最後の巨樹は、「明ケ指(みょうがさす)のカツラ」だ。
どちらかというと水分の多いところを好むカツラだが、明ケ指のカツラの生育地は、まさに荒川支流の安谷川の渓流沿いだ。
根元からのたくさんの分枝とコブの独特の雰囲気は、深山渓谷に鎮座する巨樹にふさわしく、フォーラムのポスターやパンフレット表紙をも飾っている。
悠久の時を生きてきた巨樹でも、さすがにパレオパラドキシアの化石の時代から生き続けているのはない。
しかし、その遺伝子は延々と継承され、イチョウやメタセコイアのように生きている化石と称される種もある。
少なくとも人間の一生をはるかに超えた歴史を見続けてきたことは間違いない。それが巨樹というものだ。
いつも本ブログにご訪問いただき、ありがとうございます。
2016年10月に埼玉県秩父市で開催された第29回「巨木を語ろう全国フォーラム」(10/1フォーラム、10/2エクスカーション)に長らくお付き合いいただきましたが、とりあえず報告は終了します。
次回からは別のテーマとなりますが、引き続きよろしくお願いします。
困民党とロケット祭の椋神社、そして吉田小学校庭の大木 ― 秩父の神社と巨樹(4) [巨樹・巨木]
「椋神社」は、明治17年(1884年)に起きた「秩父事件」の際に、3千名ともいわれる農民らが集結した場所として著名だ。
当時は、デフレ政策と軍備拡張のための増税などで、全国の農民などは生活に困窮し、各地で政府に対する抵抗運動が起きていた。秩父地方でも、デフレなどの全国的な経済不況に加え、欧州での不況による生糸価格の大暴落もあって、秩父銘仙に象徴される生糸の産地でもあった秩父の農民の生活は困窮を極めていた。
秩父事件は、このような中で自由党員を中心に農民らが「困民党」を組織したものだ。
11月1日に椋神社に集結した数千名もの農民らは、猟銃や刀剣などで武装し、翌日には秩父郡の中心大宮郷(現、秩父市)にまで進軍して郡役所や警察なども占拠した。県庁、さらには東京の政府まで攻め入る計画だったというが、出動した軍隊により鎮圧されてしまった。
この「秩父事件」あるいは「困民党」については、圧政を打ち破るための民衆による画期的な蜂起か、あるいは高利貸などを襲った借金苦、生活困窮者の暴徒による単なる略奪、放火事件だったのか、その評価はさまざまなようだ。
時間(歴史)が評価するとは言うけれど、その歴史も時代とともに移ろうのだから厄介だ。
そんな大事件があったのも嘘のように、ひっそりと静まり返った椋神社の本殿脇の広場には、樹齢100年ともいわれる2本のクヌギが寄り添っている。
「椋神社の夫婦クヌギ」と呼ばれている。
訪れた際には夫婦クヌギの下で、地元の方々が1週間後(10月9日)に控えた椋神社例大祭「龍勢祭」の準備に精を出していた。
夫婦クヌギの右側にある櫓では、龍勢打ち上げの際に太鼓を打ち鳴らすとか。
龍勢祭は、花火を推力にしたロケットのようなものをおよそ15分間隔で30本ほども打ち上げるものだ。
打ち上げ台は、神社から見える丘の中腹の高さ約20mの櫓。
点火すると轟音とともに数100mの上空に昇り、その姿は龍のごとくということで、この名がついたようだ。
テレビニュースで見たが、まさにロケット祭で壮観だ。実物を見ることができず、残念だった。
次は、市立吉田小学校の校庭に生育している樹齢800年ともいわれる「吉田小学校の大ケヤキ」だ。市指定の天然記念物にもなっている。
ここは秩父氏館跡ともいわれ、現在では椋神社に移転されている「八幡宮」も建立していた。
大ケヤキはその敷地外周の斜面に生育していたといわれるが、明治時代末の校庭の拡張などで根元が埋め立てられて、樹勢がだいぶ弱ってきていた。
全国巨樹・巨木林の会では、今回の巨木フォーラム開催を記念して、「巨樹健康診断」を実施した。
根元を掘削しての診断などのほか、ツリークライミングによる高所診断、最近話題のドローンによる空中調査も実施された。その結果は、フォーラムで報告されたほか、報告書も作成された。
校庭には、久しぶりに見る二宮金次郎の像があった。
しかし最近では、「ながらスマホ」を助長しているとの親からのクレームで、各地で撤去が相次いでいるともいう。
私は別に金次郎像にそれほど愛着があるわけでもないが、ながらスマホを助長するから撤去しろとの親のクレームとそれを受け入れて撤去する学校(教育委員会)の対応には、正直がっかりだ。
金次郎像による道徳の押し付けもまた、困ったものだけどね・・・。
明治の大事件とその後の農民たちの暮らしぶり、そして小学児童たちの健やかな成長を見続けてきた巨樹たちと金次郎像に出会った秩父路だった。
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巨木フォーラム in 秩父 ― 秩父夜祭 屋台芝居と囃子でおもてなし
巨木フォーラム in小豆島 (1)
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巨木フォーラム in 秩父 ― 秩父夜祭 屋台芝居と囃子でおもてなし [巨樹・巨木]
「第29回巨木を語ろう全国フォーラムin埼玉・秩父大会」が、2016年10月1日(土)、2日(日)に開催された。
フォーラムが開催された埼玉県秩父市は、市域の多くが山地で、武甲山などの石灰産地として発展し、秩父銘仙の織物産地でもある。
そして、秩父多摩甲斐国立公園にも指定され、また古くからの林業地でもある。
その中には、明治神宮や日比谷公園の設計に携わり、日本の公園の父として有名な埼玉県が生んだ偉人の一人、本多静六博士が寄贈した山林もある。
本多静六博士はまた、『大日本老樹名誌』を著し、『大日本老樹番付』も作成したから、まさに「日本の巨樹の父」ではないかと思うけど。
1日目はシンポジウム、2日目はエクスカーションでの巨樹探訪だ。
また、シンポジウムに先立つ午前中には、私が会長を務める「全国巨樹・巨木林の会」の総会も同会場で開催された。
フォーラムは秩父市を中心とする運営委員会が主催で、全国巨樹・巨木林の会は共催者となっている。
市内中心部の秩父市歴史文化伝承館でのフォーラムでは、開始前に子ども歌舞伎の上演による歓迎があった。
演じたのは宮地屋台芝居子ども歌舞伎に所属する地元町会に在住の小学生で、題目は有名な「白浪五人男」(通称)だ。宮地屋台芝居子ども歌舞伎の名のとおり、上、中、下の宮地町3町会は今年は4年に一度の当番町に当たり、12月2日・3日の有名な「秩父夜祭」で屋台のうえで上演するという。
これから本番に向けて、さらに練習が積まれることだろう。
