原始の自然と伝統文化の島々 世界遺産への再挑戦 -国立公園 人と自然(24)西表石垣国立公園(その3)世界遺産への期待と観光化 石垣島 [ 国立公園 人と自然]
以前訪れたのは、石垣島白保沿岸のアオサンゴなどサンゴ礁を埋め立てる新空港計画が持ち上がり、反対運動が盛んになった頃、30年以上も前で、ずいぶん昔のこととなった。
巨大なアオサンゴの群体が並ぶ海中は、カラフルなイメージのサンゴ礁と比べて、なんとなく不気味な感じだったことを覚えている。
現在の新石垣空港(2013年開港)は初めての利用だ。
東京/羽田や大阪/関西からも直行便が就航するようになり利用者も増加したが、航空機だけではなく、大型客船クルーズによる台湾などからの観光客も急増しているという。
今回の訪問時にも、石垣港の沖合には豪華大型客船が停泊しており、町中には中国人らしき観光客があふれていた。
石垣島でも絶景の地として名高い川平湾にも、多くの観光客が訪れている。
ほかにも、「石垣島鍾乳洞」や国登録有形文化財の民家などが移築されている「石垣やいま村」など観光地は多い。
さらに2016年には、西表島のほぼ全島が国立公園に拡張された。
政府では、この「西表石垣国立公園」を含め、「慶良間諸島国立公園」(2014年3月5日(サンゴの日)指定)、「やんばる国立公園」(2016年9月15日指定)、「奄美群島国立公園」(2017年3月7日指定)などの地域を「奄美・琉球諸島」世界自然遺産として登録することを目指している。
2016年2月には世界自然遺産候補としてユネスコに推薦されたが、同年5月にユネスコ諮問機関の国際自然保護連合(IUCN)から、やんばる国立公園(沖縄本島)の「やんばるの森」などをめぐる区域見直しなどで登録延期の勧告を受けてしまい、政府は推薦書を取り下げた。
世界遺産の世界的件数増加により、ここ数年ユネスコは各国1件の推薦しか認めない。
このため、今年(2019年)の登録候補としては「奄美・琉球諸島」の再推薦は見送った。
仁徳天皇陵などとして有名な「百舌鳥・古市古墳群」(文化遺産)1件に絞って推薦し、先日7月6日の世界遺産委員会で承認・登録されたところだ。
かつて訪れた「あべのハルカス」から展望した光景の中に点在する緑の島々も、世界遺産に登録された古墳群かもしれない。
政府としては、来年(2020年)の世界遺産会議での登録を目指して、再度の推薦書を提出することを閣議了解し推薦書を提出した。
秋ごろまでには再度IUCNの現地調査があり、登録可否の勧告書が提出される予定だ。
しかし、世界遺産の登録となれば、さらに観光客が急増することだろう。
それ自体は大変喜ばしいことだが、屋久島、知床、小笠原などでは、世界遺産登録後の観光客急増で、外来種導入を含めた様々な問題が起きている。
観光業としては恩恵を受けるかもしれないが、売り物である自然が損なわれてしまっては、観光業そのものも存続できない。
まさに、「持続可能な観光」でなければならない。
登録延期・再チャレンジを機会に、西表、石垣など八重山の島々の自然や文化が、世界遺産登録で損なわれたということのないように対策を考えたいものだ。
1972年5月指定
2007年8月名称変更
面積40,653㌶(陸域)
沖縄
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あべのハルカスと月の法善寺横丁
原始の自然と伝統文化の島々 世界遺産への再挑戦 -国立公園 人と自然(24) 西表石垣国立公園(その2)サンゴ礁と伝統的家並み 竹冨島 [ 国立公園 人と自然]
その海域には、竹冨島、黒島、小浜島、新城島(パナリ島)など隆起サンゴ礁の島が点在している。
竹冨島、黒島、小浜島には石垣島の石垣港から定期船が出ているが、人気のダイビングやシュノーケルのツアーのためのクルーズ船も盛んだ。
ここのサンゴ礁とその間を縫う熱帯魚の海中景観は世界で一番美しいと評するダイバーが多い。
これら海中景観などを保全するために、現在23か所の「海域公園地区」が指定されている。
私たちが目にするカラフルなサンゴは、イソギンチャクなどに近いサンゴ虫(動物)で、中には褐虫藻という藻類(植物)と共生しているものもある。
藻類と共生しているサンゴは、造礁サンゴとも呼ばれ、この地域の島々の骨格を形成してきたものだ。
また、植物との共生だから、光合成に伴う二酸化炭素の吸収と酸素供給も行い、熱帯雨林などとともに、地球温暖化防止や生物生存のためにも重要な役割を果たしている。
しかし残念ながら近年では、まるで骨が海底に散乱しているような、色のない異様な光景が広がっている。これは、サンゴが死滅したものだ。
かつては、陸上からの赤土の流入やオニヒトデによるサンゴの死滅が多かった。
しかし最近の死滅は、地球温暖化に伴う海水温の上昇によるもので、白化現象(ブリーチング)と呼ばれ、グレート・バリア・リーフ(オーストラリア:世界遺産)など世界中に広まっている。
白化現象によって海底に散らばるサンゴの残骸は、まさに生命のない世界だ。
それでも、ところどころには熱帯魚が泳ぎ、新たなサンゴ再生も見ることができる。
「星砂」として知られる星形をした小さな粒は、有孔虫の殻だ。
単細胞生物だが、サンゴと同様に炭酸カルシウムで殻を形成して炭素固定も行い、また藻類と共生しているものもあって光合成で酸素を供給するなど、まさにサンゴ礁と同じく私たちの生命の基盤ともなっている。
竹冨島では、「カイジ浜」が星砂の浜として有名だ。
サンゴの石積み、赤瓦と白い漆喰の家並みが美しい竹富島は、沖縄県では初の国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
しかし現在では、観光客が多くなり、戸に鍵をかけないですむ生活も少しずつ変化してきているという。
動植物も人間も、外部から入ってきたものによってそれまでの生活の変化を余儀なくされているのだ。
それでも竹富島では、夕方ともなればどこからともなく三線(蛇皮線)の音が聞こえてきそうな雰囲気がまだ残っている。
いや、雰囲気だけではなく、実際に三線ののどかな音色が聞こえてくる。
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原始の自然と伝統文化の島々 世界遺産への再挑戦 -国立公園 人と自然(24) 西表石垣国立公園(その1)ヤマネコとの対立から共存へ 西表島 [ 国立公園 人と自然]
西表石垣国立公園は、わが国最西南端の国立公園で、その中心の西表島は、南西諸島では沖縄本島に次いで大きな島で、鹿児島から約1200km、沖縄本島からでも約430kmの距離だ。
むしろ台湾の方が近い。緯度も台湾、小笠原硫黄列島、ハワイ諸島などとほぼ同じだ。
国立公園には、西表島のほか、石垣島や竹富島、黒島、新城島などの島々が含まれる。
1972年4月に琉球政府による西表政府立公園として指定されていたが、復帰に伴い同年5月に「西表国立公園」として指定されたものだ。
その後2007年に、石垣島の編入により、名称も現在の「西表石垣国立公園」となった(石垣島編入の経緯などは別記事で)。
西表島には、タブ、オキナワウラジロガシ、マングローブやサキシマスオウノキなどの亜熱帯性植物が生育している。
「マングローブ」は、メヒルギ、オヒルギなど海水の入り混じる河口などに生育する樹木の総称で、西表島のマングローブ林は6種の樹種からなっている。
特に、西表島の浦内川や仲間川、後良川などの河口を中心に広がるマングローブ林は、国内最大級だ。
浦内川と仲間川では、マングローブ林観察などの遊覧船も就航している。
以前の訪問時には浦内川を遡り、マリユドゥの滝まで行ったこともあるが、今回は時間がなくて行くことができなかったので写真もない(前回の写真が見つかったらアップ)。
今回は仲間川の遊覧船。
満潮時には、マングローブの樹々は根元がすっかり海水(汽水)に浸かっている。
塩分の濃い水分を吸収しているが、その塩分は特定の葉に集中させ、落ち葉として体外(樹木外)に排出している。
川面にはこの落ち葉が、黄色い帯となって漂っている。
仲間川の上流には、板根(ばんこん)を有することで有名な樹齢約400年といわれるサキシマスオウノキが生育している。
干潮時などには水深が浅くなって、ここまではたどり着くことができないという。
途中の川の中でも生育しているのを見ることができるが、上流のような迫力はない。