フォーラムでは、東京農業大学の宮林教授による基調講演「巨木の文化価値と地域づくり」に続き、市内の「吉田小学校の大ケヤキ」(市指定天然記念物)の健康診断結果報告が行われた。
巨樹の健康診断は、全国巨樹・巨木林の会が全国フォーラム開催に合わせて実施している事業で、昨年の小豆島の「宝生院のシンパク」(国指定特別天然記念物)に次いで2回目となる。調査は、目視等による衰退度調査などのほか、ツリークライミングによる高所診断や最新のドローンによる空中調査も行われた。
さらに、地元秩父の巨木保全などの活動事例が発表されたあと、秩父市立荒川東小学校緑の少年団による大会宣言の発表があった。
最後に、秩父市長から来年の第30回フォーラムが開催される石川県巨樹の会会長に大会旗が引継がれた。
夜は交流会が催され、県立秩父農工科学高校の秩父屋台囃子保存部による迫力あるアトラクションが披露された。
そして、1年ぶりに会った懐かしい顔、今年初めて会った新たな巨樹仲間などの懇親が深まり、地元食材の料理のおもてなしもあり、参加者は大いに盛り上がった。
2日目には、①秩父まちなかコース、②横瀬・長瀞・皆野コース、③荒川・吉田・小鹿野コース、④三峰コースの4コースに分かれて、巨樹のほか、秩父の文化や自然を探訪した。
巨樹がつなぐ輪がまた増えたと感じたこの2日間だ。
来年は、9月30日(土)と10月1日(日)に石川県金沢市で開催されることになっている。
どんな巨樹と人々と、そして地域の文化・伝統と出会えるか楽しみだ。
しばらくの間、秩父の神社と巨樹の探訪記事をアップの予定。
全国巨樹巨木林の会 http://www.kyojyu.com/
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「巨木フォーラム in小豆島 (1)」
「巨木フォーラム in小豆島(2) ― 小豆島の巨樹めぐり」
「本多静六と私 -日本の公園の父 そして巨樹番付」
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源氏との因縁 鶴嶺八幡宮と大イチョウ [巨樹・巨木]
ましてや、超有名な鎌倉の「鶴岡八幡宮」にはとても足元にも及ばない。
しかし実は、あの鶴岡八幡宮の前身ともいえるのが、この鶴嶺八幡宮らしい。
全国にある約8万社といわれる神社は、八幡神社(八幡宮)、稲荷神社、熊野神社など、それぞれのルーツがあり、それが各地に勧請されて広がっていった。
鶴嶺八幡宮は、源頼義が長元三年(1030)に京都の石清水八幡宮(一説には、大分県の宇佐神宮)を勧請して懐島郷矢畑に創建した「懐島八幡宮」がその元といわれている(否定的な説もあるようだけれど)。
つまり、源氏が関東に進出する際に、最初に創建した氏社が鶴嶺八幡宮だという。
以来、源氏の篤い信仰を受けてきた。
その後、頼義は前九年の役での戦勝を祈願し勝利すると、鎌倉の由比郷に懐島八幡宮を勧請して「由比若宮」を創建し、これが現在の「鶴岡八幡宮」の元となったという説もある。
一方、頼義の子の八幡太郎義家が、後三年の役の戦勝祈願と勝利により、懐島八幡宮を現在地の浜之郷に遷したのが鶴嶺八幡宮という。
安藤広重の東海道五十三次絵図の「南湖の左富士」で有名な鳥井戸橋。そこの国道1号線(東海道)には、鶴嶺神社の「大鳥居」がある。
その大鳥居から社殿前までは、「八丁参道」「八丁松並木」と呼ばれる松の並木が続き、茅ヶ崎市指定天然記念物となっている。八丁というから、約800mもの距離になる。
この参道は、江戸時代に三代将軍徳川家光から七石の御朱印を拝領した記念に、八幡宮別当住職の朝恵上人が社殿の再建とともに並木を整備したものという。
「二の鳥居」の手前には、太鼓橋があり、松並木はまだまだ続く。
社殿の手前には、源義家が鶴嶺八幡宮を現在地に遷座したときに植えたと伝えられる「大イチョウ」がある。樹齢は950年だという。
同じ鎌倉期の鶴岡八幡宮の大イチョウ(隠れ銀杏)が倒壊してしまった現在、隠れ銀杏を凌ぐ大きさの鶴嶺八幡宮の大イチョウは、神奈川県の宝ともいえる。
環境省の巨樹データベースによれば、幹周919㎝、樹高29mで、神奈川県天然記念物に指定されている。神奈川県内でイチョウとしては第1位、全種でも5番目の幹周を誇る巨樹だ。かながわ名木百選にも選定されている。
境内には、源頼義が前九年の役の戦勝祈願で手植えしたという樹齢900年のマキの枯損木が御神木として保存されている。
境内社には、淡島神社、鉾宮神社、稲荷神社がある。
また、鶴嶺八幡宮に合祀される前の「佐塚大明神」では、暁の祭典とも呼ばれて神奈川県無形民俗文化財にもなっている「浜降祭」のルーツである南湖浜での禊が行われていたともいう。
だから、現在の浜降祭でも、鶴嶺八幡宮の神輿は、寒川神社の神輿とともに、別格扱いとなっている。
鶴嶺神社の名前はもちろん以前から知っていたし、国道沿いの大鳥居も八丁松並木も昔から何度も通過しているけれど、神社に参拝したのは今回が初めて。
近くにこんなに源氏と因縁のある神社があるとは知らなかった!
遠くへの旅もいいけれど、もっと足元を見直さないとと反省しきり<(_ _)>
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「暁の祭典 浜降祭」
「新緑の鞍馬寺・貴船神社 義経伝説とパワースポットを追って(1)~(3)」
「そこにある巨樹 ― 春日部駅近くの巨樹めぐり」
「雙林寺の七不思議と巨樹」
雙林寺の七不思議と巨樹 [巨樹・巨木]
雙林寺は、1447年に白井城主の長尾景仲によって建てられたというから、570年近くの歴史がある曹洞宗の名刹だ。
江戸時代には徳川将軍家とも縁が深く、将軍が交代する際には雙林寺住職による「城固めの法問」が行われたそうだ。
慶長年間には曹洞宗の僧録職に任ぜられ上野国・信濃国・越後国・佐渡国の総取締として大勢力を誇ったという。
そういえば、総門の屋根やお焼香の香炉にも、徳川家の葵の御紋が付いていた気がする。
総門は閉じているので、右手の門から鐘楼の脇を通り本堂に向かう。
本堂内部の欄間も、立派な透かし彫りが施されている。
板襖の襖絵は、残念ながら退色、剥離してしまっている。
開山は大雄山最乗寺第七世の月江正文禅師で、この御縁から現住職の御尊父も現在は最乗寺にお勤めだそうだ。
なお、「最乗寺」は、神奈川県南足柄市にある600年以上の歴史を持つ曹洞宗の古刹で、妙覚道了が祀られていることから「道了尊」とも呼ばれている。
また、世界一といわれる天狗の大下駄もあり、箱根の明神ヶ岳へのハイキングコースの起点として、私も訪れたことがある。