熱帯林では多数の板根を有する樹木を見ることができるが、日本で自生しているのは少ない。
古見のサキシマスオウノキ群落は、天然記念物に指定されている。石垣島や奄美大島でも生育している。
はるかかなたの山中には、ヤエヤマヤシの群落も見ることができる。
西表島にはまた、イリオモテヤマネコ、カンムリワシ、リュウキュウカラスバト、セマルハコガメなどの貴重な動物も生息している。
道路の側溝は通常のU字溝ではなく、セマルハコガメなどが落ち込んでも脱出できるように、山側に緩傾斜の形式(レ字型?)となっている。
世界でここだけにしか生息していないイリオモテヤマネコは、1960年代になって初めてその存在が確認され、「20世紀最大の発見」とも言われたほどだ。
昔から地元の住民は「ヤママヤー」とか「ヤマピカリャー」と呼んで、家ネコとは違う猫の存在に気づいてはいた。琉球大学の高良鉄夫教授らは住民から標本となる毛皮などを集めていたが、沖縄では新種かどうかの確認(同定)はできなかった。
ちょうどその頃、噂の山猫の取材で西表を訪れた動物作家の戸川幸夫も、頭骨と毛皮を入手した。高良から託された毛皮と独自入手の頭骨などを東京に持ち帰った戸川は、国立科学博物館の今泉吉典博士に鑑定を依頼した。
その結果、1965年には今泉により新種と鑑定され、67年に正式に新種として学会報告された。
かつて西表島では、「人かネコか」の論争があった。1973年に現地調査した西ドイツ(当時)のライハウゼン教授が世界的に貴重なイリオモテヤマネコの保護のためには、その必要性を十分認識していない住民を島から外部に移住すべきだという考えを持った。
ライハウゼンは、自分の意見を日本の天皇に直訴したく、WWF総裁のイギリスのエジンバラ公にその書簡を送った。それが公になり、地元の猛反発を受けることになった。
地元の住民も、琉球王朝時代や日本軍政時代にかつてマラリア汚染地帯の島に強制移住させられて大変な犠牲を強いられてきた人々だ。
イリオモテヤマネコも、交通事故や家ネコとの競合、ネコウイルスによって絶滅の危機にあり、環境省の調査では100頭ほどしか生息していないと推定されている。
かつて訪れた頃には、子どもたちが沖縄本島や本土などに行った際に困らないようにと、交通ルール教育のためにわざわざ1か所だけ設置されていた信号機も、現在の西表島では観光客のレンタカーも増えて必要不可欠な設備となった。
写真は、日本最西端の信号機?
イリオモテヤマネコは、現在では西表島のシンボルとして、橋の欄干や観光バスのマークとしても目にする。
全国各地で、イノシシやシカ、サルなど野生動物による農業被害などが問題になっているが、野生との対立ではなく、共に棲む、共生の世界が広がるように工夫していきたいものだ。
西表石垣国立公園
1972年5月指定
2007年8月名称変更
面積40,653㌶(陸域)
沖縄県
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自然と文化が織りなす世界自然遺産候補 -国立公園 人と自然(23)奄美群島国立公園 [ 国立公園 人と自然]
慰霊と離島訪問の旅を続けてこられた天皇皇后両陛下が、先月、11月16日から18日までご訪問された奄美群島(ご訪問地は、沖永良部島と与論島)は、今年(2017年)3月7日に国内34番目の国立公園として指定された。
そして、世界自然遺産の候補地でもある。
奄美群島は九州と沖縄の間に位置し、奄美大島、加計呂麻島、請島、与路島、喜界島、徳之島、沖永良部島および与論島の8つの有人島と周辺の無人島から成る。
亜熱帯の温暖多雨の気候とアジア大陸と日本本土との分離・結合を繰り返した地史により、独特の自然が育まれた。
世界でも北限とされるサンゴ礁、そして隆起を続けるサンゴ礁段丘や琉球石灰岩の海食崖、カルスト地形。
そこには、国内最大規模の亜熱帯照葉樹林や海岸のマングローブ林などが生育し、そこにはアマミノクロウサギ、アマミイシカワガエル、ルリカケスなどの固有種や希少種が生息している。
また、群島内ではこれらの自然と一体となった文化も育まれてきた。
現在でも、自然への畏敬や生活と自然の強い結びつきを示す風習や各種の痕跡なども見ることができる。
奄美群島国立公園は、単に貴重な自然を保護するだけではなく、人と自然が一体となった環境文化、文化景観もその特徴となっている。
上記のとおり、「やんばる国立公園」や「西表石垣国立公園」、「慶良間諸島国立公園」とともに、「奄美・琉球諸島」世界自然遺産登録が期待されている。
2017年3月7日指定
陸域面積42,181ha 海域面積33,082ha
鹿児島県
6月に「日本熱帯生態学会」が奄美大島で開催された際に訪れたので、その時の様子をご報告。半年近くも経ってしまったが・・・
まずは海岸部の様子。
梅雨の時期の雨模様の奄美大島で、残念ながら南国のサンゴ礁の青い海は見ることができなかったが、それなりの雰囲気はあった。
住用川河口には、奄美大島最大のマングローブ林が広がる。
土砂が外海に排出されにくい地形により形成された干潟には、メヒルギやオヒルギが混生していて、奄美大島はオヒルギの北限でもある。
引き潮の時には、マングローブの根元まで歩いていくことができる。
陸部には、ミフクラギ(オキナワキョウチクトウ)の白い花。
近くの砂浜海岸では、また別の顔が現れる。
ホノホシ海岸は、太平洋に面した礫浜だ。
浜には、ハマアズキ、ハマナタマメなどが多い。
ヤドリ浜は、作家の島尾敏雄が特攻隊長として赴任して妻ミホと出会ったことでも知られている加計呂麻島との間の大島海峡に面した海岸だ。
奄美大島の最高峰は、標高694mの湯湾岳。
山頂付近は強い風の影響で風衝低木林となっていて、国指定天然記念物でもある。
イジュ、コバンモチ、クロバイ、ヤママモなどが多い。
本州のフユイチゴは秋に花が咲き、冬に実がなるのでその名がついた。
しかし、アマミフユイチゴは、初夏に花が咲いて、夏に実がなる。
マングローブ林の住用に近い東仲間には、モダマの自生地がある。
マメ科のツル植物で、巨大なサヤエンドウのような実をつける。
種子が波に乗って日本各地の海岸に流れ着いたので、江戸時代には藻玉と呼ばれたらしい。
硬い種子は、印籠の根付などにも利用されたという。
モダマ自生地から近い三郎峠付近には、照葉樹二次林が広がり、オキナワジイ、イジュなどが見られるが、夜間にはアマミノクロウサギもよく出没するという。
環境省奄美野生生物保護センターでは、展示物やビデオで奄美の自然紹介をしている。
天皇ご夫妻が奄美群島とともにご訪問した屋久島は、ともに鹿児島県に属している。
しかし自然の様子は、屋久島・種子島と奄美群島では大きく異なる。
この区分は「渡瀬線」と呼ばれている。
つまり、奄美群島の自然は、屋久島よりも沖縄諸島と類似しているのだ。
世界自然遺産が「奄美・琉球諸島」として候補地になっているのも、このためだ。
自然だけではない。
人々の生活や文化も、奄美と沖縄では共通・類似性が高い。
空港に近い奄美パークの「奄美の郷」には、奄美の文化に関する展示も多い。
ソテツの実を食べるための毒素除去作業
伝統芸能の仮面
奄美の健康飲料 〝みき″と〝くび木茶″も自然を活かしたものだ
九州と琉球(沖縄)の中間に位置する奄美群島は、古くから日本と独立国琉球王国との間で所属を巡る争いに引き込まれた。
江戸時代の薩摩藩による割譲併合や第二次世界大戦後の連合国(米軍)による支配など、鹿児島県といっても独特の歴史の波に揉まれてきた。
戦後の返還は、昭和28年(1953年)になってからだ。
まもなく迎える12月25日のクリスマスは、奄美の人々にとっては復帰後64年目の記念日でもある。
おまけ
海岸の休憩舎には、人の姿はなく、ネコの集会場となっていた。
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指定日の9月15日は、指定の33年前に固有種のヤンバルテナガコガネが発見された日だという。
国立公園区域は、沖縄本島北部の国頭、大宜味、東の3村にまたがる陸域面積13,622ha、海域面積3,670ha。
沖縄本島北部のやんばる(山原)の森は、国内最大級の亜熱帯照葉樹林で、ヤンバルテナガコガネのほか、ヤンバルクイナ、ノグチゲラ、オキナワイシカワガエルをはじめとする絶滅のおそれもある希少な固有種が生息している。
イシカワガエルなどが生息していそう?
環境省では、これら希少種の保護活動や普及啓発を行う拠点として「やんばる野生動物保護センター」を平成11年(1999年)に設置したが、平成22年(2010年)には展示棟を全面改修して「ウフギー自然館」としてリニューアルオープンした。
ちなみに、ウフギーとは地元の方言で大木を意味するという。
やんばる野生動物保護センター
1999年のオープン半年後(画像一部修正)
2014年3月5日(サンゴの日)に指定された「慶良間諸島国立公園」や2016年に大規模区域拡張された「西表石垣国立公園」、さらに本年2017年3月7日に指定された「奄美群島国立公園」などと合わせて、政府では「奄美・琉球諸島」地域の世界自然遺産としての登録を目指している。
しかし、世界遺産登録までには多くの課題も残されている。
独自の進化を遂げた固有種を含む独特の生態系として世界遺産に登録された先輩格の小笠原諸島でも、外来種による固有種への影響が登録まで、そして登録後も課題だった。
父島時雨山にて(2002年3月撮影)
やんばるでも、ノネコを含む外来種による固有種の捕食などが大きな脅威となっている。
外来種だけではない。交通事故による小動物の衝突死、貴重昆虫やランなどの採集・盗掘などもある。
また、水資源開発や都市化、観光開発などによる影響も、やんばるの森にも迫ってくるに違いない。
そして、この国立公園の大きな課題として、「米軍北部訓練場」の返還などがある。
国頭村と東村にまたがる森林地域の約7,800haは、米軍の演習場として利用されているが、今回の国立公園指定地域には含まれていない。
その一部が今後返還される予定であり、返還後に国立公園編入も含めて検討されることになっている。
しかし現状でも、部分返還に伴うヘリパッド建設やオスプレイ運行など、沖縄本島北部地域の生物多様性への影響も懸念される材料が残っている。
国際自然保護連合(IUCN)などでは、自然保護の最大の敵の一つは戦争・紛争だとしている。
国境を超えた自然保護地域の設定により関係国の友好を促進しようとする「国際平和公園」(国境を挟んだ国立公園)も、世界で100ヵ国以上の地域に設置されている。
一方で、渡り鳥などが最も安心できる生息地の一つが、70年にわたり人間の侵入もなく、戦乱もない、朝鮮半島の非武装地帯(DMZ)だというのも、何とも皮肉だ。
そして、自然だけではなく、文化財も戦火などで破壊される例が後を絶たないのは、何とも悲しいことだ。
少しでもこれを阻止する力となりたいと思う。
陸域面積13,622ha、海域面積3,670ha
沖縄県
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風景への審美眼を一変 指定30周年を迎えたわが国最大の湿原 -国立公園 人と自然(21) 釧路湿原国立公園 [ 国立公園 人と自然]
テレビで目にするキリンやゾウが生息するアフリカのサバンナ(草原)を連想させる。
そこには、タンチョウをはじめ、キタサンショウウオや幻の魚とも呼ばれる巨大魚イトウなど貴重な動物が生息している。
わが国最大の湿原であり、水鳥と湿地保護のための条約、ラムサール条約のわが国第1号の登録湿地でもある。
しかし、釧路湿原は、80年以上の歴史を有する日本の国立公園の中で、国立公園に指定されたのは意外と新しい1987年7月だ。
そう。今年で指定30周年を迎えたばかりなのだ。
こんなに貴重な湿原がなぜ30年前に国立公園指定なのか、疑問に思うのも無理はない。
そこには、日本人の風景観や自然保護思想の変遷が読み取れる。
釧路湿原は、数万年という気の遠くなるような長期間の気候変動と海水の進退によって形成され、約3000年前に現在の姿に近い湿原になったといわれている。
寒冷で霧の発生が多く泥炭が発達したこの地域は農業にも適さず、長らく人間活動の対象地とはならなかった。
最近はあまり耳にしなくなったが、不毛の原野「根釧原野」という呼び名がそのことを象徴している。
その根釧原野に「釧路湿原」という名を与えたのは、植物学者の田中瑞穂だった。
1931年に制定された「国立公園法」から始まるわが国の国立公園は、箱庭的で多様な風景が寄せ集まった地域をわが国の代表的風景地として指定してきた。
ところが、釧路湿原はあまりに広大で単調すぎて、当時の尺度には合わず、候補地にもならなかった。
湿原周縁部では徐々に埋め立てが進み、農地、住宅、工場あるいはゴミ処理場となったが、多くは湿原のまま残っていた。
それでも日本中が列島改造で沸き返っていた頃には、釧路湿原周辺でも土地投機ブームが起き、まだ見ぬ北の果ての大地を別荘用地として買い求める本州の人が後を絶たなかった。
湿原周辺の土地は細分化され、あちこちに測量杭が打たれ、区画を示すビニールテープが張られた。
そうした中で、釧路湿原の保全を求める学者や地元の人々は、釧路自然保護協会を中心に保全運動を始めた。協会では、原生自然環境保全地域か地元の北海道知事が指定申請(申し出)できる国定公園の指定を求めていた。
私は当時、阿寒国立公園阿寒湖畔事務所に赴任していたが、環境庁(当時)の本庁からの指示により、釧路湿原の保全についての構想案を作成した。
1978年に環境庁に提出した「釧路湿原保全構想」の中で、「国立公園」構想を提案した。
これは、湿原の中央部の多くが大蔵省(当時)所管の普通財産、すなわち国有地であることから、アメリカ型の営造物制公園管理が可能になると考えたからである。
そこでは、いわゆる観光的な公園利用は排除して、環境教育や生態研究などを中心的な利用とし、公園内にはレンジャー同乗のシャトルバス以外は乗り入れないなど、理想に近い公園管理を想定した。
その後1987年に国立公園として指定され、これまでの国立公園のような風景保護や観光利用だけでなく、生態系保全を念頭に入れ、自然体験や自然観察、研究利用などに重点が置かれた利用などの公園管理がなされている。
さらに直線化された河川を元の蛇行河川に戻すなどの「自然再生」事業も実施されてきた。
こうして釧路湿原は、道東の主要観光地の一つになったのだった。
やや高台の湿原の縁にあたる北斗(ほくと)には、釧路市が整備した「湿原展望台」がある。
館内には湿原を再現したジオラマや湿原の生物などの展示があり、屋上などから湿原を見ることができる。ただし、展示室は有料。
ここを起点に歩道が整備されていて、1周2.5km、1時間ほどでゆっくり散策できる。
ミズナラの林内には、バイケイソウが。
ヤマブキショウマ(上)とコンロンソウ(下)も。(8/20追記 写真も)
木道には、エゾハルゼミの抜け殻。
北斗展望台園地(サテライト展望台)からは、湿原を一望のもとに見ることができる。
恩根内(おんねない)には、環境省が整備した「恩根内ビジターセンター」がある。
湿原の自然などの展示と、自然解説ツアーなども実施されている。
ビジターセンターからは歩道が整備されていて、湿原を間近に観察できる。
訪れた6月下旬は、カキツバタが満開だった。
食虫植物のタヌキモも、黄色の可愛い花を咲かせていた。
ヤナギトラノオも黄色 (8/20追記 写真も)
ワタスゲはやや終りに近く、代わりにガマの穂ができていた。
このほか湿原観察や探訪には、コッタロや細岡などにも湿原の展望台があり、塘路湖エコミュージアムセンターなどもある。
かつては見向きもされなかった湿地・原野が、今では雄大な景観の国立公園として、多くの観光客を惹きつけている。