雙林寺にも道了尊の御堂がある。
急な階段を上った先では、天狗と烏天狗の像がお出迎え。
雙林寺には、「七不思議」が伝えられている。
その一つ、「開山の一つ拍子木」は、寺中で悪いことが起こりそうになると、深夜に一つ拍子木が自然に鳴るという。
「山門小僧と総門のツル」は、小僧とツルの争いの結果、小僧には腕がなくなり、ツルの足には穴があいていたという。
境内の巨樹も、七不思議に数えられている。
「開山のつなぎカヤ」(雙林寺の大カヤ)は、開山の際にカヤの実で作った数珠を蒔いたところ大木になり、その実には針穴があるという。
樹齢約500年、幹周5.2mで、群馬県の天然記念物に指定されている。
実に穴が開いているかどうか、残念ながら確認するのを忘れていた。
もう一つの七不思議巨樹は、「雙林寺の千本カシ」だ。
アラカシだが、一株から数十本の支幹が叢生し、これを伐採すると災難が起こるとされる。これも県指定天然記念物だ。
七不思議ではないが、山門脇の「雙林寺のヒイラギモクセイ」も堂々とした樹勢だ。
こちらは、子持村(現、渋川市)指定の天然記念物だ。
さすが、かつては上野国と上信越の諸国を勢力範囲とした大寺院だけあって、一カ寺でこれだけ見ごたえがあるのは素晴らしい。
しかし残念ながら、近年では訪れる人も少ない。
観光地化して名刹の雰囲気がなくなるのは困るが、もっと多くの人に知ってもらいたいお寺の一つだ。
そこにある巨樹 ― 春日部駅近くの巨樹めぐり [巨樹・巨木]
ということで5月のことだが、勤務先に近い東武スカイツリーライン線春日部駅(埼玉県)東側の粕壁地区の巨樹めぐりをしてみた。
なお、この粕壁地区は、日光街道の宿場町で、「奥の細道」の芭蕉もこの地に宿泊したといわれている。
まずは、「碇(いかり)神社のイヌグス」。
春日部市市民文化会館近くにある無人の小さな祠の傍、推定樹齢600年、幹周約4.4mの巨樹だ。
南方に多いクスノキ科のイヌグス(タブノキ)としては北で生育しているということで、埼玉県の天然記念物にも指定されている。
樹勢は旺盛だが、治療によるコンクリート注入と支柱が痛々しい感じだ。
現在の碇神社の周囲は私有地に囲まれていて、もともとの参道からは入れないので、唯一開放されている市道から祠の裏側に入り込む。
市道の反対側は大落古利根川で、江戸時代には水運の重要路だったようだ。近くには下喜蔵河岸(しもきぞうがし)という船着場もあり、碇神社の名もそこが由来ともいう。
イヌグスは、この船着場への目印にもなっていたという。
大落古利根川を渡った八坂香取稲荷神社に隣接する「仲蔵院」には、樹齢250年という「牡丹つつじ」があるという。
250年もの古木、果たしてどんな巨樹か?
境内を勝手に探したが見当たらなくて、ついにお寺さんにお尋ねした。
なんと!! 樹勢が衰えてきて数日前に伐採したところだというではないか。
まだ白い切り口が、これまた痛々しい。残念。
それでも取り木用に残した枝に、一輪の花が残っていた。
どうやら八重咲のツツジのようだ。
最後の一輪。
まさにラッキーというほかない。
春日部駅近くの「最勝院」。
広い境内を有し、徳川三代将軍家光を日光に葬送する際には旅宿にもなったという。
門の奥の本堂脇にある墳墓の上には、大きなシイがある。
この墳墓は、南北朝時代に新田義貞の家臣として後醍醐天皇に仕えた春日部重行の墓という。
重行は、元弘の乱などの功により下河辺荘の武蔵国春日部郷(現在の春日部市内牧地区の一部)と上総国山辺郷の地頭職となり、春日部の祖ともいわれる。
墳墓の頂のシイの木は、巨大な墓碑として重行の功績を今に伝えんとしているかのようだ。
このシイの巨樹には、名前は付されていないのだろうか。
調べてみてもそれらしいものは見当たらない。
それならば、ということで勝手に命名してしまおうか。
「最勝院の墳墓のシイの木」はどうだろう? 「の」が多すぎるかな?
このほかにも、春日部市内に限らず、皆さんの身近なところにもまだまだ巨樹は多い。
しかし、いつの間にか邪魔になり伐採されるものも多い。
せめて名前でも付されていると、親しみも沸き、多くの人々が関心を持つことで、伐採を免れる場合もある。
巨樹に関心と愛着を持つ人々の年に一度の集い、「巨木を語ろう 全国フォーラム」も今年で29回目。
10月1日(土)と2日(日)に埼玉県秩父市で開催される。
私も共催者の全国巨樹・巨木林の会会長として参加するが、秩父路ではどんな巨樹がお出迎えしてくれるだろう。
全国巨樹・巨木林の会 全国フォーラム案内
http://www.kyojyu.com/forum/
多くの方に巨樹への関心と愛着を持っていただきたいと切に願います。
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新緑の鞍馬寺・貴船神社 義経伝説とパワースポットを追って(3) 愛のパワースポット 貴船神社
巨木フォーラム in小豆島(2) ― 小豆島の巨樹めぐり
巨木フォーラム 群馬・高崎・倉渕
パワースポット 来宮神社の大クス
ほか、マイカテゴリー「巨樹・巨木」内記事をご覧ください。
巨木フォーラム in小豆島(2) ― 小豆島の巨樹めぐり [巨樹・巨木]
前回ブログのフォーラム報告の続き。
フォーラム翌日の11月1日は、会員の楽しみでもある巨樹ツアーだ。
二つのコースに分かれたが、今回の小豆島巨樹の目玉の国指定特別天然記念物「宝生院のシンパク」と国指定天然記念物「誓願寺のソテツ」は、どちらのコースでも訪れることになっている。
私の参加したコースでは、まず「誓願寺のソテツ」を訪れた。
山門を入ると正面に巨大なソテツが現れる。
南国のソテツはもちろん自生ではなく、元禄時代に廻船業を営んでいた豪商が南九州から持ち帰って寄進したという。
巨大なソテツは、樹高もさることながら、枝分かれして横に張り出して数本の株のようだ。しかし、根元を見ると1株なのがわかる。
雌の株だけあって、大きな実も付いていた。
荒魂神社では、香川の保存木に指定されている「ウバメガシ」と「ムクノキ」を見た。
このほかにも、神社社叢にはカゴノキ、ヤブニッケイなどの大木もある。
備長炭で有名なウバメガシは、香川では「バベ」と呼ばれている。
境内に数本あるウバメガシの大木うち、保存木は社殿の北側にあり、やや傾いている。
ムクノキは、社殿の裏にあり、枝折れも認められ、老木の特徴である樹皮の剥がれも顕著だ。
そして、「宝生院のシンパク」へ。
応神天皇が小豆島遊行の際、皇踏山に登り植樹したといい、本多静六博士の調査でも樹齢1500年以上と推定されているという。