日本の国立公園誕生時の風景保護から、生態系、現在でいう生物多様性の保全を前面に押し出して指定された国立公園の先駆けともいえよう。
若き日に、ゴムボートで釧路川から湿原内に入り込んだり、湿原周辺の岬と呼ばれる丘陵地から湿原を眺めたりしてから40年。
悠久の時を経た湿原は、変わらぬその姿で私にしばしの感傷の時を与えてくれた。
40年前の湿原の写真
1987年7月指定 28,788㌶
北海道
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知床五湖 観光客の増加と野生との共生? -国立公園 人と自然(5 追補)知床国立公園
意外と遅い?国立公園の誕生 -近代保護地域制度誕生の歴史
日本の国立公園は自然保護地域ではない? -多様な保護地域の分類
『生物多様性と保護地域の国際関係 対立から共生へ』出版2 ―第Ⅱ部 国立公園・自然保護地域をめぐる国際関係
知床五湖 観光客の増加と野生との共生? -国立公園 人と自然(5 追補)知床国立公園 [ 国立公園 人と自然]
世界自然遺産登録から今年(2017年)7月で満12年の知床国立公園(「知床旅情と世界遺産で急増した観光客 -国立公園 人と自然(5) 知床国立公園」参照)。
今回は、阿寒湖での用務(「阿寒湖の巨樹・巨木林」参照)の後に、知床五湖を訪問した。
知床半島の付け根に位置する斜里の町(斜里駅、斜里漁港)から国道334号を進むと、知床観光の宿泊拠点の一つウトロ(漁港)の手前に、落差50mほどの「オシンコシンの滝」がある。
原生自然環境保全地域にも指定されている知床半島中央部の遠音別岳(標高1330m)を源流とするチャラッセナイ川にかかる滝だ。
途中から二つに分かれて流れるこの滝は、別名「双美の滝」とも呼ばれている。
この滝は、道路沿いの駐車場からも近く、知床半島観光客の多くが立ち寄る観光名所ともなっている。
ウトロの町並みを過ぎると、広い駐車場の中の大きな建物「知床世界遺産センター」に到着する。
知床の世界遺産登録を機に環境省が設置したもので、知床に生息するヒグマやエゾシカなどの動物や自然の様子を模型などで展示していて、世界遺産の見どころなどの情報も提供している。
全国の国立公園にはビジターセンターが設置されているが、世界遺産センターも類似施設といえよう。
日本では、国立公園の利用に先立って、ビジターセンターなどで自然の学習をし、あるいは利用のための情報を得る習慣が根付いているとはまだまだ言い難いが、このような立派な施設をぜひ活用してもらいたいものだ。
知床半島の斜里地区には、このほかにも公益財団法人知床財団が管理運営する「知床自然センター」もある。
ここでも、自然の展示や案内、レクチャーなどが行われている。また、自然探索のための長靴や双眼鏡などレンタルサービスもある。
知床半島の自然の情報をたっぷり仕込んで、いよいよ知床五湖に向けて出発だ。
約4000年前の知床硫黄山の噴火活動による山体崩落でできた窪地に水が溜まってできた「知床五湖」は、その名のとおり一湖から五湖までの小さな湖(沼)の集まりだ。
かつては五つの湖を順に自由に巡ることができたが、ヒグマの生息地での世界遺産登録などによる観光客の増加もあり、踏み荒らしによる植生影響、ヒグマと観光客との遭遇などの影響も多発し、安全対策を兼ねて利用者数のコントロール策(入域制限)が図られている。
その一つが、国立公園指定の根拠となっている「自然公園法」に基づく「利用調整地区」の指定だ。
利用調整地区は、原生的な自然地域での立ち入り人数等を調整・制限するための制度で、2002年の法改正により導入された。全国では知床五湖地区が2例目だ。現時点では、この2地区だけ!
知床五湖では2011年から開始された。
なお、知床五湖の先にある人気の観光地、秘湯「カムイワッカ湯の滝」への到達道路は、8月はマイカー規制期間であり、一般自動車の通行は制限されてシャトルバスへの乗り換えが必要となる。
これは自然公園法には基づかないものの、全国各地の国立公園で実施されている利用規制の一つでもある。
さて、知床五湖探索に戻ろう。
従来のように五湖の歩道(地上歩道)を巡るには、ヒグマの活動状況などにより、五湖入口の「知床五湖フィールドハウス」で事前手続きが必要となる時期もある。
約10分間のレクチャーを受講(料金250円)して少人数ごとに出発が可能な方法・時期と自然ガイドの引率(有料)で探索する方法・時期とがある。
10月末から閉園期までは、手続きなしで地上遊歩道を歩くことができる(無料)。
今回訪問した日は、5月10日から7月31までのヒグマ活動時期に当たり、登録引率者(ガイド)の同行が必須だったが、クマの活動時期でツアー回数も少なく、残念ながら参加できなかった。
一方、受付手続きも必要なく、無料で探索できるのは、高架木道だ。
一湖までの往復約1.6km、40分の散策だ。
高架木道に沿って電気柵が張り巡らされており、木道の地上高もあいまって、ヒグマに襲われずに安心して探索できるという仕組みだ。
世界遺産知床ツアーの団体観光客は街中の観光地のごとく木道を歩いているが、この地がかつては秘境と言われたとは想像もつかない。
遠景の知床連山を水面に映す一湖の景色は、観光客のお目当ての一つだ。
残念ながら当日は、曇り空の夕刻で、写真としては今一だが。
知床の鬱蒼とした原生林の野生の世界、岩尾別開拓と開拓跡地での知床100平米運動による植樹、そして世界遺産登録。
この間エゾシカは、樹皮剥離や食草など生態系への影響を与えるまでに個体数を増加した。
知床五湖の高架木道からも、シカの姿を何度も目撃した。
シカの増加には地球温暖化による冬季の積雪減少などの影響もあるが、天敵エゾオオカミの絶滅の影響も大きい。
地球温暖化にしろ、エゾオオカミの絶滅にしろ、その原因は私たち人間だ。
ということは、現在のエゾシカによる生態系かく乱の元凶は、他ならない私たち人間ということではないだろうか。
野生動物を間近に見る体験は、国立公園訪問の醍醐味でもあり、いつまでも記憶に残ることだろう。
私たちは、国立公園訪問で野生生物の世界を垣間見させてもらっているということだ。
ヒグマにとって、子育てで気が立つ時期に人間と遭遇すれば、襲うのが自然ともいえる。
ヒグマに遭遇しても被害を被る心配のない高架木道は、演出過剰かもしれないが野生動物との共生の一つの姿かもしれない。
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生物多様性の宝庫での熱帯林研究者たちの情熱 ― 国立公園 人と自然(海外編13)ランビル・ヒルズ国立公園(マレーシア) [ 国立公園 人と自然]
ランビル国立公園は、マレーシア・サラワクの国立公園としては、バコ国立公園のテングザルや食虫植物などのような特に珍しい生物が見られるわけでもない。ニア国立公園、あるいはロアガン・ブヌッ国立公園のように大規模な鍾乳洞や湿地があるわけでもない。
それでも私にとってぜひ訪れてみたかった理由は、そこが熱帯林研究の先駆的な中心地だったからだ。
私は生態学者でもないから、必ずしもそこの生態系そのものに強い関心があるわけでもない。
それよりも、その研究が遂行されるための設備や体制、あるいは研究成果の活用などに関心がある。
その象徴が、地上80mもの高さのクレーンだ。