シンパクでは日本最大で、国の“特別”天然記念物の指定は、シンパクとしてはこの巨樹だけだ。
一木だが、まるで森を形成しているようだ。
根元付近の幹や枝のコブなどは、象や龍、亀などの縁起物にも見えるとして、近年ではパワースポットとしても注目を集めている。
最後の巨樹は、プラントハンターとして有名な西畠清順氏により、遠くスペイン南部のアンダルシアから運ばれてきたという樹齢1000年のオリーブ。
異国とはいえ日本のオリーブ故郷、小豆島にその雄姿はすっかり根付いたようだ。
巨木ツアーの途中では、瀬戸内海国立公園の景勝地で紅葉の名勝として有名な「寒霞渓」(紅葉には早かったけれど)で弁当昼食。
そして海賊から町を守るための入り組んだ道の町並みが残る「迷路のまち」。
自由律俳句で有名な「尾崎放哉の記念館」がある。
朱塗りの山門や三重塔が美しい「西光寺」
ここには、樹齢250年以上といわれる町天然記念物に指定されているイチョウの巨樹も。
来年の秩父路では、どんな巨樹、そして人々に会えるのか、今から楽しみだ。
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(瀬戸内海)
「巨木フォーラム in小豆島(1)」
「のんびり時間 のんびり空間 -瀬戸内直島 美術館」
(本多静六)
「本多静六と私 -日本の公園の父 そして巨樹番付」
「巨樹の番付 -本多静六と里見信生」
(巨木フォーラム)
「巨木フォーラム 群馬・高崎・倉渕」
「巨木フォーラムin伊豆 そして、全国巨樹・巨木林の会設立20周年式典」
ほか
(プラントハンター)
「アジサイとシーボルト そしてプラントハンターと植物園」
「『生物多様性と保護地域の国際関係 対立から共生へ』出版 1」
「生物資源と植民地 -COP10の背景と課題(1)」
巨木フォーラム in小豆島 (1) [巨樹・巨木]
第28回「巨木を語ろう全国フォーラム」(巨木フォーラム)が、2015年10月31日~11月1日に香川県の小豆島で開催された。
小豆島には、香川県庁での4年間の勤務(出向)の間には何度も通ったが、それ以来約30年ぶりだ。
高松からのフェリーで着いた土庄港の公園では、壺井栄の原作で映画化もされた『二十四の瞳』のモニュメント「平和の群像」が出迎える。
フォーラムは、小豆島の象徴オリーブが導入された「小豆島オリーブ公園」内のサン・オリーブで開催された。
写真右の白い建物が、フォーラム会場のサン・オリーブ
オリーブ公園内には、1908年に小豆島に初めて導入された日本最古のミッションという品種のオリーブ原木がある。
実際には、1908年導入の原木から1917年に挿し木した二世というが、それでも現存する産業用オリーブとしては日本最古だそうだ。
フォーラムに先立って午前中に開催された「全国巨樹・巨木林の会」総会では、予算・決算などの議案決議や参加団体の活動報告などのほか、今年度から開始された「巨樹の健康診断事業」が報告された。
フォーラム開催地の巨樹の健康状態を診断して、今後の保全活動に役立ててもらおうとの趣旨で、記念すべき第1号は、小豆島の巨樹のシンボル「宝生院のシンパク」だ。
幹や枝ぶり、根の状態などを外観から診断したほか、ツリークライミングによる高所診断、さらに今話題のドローンを使用した空中からの多角的な診断も実施した。
これらの調査は香川県、土庄町の協力の下、本会所属の樹木医有志のほか、地元香川県の日本樹木医会会員、NPO法人香川のみどりを育む会会員などの協働で実施された。
午後からのフォーラムには、全国各地、そして地元小豆島や高松などから、例年以上の500名を超える参加があった。
私は、共催団体の全国巨樹・巨木林の会会長として開会挨拶をした。
基調講演や事例発表などの後、地元の美島緑の少年団団員から大会宣言が読み上げられた。
そして、次回開催地の埼玉県秩父市森づくり課長にフォーラム実行委員長(土庄町長)から大会旗が引き継がれた。
こうして無事にフォーラムは終了した。
ホッとして、瀬戸内海に沈む夕日にしばし見とれた。
何時見ても、瀬戸内の夕日は絶品だ。
夜は交流会が開催された。地元からは、勇壮な和太鼓のアトラクションも披露された。
昨年の群馬県高崎市倉渕でのフォーラム以来1年ぶりで再会した会員たちは、それぞれの活動報告などの話題で盛り上がった。
翌日は、会員楽しみの巨樹をめぐるエクスカーション。
この報告は、次回のブログ記事で。
【本ブログ内関連記事】
「のんびり時間 のんびり空間 -瀬戸内直島 美術館」
「本多静六と私 -日本の公園の父 そして巨樹番付」
「巨木フォーラム 群馬・高崎・倉渕」
「巨木フォーラムin伊豆 そして、全国巨樹・巨木林の会設立20周年式典」 ほか
巨木フォーラムin伊豆 そして、全国巨樹・巨木林の会設立20周年式典 [巨樹・巨木]
その報告の前に、「第26回巨木フォーラム静岡in伊豆」を報告しなければならない。
「河津七滝 天城の滝巡り - 天城越えの旅(1)」でのお約束だから。(前回の第27回巨木フォーラムは、アップ済み「巨木フォーラム 群馬・高崎・倉渕」)
巨木フォーラムin伊豆は、2013年11月16日に、静岡県伊豆市の天城会館で開催された。
この年は、全国巨樹・巨木林の会が設立されて20周年を迎えたこともあり、フォーラムに先立つ午前中の総会では、「設立20周年記念式典」が開催された。
会への功労者の表彰などの後、「設立20周年記念宣言」を採択して終了した。
午後のフォーラムでは、基調講演、活動報告、大会宣言採択などがあった。
最後に、本フォーラム開催地の菊池伊豆市長から次回開催地の群馬県高崎市倉渕巨樹の会市川会長へ、大会旗が引継がれた。
翌日は、全国からの参加者も楽しみにしているエクスカーションが実施された。
巨樹の多い伊豆半島を4つのコースで巡るものだ。
私が参加したコースでの最初の巨樹との出会いは、「お宮の椎の木」だ。
市指定天然記念物で樹齢800年ともいわれるシイノキは、天城湯ヶ島町天城神社の拝殿参道脇に下膨れのいかにも巨樹といった姿で鎮座していた。
天城山地一帯は、かつては徳川幕府直轄地の天領、その後は皇室の御料林として、森林は保護され、特に有用材でもある杉、松、ヒノキ、ケヤキ、クス、サワラ、カシは、「天城七木制」(のちにモミ、ツガをくわえて天城九木)により禁伐となり、厳重に保護されてきた。
地元住民は、天領(御料)でのスギを伐採した跡地には、伐採させてもらったお礼にスギの苗を植えて、「お礼杉」として保護したという。
さらに、山仕事で入山する人々は、安全などを「山の神」に祈願した。今もその祠が残る。
道の駅「天城越え」にある「昭和の森会館」には、これらに関連した展示解説などもある。
昭和の森会館を出発点としてしばらく滑沢渓谷沿いの林道を散策すると、こうして保護されてきた代表的なスギで山中にひときわ高くそそり立つ、樹齢500年ともいわれる「太郎杉」(県指定天然記念物)に到達する。
かつては同様のスギも多かったが、戦時中の供出による伐採で、かつての天領の面影を残す貴重な巨樹となった。
道の駅「天城越え」の近くには、「茅野のエドヒガンザクラ(江戸彼岸桜)」もある。
伊豆地方最大級のエドヒガンザクラだが、花のシーズンではないのが残念だ。
浄蓮の滝(ジオサイト)(写真上)と旭滝(ジオサイト)(写真下)にも立ち寄り。
エクスカーション最後の巨樹は、市指定天然記念物「学舎(まなびや)の大ケヤキ」。
明治33年(1900年)に下大見尋常高等小学校(のちの白岩小学校、昭和47年に統合移転)が建設された頃は、敷地の隅の土手にあったケヤキだが、学校敷地の拡張に伴い校庭内に組み込まれるようになったという。
邪魔になったケヤキは、何度も伐採されそうになったが、ケヤキに登り、ケヤキの下で写生などをして育った多くの卒業生や地域の人々によって守られてきたそうだ。
現在でも、樹齢150年といわれる大ケヤキは、橘保育園の園庭で多くの子どもたちを見守り続けている。
第24回巨木フォーラムの際に訪れた瑞竜小学校(茨城県常陸太田市)の校庭中央を占拠するサクラ「瑞桜」の物語と重なる(「どこんじょう 震災にめげずに巨木フォーラム開催」参照)。
巨樹のあるところには、人と巨樹のそれぞれのドラマがある。
そして、どんな巨樹にも、稚樹と言われた時代があったのだ。
どんな偉人も同じだけれどもね。
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「河津七滝 天城の滝巡り - 天城越えの旅(1)」
「開祖弘法大師と源氏の盛衰 修善寺温泉から三嶋大社 - 天城越えの旅(2)」
「パワースポット 来宮神社の大クス」
巨木フォーラム:
「四半世紀を迎えた巨木フォーラム」
第27回「巨木フォーラム 群馬・高崎・倉渕」
第25回「縄文の巨樹に思いを馳せて -第25回巨木フォーラムと三内丸山遺跡」
第24回「どこんじょう 震災にめげずに巨木フォーラム開催」
第23回「巨木フォーラム in つるぎ町 -巨樹王国を支える人々の熱き想い」
第22回「日本一の巨樹の町で全国巨樹・巨木林の会会長に就任」
本多静六と私 -日本の公園の父 そして巨樹番付 [巨樹・巨木]
勤務先からほど近い埼玉県久喜市に所在する「本多静六記念館」を訪問した。
生誕地の河原井村(現、久喜市菖蒲町)にある久喜市役所菖蒲支所の5階に記念館はある。
また近くの生誕地は、記念公園になっている。
記念公園内の本多静六の胸像。(右後方が、後述の首掛けイチョウの分木)
記念館入口では、本多静六の大きな写真が出迎える。
館内には、本多静六の生い立ち、業績などが展示されている。
本多静六は、日本最初の林学博士として、日比谷公園や明治神宮の森を初めとする全国各地の公園の設計に携わった。
日本最初の西洋式公園でもある日比谷公園も、現在ではビル街の貴重なオアシス。公園内の写真上方が西洋式の芝生広場など、下方の森が日本式庭園の心字池など(霞が関の中央合同庁舎5号館より望む)。
西洋式公園にも日本庭園がある(大雪の日本庭園の心字池、2013年1月14日)。
日比谷公園内のレストラン松本楼の脇には、有名な「首掛けイチョウ」がある。
日比谷見附の道路拡張の際に伐採されそうになった大イチョウは移植不可能とされていたが、本多静六は「首にかけても移植させる」と言って実行したそうだ。それ故にこの名があることが、表示板に記されている。
このイチョウは、本多静六記念公園(↑に記載)にも分木されている。
首掛けイチョウの樹下では、その出来事を知ってか知らずか、人々がおいしそうに食事や談笑をしている。
明治神宮の造営では、神社にふさわしい杉林造営を主張する総理大臣大隈重信に対して、百年先を見越した天然更新の常緑広葉樹林を主張して、結局は大隈を説き伏せたということが、5月2日放映のNHKスペシャル「明治神宮 不思議の森~百年の大実験~」で紹介されていた。
参拝者で賑わう明治神宮の本殿(2010年1月)
明治神宮参道(代々木門)と常緑広葉樹の森
公園の設計だけではなく、由布院温泉(大分県)などの地域振興策、野辺地(青森県)鉄道防雪林(日本最古)などの造林、さらには日本の国立公園制度の創設にも携わった。
これらの業績により、「日本の公園の父」とも呼ばれている。
私にとっては、単に勤務先の共栄大学所在地が生誕地に近いだけではなく、東京大学林学科での恩師達の大先輩(ということは、私も不肖の孫孫・・弟子?)であり、さらに国立公園行政に携わった私にとってその源の制度創設者でもあるなど、個人的にも深い関わりがある。もっとこじつければ、東京生まれの私の先祖も、やはり埼玉県出身というところだ。
さらに、本多静六は『大日本老樹名木誌』を著すとともに、『大日本老樹番付』も作成し、蒲生の大クス(鹿児島県)を東の横綱に据えるなど、現在私が会長をしている「全国巨樹・巨木林の会」にも深い関わりのある人物だ。
本多静六作成の大日本老樹番付(第22回巨木フォーラム会場(鹿児島県蒲生町)での展示)
その全国巨樹・巨木林の会が開催地元と共催で毎年開催している「巨木を語ろう 全国フォーラム」が、来年は埼玉県秩父市で開催される(今年は、10月31日(土)・11月1日(日)に香川県小豆島で開催)。
その秩父市(大滝村)には、晩年に本多静六が埼玉県に寄付した山林が残されている(東京大学にも寄付して、秩父演習林となっている)。
これらの森林は、本多静六自身が築いた多額の資産の一部でもある。山林だけではなく、現金資産も公共に寄付し、現在でも埼玉県では「本多静六博士奨学金制度」を運用している。
このように、本多静六は、日本の公園の父としての業績だけではなく、苦学した経験を活かした「処世の達人」としても知られており、多くの著作も著している。
本多静六の膨大な著作(記念館内の展示)
私は、本多静六の独自の実践的幸福論の数々も知らないし、『処世の秘訣』などの著作も読んではいない。
しかし、「職業の道楽化」は以前耳にしたことがあり、いたく気に入っている。
記念館に展示されている『本多静六人生訓』の中に「人生の最大の幸福は職業の道楽化にある」の一節もある。
以前のブログでも記したけれども、「職業の道楽化」の一点だけは、本多静六の教えを忠実に実践していると自負できる?!