サラワク東部の中心都市ミリから車で30分ほどに位置するランビル国立公園の面積は6,952haで、1975年に国立公園として指定された。
その名のとおり、ランビル山(465m)を中心とした丘陵地の熱帯林地帯だ。
その森林は、かつてはラワン材として知られた多くの種類のフタバガキ科の混交林だ。
この森林の特徴は、珍しい生物というよりも、その種数の多さだ。
東京ドーム10個分のおよそ50haの調査区に1100種以上の樹木が生い茂っていて、そこでは1200種もの昆虫が生活しているのだ。
私たちが日本で目にする例えばブナ林のように限られた種類の樹木から成る森林と比べると、いかに種類が多いかが想像できる。
この種数の多さ、すなわち多様性の豊かさは、マレーシア随一という。
熱帯では特別に珍しいというわけでもないようだが、日本から来たものとしては見るものすべてに興味がわく。
歩くヤシは、日照や水分を求めて側根を枯らしながら少しずつ移動していくヤシだ。
3cmもある巨大な森林アリは、ボルネオ島ではもちろん、世界でも最大級のものだ。
このほか、ショウガの仲間のきれいな花、美しいチョウ、花のミツを吸いに来たハチドリなど・・・・さらには、ギボンやサイチョウなども見ることができるという。
ランビルは、豊かな多様性ために古くから熱帯林研究の場となってきた。
というか、↑のデータも、こうした研究の結果として判明したことでもある。
日本の研究者たちも、長年にわたってこの森林を研究の場としてきた。
京都大学生態学研究センター(生態研)の井上民二教授も、これら熱帯林研究者の先駆けのお一人だ。
教授は、ランビル熱帯雨林の樹高40m~70mもの高所の林冠(キャノピー)(森林の上部表面)付近で繰り広げられる生物の営み、すなわち一斉開花や昆虫と植物などの助け合い(共生)などをツリータワーとウォークウェイで調査した。
その研究成果の一部は、NHK「人間大学」で一般向けに解説する予定だったが、残念ながらランビルに向かうための飛行機が奇しくもランビル丘に墜落して帰らぬ人となった。
そのテキストは、日本放送出版協会(NHK)から『生命の宝庫・熱帯雨林』として発行されている。
熱帯雨林の生態系などに関心のある方にはご一読をお勧めする。
熱帯林研究に情熱を注いだ故井上教授が志半ばで帰らぬ人となったのは、1997年9月。
そのニュースを私はインドネシアで聞いた。
実は私も、インドネシアでのJICA生物多様性プロジェクトのリーダーとして、熱帯林研究の拠点を整備したいという夢を抱いていたのだ。
(グヌン・ハリムン国立公園にて)
そのお手本となるコスタリカのラ・セルバ生物学ステーションを訪問したことはあったが、ランビルは名前だけしか知らなかった。是非訪問したいものと、長年にわたり希望していた。
その長年の夢がかなったのが、今回の訪問だ。
さらに今回の訪問の際、故井上教授もコスタリカなどをモデルの一つとして、ランビルを熱帯雨林研究の拠点として整備することを計画していたことを聞いた。
単なる生態学研究者としてよりも、研究拠点整備の同じ夢を持った方として、急に身近に感じられるようになった。
その故井上教授のご遺族からの寄贈による研究者宿泊施設「タミジハウス」が設置されている。
ランビルではその後、全国に散らばった故井上教授のお弟子さんや熱帯林研究者などが中心になり、2000年には、前述の80mもの高さのクレーンも整備された。
工事現場にあるようなクレーンで、ゴンドラも70mまで上がることができる。
しかし、運転手はクレーンの先端まで梯子段を上らなければならない。
私にはとてもできないが、研究者はこんなことまでしなくてはならないのだ!
初めは認識できた地上の人たちも、ゴンドラが高くなるにつれてアリよりも小さくなる。
ゴンドラからは、林冠の様子もよく観察できる。
しかし、この豊かな熱帯雨林の林冠がどこまでも続くわけではない。
国立公園のすぐ際まで、アブラヤシのプランテーションが迫っている。
研究者たちの夢と情熱の舞台が損なわれることのないよう祈るばかりだ。
今日2016年6月18日から、故吉良竜夫先生などとともに故井上民二教授も設立に尽力した日本熱帯生態学会が筑波大学で開催されている。
熱帯林などの研究に情熱と夢をかけている研究者たちとの再会が楽しみだ(学会出席のため、予定稿でスミマセン)。
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消える湖の先住民族と野生動物 ― 国立公園 人と自然(海外編12) ロアガン・ブヌッ国立公園(マレーシア) [ 国立公園 人と自然]
今回は、サラワク最大の内水面を有する「ロアガン・ブヌッ(Loagan Bunut)国立公園」。
サラワク州東部の都市ミリから車で3~4時間の奥地にある泥炭湿地が中心の国立公園で、面積は10,736ha、公園に指定されたのは1991年8月だ。
この国立公園のおよそ3分の2の面積を占めるのが、サラワク州で最大面積(約650ha)を誇る湖ロアガン・ブヌッで、先住民族ブラワン族の呼び名に由来する。
ブラワン族の人々は、この湖や川に一時的な漁師小屋を設置して魚を取ってきた。
国立公園管理事務所(↓写真)も、この伝統的な漁師小屋設置は許可してきた。
東南アジア各地では、国立公園の設置により先住民族などが公園地域から追放され、伝統的な生活が存続できない事例も多い。
地域住民の伝統を存続し、自然資源の保存と両立させるこの公園の管理方針に注目したい。
大きな“すくい網”を用いるスランバウ(Selambau)という伝統的な漁法は、水位が雨季と乾季とで大きく変化するこの地域に合わせた漁法だ。
ロアガン・ブヌッは、サラワクで最大の湖といっても、それは雨季の湛水した状態の時で、乾季には干上がって湖が消滅してしまうこともある。
何しろ、水深は高い時でもせいぜい3m、乾季には50㎝程度だ。
今回訪問した3月は、州西部のクチン周辺は連日の大雨だったが、東部のミリ周辺は何日も雨が一滴も降らない日が続いていた。
普段は国立公園管理事務所のすぐ下がボートの桟橋となっているが、乾季にははるか沖合(?)まで水たまりを歩いていかなければならない。
ボートに乗って湖にでると、熱帯特有の赤茶けた水面の先に続く湿地林と底抜けに青い空、白い雲。
湖からブヌッ川を下ると、多くの野生動物を観察することができる。
多いのはサギ類だが、大きなくちばしのホーンビル(サイチョウ)も見ることができた。
コンパクトデジカメだけれど写真撮影に成功したのは、真っ赤なくちばしにブルーの羽のカワセミの仲間、コウハシショウビンだ。
英名は、Stork-billed Kingfisherというが、和名、英名ともに、赤い大きなくちばしがコウノトリのようだということらしい。
ボートからは、オナガザルやワニも観察することができた。
しかし、この公園を訪れる利用者、特に外国人はまだ少ない。
エコツーリズムの観光客が多くなってこの公園の素晴らしさを知ってほしいと思う半面、ひっそりとこのまま残してほしい気もする。
自分勝手ながら、複雑な思いだ。
素晴らしい自然に接すると、いつもの悩みだ。
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テングザルと食虫植物の天国(2) ― 国立公園 人と自然(海外編11)バコ国立公園(マレーシア)
サラワク州クチンは猫の町!?