これまでたくさんのniceをありがとうございました。
はなはだ勝手ながら、都合により当分の間、niceを閉じさせていただきます。
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「巨樹の番付 -本多静六と里見信夫」
「巨木フォーラム 群馬・高崎・倉渕」
「縄文の巨樹に思いを馳せて -第25回巨木フォーラムと三内丸山遺跡」
「四半世紀を迎えた巨木フォーラム」
「どこんじょう 震災にめげずに巨木フォーラム開催」
「巨木フォーラム in つるぎ町 -巨樹王国を支える人々の熱き想い」
「日本一の巨樹の町で全国巨樹・巨木林の会会長に就任」
「全国巨樹・巨木林の会と巨樹調査再考」
その他、国立公園については左上↑カテゴリーの「保護地域 -国立公園・世界遺産」を
巨樹・巨木については、同じくカテゴリー「巨樹・巨木」をご覧ください。
これまでたくさんのniceをありがとうございました。
はなはだ勝手ながら、都合により当分の間、niceを閉じさせていただきます。
巨木フォーラム 群馬・高崎・倉渕 [巨樹・巨木]
紅葉が始まった快晴の去る10月24・25日に群馬県高崎市倉渕町で、『巨木を語ろう 全国フォーラム』(巨木フォーラム)が開催された。
巨木フォーラムは、1988(昭和63)年に兵庫県柏原町(現、丹波市)で第1回が開催されて以来、全国持ち回りで開催されてきた。四半世紀を迎えた2013年に青森市で第25回が開催され、昨年は伊豆市、そして今年の高崎市で第27回目だ。
今回は、市町村合併前の倉渕村の市川元村長を会長とする「倉渕巨樹の会」が中心となった手作りの大会だ。フォーラム地元の倉渕中学校3年生全員による歓迎演奏に始まり、開会式、基調講演、発表と続き、最後には次回(来年10月予定)の香川県小豆島を代表して土庄町長に大会旗が引き継がれた。
夜には懇親会が開かれ、全国から集まった巨樹愛好家たちが一年ぶりの再会を喜び、地元の人々との交流を深めた。懇親会の料理も、地元食材のコンニャク、下仁田ネギ、ソバをはじめとする手作りで、上州名物の焼きまんじゅうもおいしかった。
翌日25日には、「赤城山コース」「妙義山コース」「榛名山コース」「白根山コース」の4コースに分かれて巨木ツアーを楽しんだ。悠久の時を経て、地元の人々に愛され、育まれ、守られてきた巨樹には、それぞれの物語があり、どれもが風情のある姿をしている。
杉の巨木の多い赤城神社境内でも本殿脇の2本の杉は、樹齢1000年ともいわれ、
藤原秀郷(俵藤太)が平将門と国府(前橋市)に向かう途中で植えたという
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巨木フォーラム
「縄文の巨樹に思いを馳せて -第25回巨木フォーラムと三内丸山遺跡」
「四半世紀を迎えた巨木フォーラム」
「どこんじょう 震災にめげずに巨木フォーラム開催」
「震災復興への思いを込めて 被災地での巨木フォーラム」
「巨木フォーラム in つるぎ町 -巨樹王国を支える人々の熱き想い」
「日本一の巨樹の町で全国巨樹・巨木林の会会長に就任」
「全国巨樹・巨木林の会と巨樹調査再考」
巨木信仰など
「パワースポット 来宮神社の大クス」
「クリスマスツリーと巨樹巨木信仰」
「巨木文化と巨石文化 -巨樹信仰の深淵」
「諏訪の御柱祭と巨樹信仰」
「巨樹の番付 -本多静六と里見信生」
「悠久の時そして林住期 -余暇と巨樹とを考える」
【著書のご案内】
世界は自然保護でなぜ対立するのか。スパイスの大航海時代から遺伝子組換えの現代までを見据えて、生物多様性や保護地域と私たちの生活をわかりやすく解説。
対立を超えた共生を提言するなかで、巨樹の継承についても。
本ブログ記事も多数掲載。豊富な写真は、すべて筆者の撮影。
高橋進 著 『生物多様性と保護地域の国際関係 対立から共生へ』 明石書店刊
本ブログ記事 「対立を超えて -『生物多様性と保護地域の国際関係 対立から共生へ』出版4 」ご参照ください。
パワースポット 来宮神社の大クス [巨樹・巨木]
念願の来宮神社の大クス(大楠)を見て来た。何度も神社の近くまでは車で行ったことはあったが、大クスまで行ったことはなかった。
静岡での用務が早く終ったので、急に思いたった。今年2回目のインドネシア行きの直前、3月始めだった。熱海の近くということは知っていたが、最寄り駅などはスマホのアプリで調べた。便利になったものだ。最寄り駅はJR伊東線の来宮駅だが、東海道線の熱海駅からも徒歩15分くらいというので、熱海駅で途中下車した。
神社までの山の斜面に沿った道からは、温泉街の先に春の陽光にきらめく海が臨めた。その温泉街がさびれたと言われて久しい。身売りされた旅館やリゾートマンションも多いと聞く。なるほど、解体工事中のホテルも見える。
伊東線のガードをくぐると、すぐに神社の入り口の朱塗りの鳥居が目に飛び込んでくる。その右手にも大クスがあるが、目当ての大クスはもっと奥のようだ。
本殿に参拝して、いよいよ裏手の大クスに到達した。神社作成の故事来歴書によると、延喜式神社の「来宮」(きのみや)神社は、かつては「木宮」と表記されたという。その社名の由来ともなった、ご神木の大クスは、樹齢二千年といわれ、1935(昭和8)年には国指定天然記念物にもなっている。1992(平成4)年の環境庁(当時)の全国巨樹巨木林調査によると、全国で鹿児島県の蒲生の大クスに次いで2位、本州で最大の幹周(約24m)という。さすがに、その節くれだった幹の巨大さに圧倒される。
なんでも、今から120年も前のこと、熱海村の漁業権にまつわる事件の訴訟費用をねん出するために伐採しようとしたところ、白髪の老人が現れて伐採を阻み、大ノコギリも真っ二つに折れてしまったとか。
現在では、大クスの周りを一周すると寿命が一年延びるといわれ、老若男女で賑わっている。訪れたのが春休み中だったこともあってか、特に若い人の姿が目に付いた。最近は、パワースポットとかいうらしく、それもあって若者が押し掛けているらしい。春休みのせいだけではなかった。
ここでも、皆さん、巨樹の幹に手を触れて、その生命力にあやかりたいと祈っていた。洋の東西を問わず、パワーを持つ物には触れてみたくなるようだ。仏像でも、ヨーロッパの大理石像でも、多くの人に触れられて、そこだけ光ってツルツルになっていることがよくある。
そういえば、かつて樹医(現在の樹木医の名称がまだない頃)として全国を駆け回って銘木の治療をした山野忠彦さんと生前に交流したことがある。山野さんは、治療の際には必ず木の肌に手を当てて、木の声を聞くという。そして、巨樹から生命力をもらい、90歳を過ぎた当時、元気にしているとお話しされていた。その山野さんも、1998(平成10)年、98歳で生涯を全うされた。
ところで、巨樹参拝の前に熱海駅前の食堂で食べたのが、これ。マグロ、アジ、キンメダイの刺身の三色丼定食(写真上)。これがまた、美味しくて安い。ついでに、たまたま本日入荷のメニューにあったマンボウの刺身も注文してみた。白身のやわらかい肉で、キモも添えられていた(写真下)。生まれて初めての経験だ。さすがに人気の店で、ネットでも紹介されているだけあって、ここでも若者たちの長い列が続いていた。
かくして、念願の巨樹探訪とグルメの旅は無事終わった。新緑の今頃は、ますます生命力にあふれていることだろう。
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「クリスマスツリーと巨樹巨木信仰」
「巨木文化と巨石文化 -巨樹信仰の深淵」
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その他、巨樹関係記事多数(マイカテゴリー「巨樹・巨木」参照)
クリスマスツリーと巨樹巨木信仰 [巨樹・巨木]
我が家の周囲でも、電飾された家の壁面をよく見かける。近所同士で競って、名所となっているところもあるらしい。節電の観点からはあまり感心できないが。
今からふた昔も前になるが、12月に米国東部に滞在したことがある。ニューヨークのロックフェラーセンター前広場の巨大なツリーも印象深いが、郊外の家々の玄関ドアーに飾られたら素朴なクリスマスリースが懐かしい。
ところで、クリスマスツリーはキリスト教以前の原始信仰に由来するといわれている。このブログでも、何回か記事で触れてきた。「巨木文化と巨石文化 -巨樹信仰の深淵」 「諏訪の御柱祭と巨樹信仰」
ヨーロッパの高緯度地方では、冬の時期には日照時間が極端に短くなるというか、ほとんど太陽が出なくなる。そこで、ケルト民族などは古代から太陽信仰に根ざして、冬至の時期に祭りごとをしていた。もともと森の民は、オーク(カシ)などの巨木信仰を持っていたが、冬でも緑で葉の落ちない(常緑)モミの木は特に神聖な木として、悪霊除けなどにも用いたという。
キリスト教普及期には、このような土着信仰の行事なども取り入れて拡大を図ったようだ。昨日(12月22日)の朝日新聞(be面)では、聖路加国際病院理事長の日野原重明さんがマルティン・ルターが教会にモミのクリスマスツリーを飾り出したという話を紹介していた。ちなみに、日野原さんは、正真正銘のクリスチャンだ。
先週滞在していたインドネシアは、国民の9割がイスラム教徒という。そのインドネシアでも、首都ジャカルタの巨大ショッピングモールには巨大なツリーやサンタなどが飾り付けられている。もともとインドネシアでは、イスラム教といっても西アジア諸国のような強い戒律ではなく、土着信仰も混在して息づいている。さすがに地方の食堂にはビールはないが、伝統的なドブロク的なものはあるところにはあるし、都会のマーケットでは地元産ビールのビンタン・ビールが山積みになっている。
日本でも、別にキリスト教徒でもないのにクリスマスのイベントやツリーがあるし、仏教も神道も混在している(少なくとも、廃仏毀釈・神仏分離をしなければならないほどかつては混在していた)のだから、固いことは言わないことにしよう。
宗教に関係なく、クリスマスツリーやサンタからのプレゼント、そしてケーキは、いつまでも子どもたちの思い出に残るだろう。それでよいのだ!!