テングザルと食虫植物の天国(2) ― 国立公園 人と自然(海外編11)バコ国立公園(マレーシア) [ 国立公園 人と自然]
先週の続きで「バコ国立公園(マレーシア)」。
前回は主に海岸の平地だったけれど、今回は半島部の切り立った砂岩の台地の上。
そこは、食虫植物の天国だった。
海岸からは急な山道を登ることになるが、公園内の歩道は全般的によく整備されている。
足元には、自分の体よりも大きな糞を転がすフンコロガシ(白い糞玉の右横に黒い甲虫が)。
歩道横の茂みには、マムシの仲間の毒蛇、緑色のクサリヘビも!!!
登りつめると、砂岩と珪酸土が雨で洗われた奇妙な光景が目の前に広がる。
台地上の木道などの両側には、ウツボカズラ型の食虫植物が何種も生育している。
なお、ウツボとは、戦国武将などが矢を背負った籠で、食虫植物の虫取り装置(?)がこれに似ていることから命名された。英語では、ピッチャー・プラント(水差しのような植物)。
地面に顔を出している緑茶色のピッチャー(水差しだけれど、日本的にはウツボ)は、20cmほどの大きさ。横に置いたボールペンと比べればその大きさが実感できるだろう。
同じく地面からのピッチャーでも、緑の小さな(数センチ)ものもある。
さらに、地面からではなく、枝から垂れ下がっているものも。
ボートで戻って、バコ国立公園のツアーも終了。
今回はテングザルを見ることができなかったけど、さまざまな動植物を堪能することができた。
でもまた、テングザルを求めて再挑戦してみたい!!!
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テングザルと食虫植物の天国(1) ― 国立公園 人と自然(海外編11) バコ国立公園(マレーシア) [ 国立公園 人と自然]
州都クチン(サラワク州クチンは猫の町!?)から約30㎞北東、最も近い国立公園の一つで、外国人観光客にも人気のあり、外国人利用者数が州内国立公園で一番多い。
面積は2,727haと小さいが、公園内には、哺乳類37種、鳥類184種など動物も多く、なかでもテングザルは世界中でボルネオ島だけに生息しているもの(固有種)だ。また、ウツボカズラの仲間などの食虫植物も多い。
最初にタネを明かせば、今回の訪問では残念ながらテングザルを見ることはできなかった(25年前の訪問の際にはバッチリと見ることができたけど!)。
そこで、まずはテングザルがデザインされているTシャツの写真。
これは、同じボルネオ島の西南部、すなわちインドネシア領カリマンタンのグヌン・パル国立公園の土産だ。
実際に訪問したことはないが、東京のJICAでグヌン・パル国立公園職員などに国立公園管理に関する研修の講師をした際に、お礼としていただいた。
話はバコ国立に戻るが、クチンから近いとはいえ隔絶された半島部に位置し、国立公園を訪問するにはボートを使って海岸部から上陸するしかアクセスはない。
クチンから車で1時間弱ほどのバコ村のボート乗り場バコ・ターミナル(Bako Terminal)でボート料金と国立公園入園料を支払う。
入園料は、外国人は日本円で約1000円、マレーシア住民は半額だ。このような料金設定は、途上国では一般的だ。
公園までは、ターミナル(船着き場)から、ボートで約30分。
ボートには多くの外国人も乗り込んでいる。今回は、外洋(南シナ海)の波が荒く、途中で3人ずつのグループに分かれて船を乗り換えた。
国立公園の海岸に到着すると、さっそくカニクイザルがお出迎え。
管理事務所や食堂、宿泊所などが集中する地区では、雑食性のヒゲイノシシが群れている。
ヒゲイノシシは、名前の通り、もみ上げからあごにかけて(?)立派なひげをたくわえている。
泥の中の昆虫やひょっとしたらカニでも漁っているのかな?
満腹になったら、芝生で昼寝。
海岸沿いの泥地にはマングローブ林。
マングローブは、海水と淡水の混じり合う汽水域に生育する植物の総称だ(多様な生態系のエコツアー:マングローブ林と観光の可能性 -スマトラ島のマングローブ林から(4))。
ここでは、アイスピックのような呼吸根を地中の根から出しているペダダPedada(Sonneratia種)やよく似たアピアピApi-api(Avicennia種)、タコ足のような根のバカウ(Rihizophora種)が中心だ。
このマングローブの砂浜には、シオマネキなどのカニ類や魚貝類もたくさん生息している。
コメツキガニの一種(?)は砂団子作りが得意?
巣穴の周囲に団子で放射状の幾何学模様を描く。
今回は、ここまで。
次回は、台地上の食虫植物の楽園へ。
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ツバメと壁画の大洞窟 ― 国立公園 人と自然(海外編10) ニア国立公園(マレーシア)
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米国予算不成立で国立公園閉鎖!?のわけ -そのとき日本は?
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ツバメと壁画の大洞窟 ― 国立公園 人と自然(海外編10) ニア国立公園(マレーシア) [ 国立公園 人と自然]
その中から、いくつかの公園を紹介する(実際の訪問とは、順不同)。
まず初めは「ニア(Niah)国立公園」。
ニア国立公園は、ボルネオ島の北西部を占めるマレーシアのサラワク州の北東部で、海岸から約16㎞内陸に位置する。サラワク北部の中心都市ミリから車で2時間弱の距離だ。
(ここで入場料を支払う)
1974年に指定(官報告示1975年)され、公園面積は3,139haで、低地熱帯林と2千万年前に形成されたサンゴ礁が隆起した石灰岩の丘(標高400m)に覆われている。
管理事務所から、すぐに渡し舟で対岸に渡る。
川にはワニも生息していて、注意看板が立っている。
整備された木道が森林内を貫く。
歩道周辺はフタバガキ科の混交林で、大きな板根の巨木も。
この公園の最大の売り物はなんといっても、石灰岩に空いた大洞窟とそこに生息する15万羽ともいうアナツバメ、それに古代人による壁画だ。
アマツバメの一種のアナツバメの巣は、中華料理の高級食材として重宝される。
歩道途中の地域住民の売店にツバメの巣があった(展示用とか)。
先住民のイバン族はツバメの巣を食材とはしていなかったようだが、高値で取引されるために数世紀前から採取するようになったという。
アナツバメは、1930年代にはニアの洞窟に150万羽ほど生息していたと推定されているが、現在では過剰採取により15万羽に減少してしまった。
歩道を進み、洞窟に到達したところが、かつてツバメの巣を取引したところ。
1970年代後半まで、この腐りにくく丈夫な鉄木で組まれた櫓に家族で寝泊まりして、採取と取引を行った。
巣の採取は、鉄木の長いポールで天井の巣を引掛ける。
下にいる人と比べると、ポールの長さ、つまり洞窟の天井の高さがわかる。
重量のある鉄木のポールを操り、目指すツバメの巣を引掛けるのは、なかなかの重労働だ。
実際の採取期間は4月から8月までで、今回のは解説用のパフォーマンス。
いよいよ、積もり積もったツバメの糞を踏みしめながら、大洞窟の奥穴に入っていく(中央の黒い穴)。
洞窟内には、歩きやすいように、また石灰岩を損傷しないように、階段と木道が延々と続いている。
それでも濡れた木道は滑りやすいから注意が必要だ。
一歩奥に足を踏み入れると、入口の狭さからは想像できないスケールの空間が広がっていた。
地中の奥深くまで続く大洞窟は、映画『地底大探検』や『インディー・ジョーンズ』のようで、ワクワク・ドキドキする。
洞窟は、古代人も住居などに利用していたようで、3万年前の頭骨や旧石器時代から新石器時代の各種石器、さらに銅器や鉄器なども発見されている。
大洞窟を抜けて、しばらくの間林内を歩くと、1958年に発見されたペイントケーブ(絵画洞窟)がある。
この洞窟は、墓としても使用されていたようで、舟形の棺桶の残骸も残っていた。
壁画の保護のために網で覆われているが、よく見ると確かに壁画が描かれている。
壁画の舟らしきものは、インドネシア(スマトラ島ランプン)でもよく織物などの模様となっている霊船のモチーフと似ているようにも思う。
帰りは、再び大洞窟に戻り別の出口から、もと来た木道を公園ゲートまで帰って、ニア国立公園のメインルート探索は終了する。
ほかにも、石灰岩の丘に登ったり、先住民イバン族のロングハウスを訪れたりするルートもあるようだ。
ところで近年、インドネシアやマレーシアの農村で、高層ビル群(?)を目にするようになってきた。
最初のうちは、農村人口の増加と所得向上に伴うマンション建築と思っていたが、よく見ると窓がない!
後に聞いたところでは、ツバメの巣採取のためのツバメ用アパートとか。
私たち人間は、エビ、ルワック・コーヒーなどなど、様々なものを養殖したり、栽培したりしてきた。
“食”と“金”への飽くなき追求、執念の結果だろう。
私は食と金にはあまり執着がない。
もっと他に執着したいもの(こと)は、たくさんあるからね。
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ユーカリに彩られた先住民アボリジニの伝説の地 ダーウィンも立ち寄った世界遺産 -国立公園 人と自然(海外編9)ブルー・マウンテンズ国立公園(オーストラリア)
巨樹との再会に思う
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ユーカリに彩られた先住民アボリジニの伝説の地 ダーウィンも立ち寄った世界遺産 -国立公園 人と自然(海外編9)ブルー・マウンテンズ国立公園(オーストラリア) [ 国立公園 人と自然]
世界には多くの国立公園がある。これまでこのブログでは、『国立公園 人と自然』として、主に日本の国立公園を取り上げ、海外の国立公園は「番外編」として取り上げてきた。
11月にオーストラリア・シドニーで開催された第6回世界国立公園会議を機に、海外の国立公園も「海外編」として積極的に取り上げようと思う。
新装「海外編」の最初は、先日の世界国立公園会議の際に訪れた「ブルー・マウンテンズ(Blue Mountains)国立公園」だ。ただし、番号は先の番外編からの通し番号とする。
ブルー・マウンテンズ国立公園は、シドニーの西方100㎞弱の所に標高約1000mの山塊が連なる地域で、オーストラリアで最も有名な国立公園の一つである。その名の由来は、この地を覆うユーカリの原生林から発せられるユーカリ・オイルによって、山が青色の霧に覆われるからだという。
この地域は、隣接するカナングラー・ボイド(Kanangra-Boyd)国立公園、ウォレミー(Wollemi)国立公園などとともに、グレーター・ブルー・マウンテンズとして、2000年には世界遺産にも登録されている。世界遺産グレーター・ブルー・マウンテンズは、ブルー・マウンテンズ国立公園が属すケドゥンバ地域を含む4地域から成り、8つの自然保護地域が含まれる、約1万平方キロにわたる広大な地域である。
19世紀後半には、シドニーからも近いため、レクリエーションや保養のために、自然の景勝地であり、ユーカリの原生林もあるこの地を訪れる人も多かったが、国立公園として指定されたのは1959年9月のことだ。現在の面積は、267,954haである。
保護地域としての歴史は、英国人によるオーストラリア入植後からの探検家による探索と、その後この地域のユーカリ原生林を守るために自然保護者たちが土地を取得したことなどが始まりだ。1836年には進化論で有名なチャールズ・ダーウィンもビーグル号での世界航海の途中でシドニーに寄港し、ウェントワース滝を訪れて、その景観に驚嘆している。
いわゆる白人(ヨーロッパ入植者)からみたこの地の歴史はこうなるが、もともとは先住民アボリジニと称される人々のなかのグンドゥングラ部族とダルグ部族の土地だった。現在では、国立公園を管理するニュー・サウス・ウェールズ州と先住民の人々との間で協定を結び、共同管理がなされてアボリジニの聖地でもある。
中でも、観光客にもっとも有名な「スリー・シスターズ」の岩峰には、先住民の伝説がある。いくつかのバリエーションがあるがいずれも、美しい3姉妹を守るために一時的に魔法によって岩に変えられたが、その魔法をかけた人(3姉妹の父だったり、魔法使いだったりするが)が死んでしまい、元に戻ることができなくなってしまったというものだ。
岩になっても多くの人々を魅了しているスリー・シスターズ。さぞかし美しい3姉妹だったのだろう。
アボリジニの血をひくレンジャー(国立公園管理員)の解説
先進国の企業などは、それにヒントを得て製品化して巨額の富を得ている。
しかし、その伝統知識や自然資源を長い年月の間守ってきた人びとには見返りもない。
そのため、生物多様性条約などでも先進国と途上国の対立が続いた。2010年に名古屋で開催された生物多様性条約COP10では、「名古屋議定書」として生物資源の利用と利益還元のルール(ABS)が決まった。(ブログ記事リンク「名古屋議定書採択で閉幕 COPの成果 -COP10の背景と課題(3)」など参照ください)
そんな人間どもの争いには無頓着のように、ブルー・マウンテンズの雄大な景観は人々を魅了する。
ほかにも美しい花が・・・
【「国立公園 人と自然」(海外編)ブログ記事リンク】最新5編
「オランウータンとの遭遇 エコツーリズム、リハビリ、ノアの方舟 -国立公園 人と自然(番外編8)グヌン・ルーサー国立公園(インドネシア)」
「噴火口に神をみる ご来光で賑わう聖なる山 -国立公園 人と自然(番外編7)ブロモ・テンゲル・スメル国立公園(インドネシア)」
「聖なる山、トレッキングの山 -国立公園 人と自然(番外編6)リンジャニ山国立公園(インドネシア)」
「ペリカンの棲む湿地と海水浴場の賑わい -国立公園 人と自然(番外編5) ディヴィアカ・カラヴァスタ国立公園(アルバニア)」
「ゾウの楽園の背後にあるもの -国立公園 人と自然(番外編1追補)ワイ・カンバス国立公園(インドネシア)」
【「国立公園 人と自然」(国内編)ブログ記事リンク】最新5編
「温泉と避暑リゾート、世界遺産 -国立公園 人と自然(20)日光国立公園」
「自然保護の原点 古くて新しい憧れの国立公園 -国立公園 人と自然(19)尾瀬国立公園」
「花の浮島、花の原野 最北の国立公園 -国立公園 人と自然(18)利尻礼文サロベツ国立公園」
「日本第二位の高峰とお花畑、自然保護と登山ブーム -国立公園 人と自然(17)南アルプス国立公園」
「首都圏で貴重なハイキングコースと国立公園名称変更騒動のゆくえ -国立公園 人と自然(16)秩父多摩甲斐国立公園」
【その他、本ブログ内関連記事リンク】
「第6回世界国立公園会議 inシドニー」
「アバター 先住民社会と保護地域」
「祝 富士山世界文化遺産登録 -世界遺産をおさらいする」
(世界遺産の解説と私が訪問した世界遺産一覧)
【著書のご案内】
世界は自然保護でなぜ対立するのか。スパイスの大航海時代から遺伝子組換えの現代までを見据えて、生物多様性や保護地域と私たちの生活をわかりやすく解説。
国立公園や世界遺産などの保護地域の拡大目標(愛知目標)で世界はなぜ対立するのか、先住民と国立公園管理(ガバナンス)のパラダイムシフトなども。
本ブログ記事も多数掲載。豊富な写真は、すべて筆者の撮影。
高橋進 著 『生物多様性と保護地域の国際関係 対立から共生へ』 明石書店刊
目次、概要などは、下記の本ブログ記事をご参照ください。
「『生物多様性と保護地域の国際関係 対立から共生へ』出版2 ―第Ⅱ部 国立公園・自然保護地域をめぐる国際関係」