(写真右上) 電飾のクリスマスツリー(高松市内アーケード街)
(写真左上) イルミネーションで飾られた街路(東京・丸の内)
(写真右下) オークの巨木(ドイツ・ヴィルム島)
(写真左下) インドネシアでのクリスマス装飾(ジャカルタ市内のショッピングモール)
(関連ブログ記事)
「巨木文化と巨石文化 -巨樹信仰の深淵」
「諏訪の御柱祭と巨樹信仰」
「縄文の巨樹に思いを馳せて -第25回巨木フォーラムと三内丸山遺跡」
「バルト海の小島でワークショップ」
巨木文化と巨石文化 -巨樹信仰の深淵 [巨樹・巨木]
藤森さんによると、日本の八百万の神々をはじめ、世界中にあるアニミズムは、旧石器時代の農耕と結びついた地母神信仰の所産であるという。
その後の新石器時代になると、環状列石(ストーン・サークル)、立石(スタンディング・ストーン)、巨石墳墓(ドルメン)などの巨石文化が世界各地に出現した。これらの巨石文化は、太陽神信仰と結びついているという。巨石建造物、そびえ立つ柱は、太陽に向けて作られ、絶対性、唯一性を表現すべく、巨大で太陽にとどくほど高くなったという。
そういえば、以前訪れたアイルランドの巨石の世界遺産、ニューグレンでも内部に入ると、ガイドが電灯で冬至の日の出の光が墓室の最奥部にまで差し込むことを説明していた。マチュピチュ遺跡の太陽の神殿でも、夏至と冬至の日にだけ太陽光が射しこむように窓が作られていた。この類の太陽信仰と関連するものは、世界中にある。
ところで、この前の三内丸山遺跡のブログでは、縄文の巨樹と建物との関連は知らないと言いながら、吉野ヶ里遺跡、出雲大社、伊勢神宮などの巨柱の建物や諏訪大社の御柱祭に触れた(「諏訪の御柱祭と巨樹信仰」)。私は、巨木文化や巨樹信仰は、あの悠久の時を経てきた異形の姿、雄大さに、畏敬の念をもつことから始まったものだと思っていた。
これについても、藤森さんは明快だ。つまり、巨柱や巨石のスタンディング・ストーンは、太陽信仰に基づく、魂の天への発射台だという。自然の樹や岩に神が寄りつく“依代”(よりしろ)や“磐座”(いわくら)という地母神的な水平なものではなく、天に向かう垂直のものだそうだ。そして、この巨柱(立柱)にカバーとしての神殿が作られたのが、出雲大社や伊勢神宮だという(詳細は、藤森さんの著書をお読みください)。
創建当初は40メートル近い高さといわれる出雲大社も、少しでも太陽に近づきたいという願望の表れと考えれば納得もいく。日本の門松やキリスト教のクリスマスツリーも、元をたどれば巨樹信仰につながることをきいたことがある。研究調査で訪問するインドネシアでは、独立記念日などに巨柱の上に贈り物を吊り下げ、若者がそれを登って手にするイベントがある。これもルーツは巨柱・巨木信仰なのだろうか。
書物全体の3分の2ほどが、巨木文化と巨石文化に割かれている藤森さんの『人類と建築の歴史』。書名からは想像だにできなかったが、さすが「路上観察学会」まで立ち上げた幅広い見識からの建築史は、巨木文化と巨石文化にまで溯らざるを得なかったのだろう。
洋の東西で、巨木文化と巨石文化はつながっている。そして、日本の縄文のクリに相当する西欧のオーク(ナラ、カシ)もドングリの木だ。ウィリアム・ブライアント・ローガン『ドングリと文明 -偉大な木が創った1万5000年の人類史』(日経BP社)や佐々木高明『日本文化の基層を探る -ナラ林文化と照葉樹林文化』(NHKブックス)も、文化と巨樹に関心のある人には一読の価値があるだろう。
今回の読書は、図書館の廃棄本を手にしただけだったが、思いがけないところで「巨樹・巨木」に巡り会った。そして、何となく得した気分になった読後だった。これだから人生は楽しい。
(写真右上) 三内丸山遺跡の六本柱掘立建物(復元)
(写真左上) 巨石文化のひとつ 世界遺産ニューグレン(アイルランド)
(写真右中) 太陽の神殿(世界遺産マチュピチュ遺跡・ペルー)
(写真左下) 巨柱のイベント(インドネシア・ロンボック島にて)
(写真右下) オークの巨木(ドイツ・ヴィルム島にて)
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縄文の巨樹に思いを馳せて -第25回巨木フォーラムと三内丸山遺跡 [巨樹・巨木]
今回のフォーラムは、地元の会員が中心になり、手作りのフォーラムを開催した。来年は、静岡県の伊豆市での開催が決まり、大会旗が出席した伊豆市の副市長さんに引き継がれた。
ところで、青森にはスギやケヤキをはじめとする巨樹が県内各地にある。また、世界遺産のブナ林で有名な白神山地のほか、十和田・八甲田山などの巨木林も多い。特にイチョウとして日本一の幹周を誇る深浦町北金ヶ沢の『垂乳根のイチョウ』(幹周2200㎝)(国指定天然記念物)をはじめ、国内最大級のイチョウの巨樹が県内巨樹ランキングの上位を占める。どうしてこんなにも県内にはイチョウの巨樹が多いのだろうか。
以前から訪れたいと思っていた「三内丸山遺跡」に行った。私たちの年代の者が学校で習った縄文時代のイメージを大きく変える発掘があった遺跡だ。今から約5500~4000年前の1500年にわたり、日本最大級の縄文集落があったとされ、特別史跡にも指定されている。発掘された縄文土器、土偶、装身具などのなかでも、三内丸山遺跡を有名にしたもの、そして私が最も関心を持っていたものは、直径1メートルものクリ材を使用して正確な間隔で建てられていた「六本柱建物跡」だ。
縄文の時代には、周囲はクリ、トチノキ、クルミなど実のなる広葉樹で覆われ、また意識的にこれらの樹種を栽培してもいたという。しかし残念ながら、六本柱建物の復元に際しては、国内ではこのような巨樹材は手に入らず、ロシアのクリの巨樹を利用したという。ちなみに、環境省調査の巨樹・巨木林データベースによれば、直径1m(幹周330㎝)のクリは、全国で80本弱だ。
縄文の巨樹の建物との関連は知らないが、吉野ヶ里遺跡の櫓や出雲大社、伊勢神宮などの巨大な柱をもつ建物も知られている。また、巨樹のシンボルともいえる柱を用いた諏訪の御柱祭りも有名だ。
世界各地にも、巨樹信仰や巨樹に関連した文明は多い。以前訪れたアイルランドでも、泥炭地から出土した巨樹のカヌーを博物館で見たことがある。現在の荒涼とした樹木もみかけることができない姿からは想像もつかない。モアイ遺跡で有名なイースター島でも、巨石文明が誕生したのは、島が緑で覆われていた時代で、緑の消滅とともに文明も衰退したという(クライブ・ポンティング『緑の世界史』(朝日選書)ほか)。
巨木フォーラムの四半世紀は、これら人類の文明史ではほんの一瞬だ。悠久の時を経てきた巨樹と張り合うこともできないが、末永く継続されるよう、これからも多くの方々のご支援を期待している。
なお、東京62市区町村による共同事業の「ECOネット東京62」からの依頼で執筆した『地域とつながり、地域をつなぐ巨樹』が、「エコアカデミー第14回」としてアップされた。これまで、このブログでも取り上げた巨樹のドラマを掲載している。合わせてご覧いただければ幸いだ。
(写真上)十和田のブナ巨木林
(写真中)三内丸山遺跡六本柱遺構
(写真下)復元された六本柱
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四半世紀を迎えた巨木フォーラム [巨樹・巨木]
巨木好きの人々などが年に一度集う「巨木を語ろう 全国フォーラム」が、今年は10月に青森市で開催される。
この巨木フォーラム。第1回目は、まもなく昭和も終わる昭和63年(1988年)10月に兵庫県柏原町(現、丹波市)で開催された。これから数えて、今回は第25回め、四半世紀にわたり続いてきたことになる。
第1回目の柏原町には、樹齢千年ともいわれるケヤキの大木の根が奥村川をまたいで橋のようになった「木の根橋」がある。根はすぐ脇の町役場庁舎の下にまで伸びていた。樹勢の衰えたこの大木を守るため、庁舎の一部を解体して保護を図ることになった。その巨木保護の意義と努力を町民、そして全国の人々に知ってもらおうと始まったのが、巨木フォーラムだ。
当時、環境庁で「巨樹・巨木林調査」の担当だった私は、安井町長(故人)らの訪問を受け、フォーラム開催について協力した。フォーラムには、パネリストとしても参加した。その時から25年、今回は「全国巨樹・巨木林の会」会長として参加する。
今年の青森でのフォーラムは、地元の巨樹関係者が手作りで開催する。10月12日(金)の午後からフォーラム、そして翌日から1泊2日で県内の巨樹探訪に出かけることになっている。詳細は、全国巨樹・巨木林の会ホームページで。 http://www.kyojyu.com/forum/2012/index.html
なお、「全国巨樹・巨木林の会」も来年には設立20周年を迎える。20周年記念のイベントなども企画中だ。巨樹に関心のある方は、ぜひ入会もお願いしたい。
四半世紀を迎えた巨木フォーラムだが、悠久の時を生きてきた巨樹からみればほんの一瞬のことだろう。しかし人間の尺度からは、そろそろ歴史をも生じてきたと言ったら大げさすぎるだろうか。いずれにしろ、当初から関わってきた者としては、感慨もひとしおだ。そして、巨樹のごとくとは言わないが、巨木フォーラムも末永く続くことを期待したい。
第1回フォーラム開催のきっかけとなった木の根橋のように、各地に巨樹と人間とのドラマがある。巨木フォーラムでは、こうしたドラマに出会えるのが楽しみだ。その一部は、このブログでも紹介してきた。樹木医さんたちの日本樹木医会の機関誌「ツリードクター」に寄稿を依頼されて、これらドラマを紹介した(第19号、2012年発行)。
今年のフォーラムでは、どのようなドラマが待ち受けているのだろうか。
(写真上)第1回フォーラムの地、柏原町の木の根橋
(写真下)日本一の巨樹 蒲生の大クス(鹿児島県蒲生町(現、姶良市)、第22回フォーラム開催地)
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巨樹との再会に思う [巨樹・巨木]
ボゴール植物園(インドネシア)を久しぶりに訪れた私の目的の一つは、その巨樹に再会することだった。その巨樹とは、15年前に私がJICA生物多様性プロジェクトの初代リーダーとしてボゴールに住んでいた頃に初めて出会ったものだ。その巨樹は、フタバガキ科の大木で、巨大な板根を有している。日本に残してきた高校1年(当時)の娘が正月休みに来イした際に、インドネシアに連れてきた中学生(当時)の末娘と二人でその巨大な板根の上で写真を撮った。
その写真は、今でも授業や講演などで熱帯雨林の特徴を紹介する際に使用することがある。熱帯雨林は温度も高く、菌類その他の生物も豊かで、落葉などはすぐに分解されてしまう。おまけに降雨量も多いから、流亡も激しく、養分の豊富な土壌の厚さは日本に比べればずっと薄く、樹木の根は浅い。一方で、高い温度と豊富な水分、そして強い日射は、樹木の成長を促進する。いわば巨体だが足腰の弱い相撲取りのようなものだ。熱帯林の中では、ダウンバーストと呼ばれる強い下降気流などにより横倒しになった巨木を見ることができる。その巨木の根は、まるでおちょこになった傘ように底が平らで薄い。そのため、巨体を支える支柱のような役目をしているのが板根だ。
ボゴール植物園のその巨樹との久しぶりの再会だったが、それが写真と同じ樹木とはとても思えなかった。私の記憶の中の巨樹は、娘たちを抱きかかえて飲み込んでしまうような巨大な板根を持っているはずだった。しかし目の前にあるのは、確かに巨大な板根ではあるが、記憶の中の巨樹に比べればずいぶんと見劣りする。私は、ひょっとしたら他の樹木だったかもしれないと思い、懸命に目を凝らしながら園路を進んだ。結局はそれ以上の板根は現れなかったし、およその位置には間違いはないはずだから、例の写真の巨樹に違いない。まだ幼さの残っていた娘たちとの記憶の中の巨樹と、自分ひとりだけで眺めた巨樹と、同じ樹木のはずがまったく別のものとしか思えなかった。
人の記憶とは、ずいぶん曖昧なものだ。時には、つらく苦しい記憶は忘れ去ってしまう。逆に、楽しかった思い出のみが積み重ねられていく。それが人類が長い歴史の中で獲得してきた生きる術というものなのだろう。私のインドネシアでの生活、子供がまだ幼かった頃の生活、を巨樹との再会で思い出した。この歳になると、そろそろ人生を楽しく悔いのない思い出で満たしておきたいと思うようにもなってくる。
(写真)15年前の娘たちと板根のある巨樹の写真(ボゴール植物園にて)
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「インドネシアの生物資源と生物多様性の保全」
「インドネシア生物多様性保全プロジェクト1」