国立公園をめぐる先住民と支配者・管理者の対立など
「 『生物多様性と保護地域の国際関係 対立から共生へ』出版 1」
生物資源をめぐる先進国と途上国の対立など
オランウータンとの遭遇 エコツーリズム、リハビリ、ノアの方舟 -国立公園 人と自然(番外編8)グヌン・ルーサー国立公園(インドネシア) [ 国立公園 人と自然]
はるか向こうの枝の上の黒い影。じっと動かないが、こちらを見ている気がする。ガイドがうなり声をあげると、その影はゆっくりと動き出し、こちらに向かってきた。それにつれて、黒い影が少しずつ赤茶色に変化していく。
インドネシアのスマトラ島にあるグヌン・ルーサー(Gunung Leuser)国立公園で、初めて野生のオランウータンに出会った半年前のことだ。現地語で「森の人」(orangは“人”、hutanは“森”を表す)の名のとおり、いかにも森の主といった雰囲気で現れてきた。
野生のオランウータンが人に近づくのには理由がある。実は、このオランウータンは人間に育てられたのだ。親が人間の罠にかかり殺され、近くにいた子どものオランウータンがこの公園に保護されてきて、ここで野生復帰(リハビリ)したものだ。
スマトラゾウ、スマトラトラ、スマトラサイなど大型野生動物の宝庫でもあるスマトラ島は、インドネシアでカリマンタン島(ボルネオ島)と並ぶオランウータンの生息地でもある。
しかし近年、急速なオイルパーム・プランテーションの拡大による森林伐採やペットとしての密猟などにより、命を落としたり、傷を負ったりするオランウータンも数多い。公園内には、こうしたオランウータンの保護施設がある。
左)国立公園のオランウータン・インフォメーションセンター
右)オランウータンの保護用檻(今は荒れ果てている)
グヌン・ルーサー国立公園は、スマトラ島の北スマトラ州とアチェ州の境界に広がる面積約792,700haの森林地帯で、1980年に設立された。公園名は、主峰のルーサー山(標高3,381m)に由来する。
南ブキット・バリサン国立公園などとともに、スマトラの熱帯雨林として世界遺産(自然遺産)に登録されているが、森林伐採が進み、野生動物の生息も危ぶまれるとして危機遺産になってしまったことは、このブログでも南ブキット・バリサン国立公園の違法コーヒー・プランテーション造成など報告でも取り上げてきたところだ。
この公園への観光的なアクセスは、北スマトラ州の州都メダンからが便利だ。Bukit Lawang地区には、川沿いに小規模のホテルが立ち並んでおり、前述のオランウータンのリハビリ施設もある。公園に隣接(ほとんど公園内)のエコ・ロッジ(Eco Lodge)は、ガイド案内の拠点にもなっており、オランウータンなどの動物観察に便利だ。
エコロッジのコテージ 川沿いに立ち並ぶホテルとカフェ
国立公園内を散策するには、地元ガイドの案内が義務化されている。ガイドによるいわゆるエコツアーでは、公園内に生息するさまざまな動物を見ることができる。残念ながら、スマトラサイやスマトラトラまでは見ることはできないが。
公園内では、オランウータンのほかにも、さまざまなサルや鳥類を見ることができる
ガイド料金には、公園の入園料金も含まれている。ガイドは、入園料金を公園管理事務所に収める仕組みだ。こうして、地元ガイド案内の義務化は、公園当局にとっとも、雇用の機会を得る地域住民にとっても、双方にプラスになるウィン・ウィンの関係でもある。
危機遺産となってしまったスマトラ島の熱帯雨林。グヌン・ルーサー国立公園は、そのような動物たちの最後の拠点、ノアの方舟のひとつになってしまった。
オランウータンなどの野生生物が安心して生息できるようになるのはいつのことだろうか。人間に命さえも奪われそうになり、しかし人間の手によって生かされてきたあのオランウータンの目を忘れることができない。
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噴火口に神をみる ご来光で賑わう聖なる山 -国立公園 人と自然(番外編7)ブロモ・テンゲル・スメル国立公園(インドネシア) [ 国立公園 人と自然]
ジャワ島東部に位置するブロモ・テンゲル・スメル国立公園は1982年に指定され、50,276haというジャワ島としては広大な地域には、ジャワ島最高峰のスメル(Semeru)山(3,676m)、活火山のブロモ(Bromo)山(2,392m)、古い火山で広大なカルデラと砂の海を有するテンゲル(Tengger)山などの複雑な火山群と4つの湖沼などが含まれている。
林業省統計によると、2011年の訪問者(観光客)約12万人のうち、外国人は2万人以上を占める。これは、コモドドラゴンで有名なコモド国立公園に次いで多い。ブロモ山は、インドネシアでも有数の観光地となっている。
夜も明けてきたが、寒さがこたえる
ご来光を見た後、いよいよブロモ山に向う。向かう車のすべての車が四輪駆動車だが、火口原に到達して、その理由がわかった。まるで月世界かと思うような荒涼とした砂の海だ。
車から降りると、馬が待っている。この馬で山頂直下の階段まで行く。もちろん歩いても行けるが、火口原は歩きにくい。階段は細く、一応一方通行になっているが、多くの観光客でごった返している。
ほとんどの観光客は、階段の到達点までしか行かず、火口壁の頂上まで行くものは少ない。
今も噴煙を上げる火口に祈りながら花束を投げ込むと、願い事が叶うという。多くのインドネシア人や外国人観光客が花束を投げ入れている。
人口約2億人のインドネシアは、その9割がイスラム教徒といわれる。イスラム教は本来は一神教だから、聖地はあっても、山の神を信仰するはずはない。しかし、インドネシアには各地にアニミズム(多神教)的な土着信仰が色濃く残っている。
マタラム王国のイスラム教徒に追われて、マジャパヒト王国のヒンズー教徒は、険しい山地に逃げ込んだ。ブロモ山は、そのイスラム教以前のヒンズー教の時代からの聖地で、火口原にはヒンズー教寺院もある。周辺には、現在もヒンズー教徒のテンゲル人が多く住み、村には立派なヒンズー教寺院がある。
スラバヤへの帰途、泥に1万世帯以上が埋まったというシドアルジョ(Sidoarjo)に立ち寄った。天然ガスの試掘中にガスと泥が噴出し、8つの村が埋まってしまったという。現在でも泥は噴出していて、周囲には流出防止のための堤防がめぐらされている。
どうも掘りすぎて岩盤を突きぬいてしまったのが原因のようだが、いまだに自然災害か、人為災害かの論争があるようだ。このため、被害住民に対する補償も遅々として進んでいないという。
この泥噴出被害は、金儲けのために自然に無造作に手を付けて改変してきた人類に対する自然からの警告という気もする。しかし、人類全体のツケを負わされるのが、いつも力の弱い庶民だとしたら、なんともやるせない。
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温泉と避暑リゾート、世界遺産 -国立公園 人と自然(20)日光国立公園 [ 国立公園 人と自然]
しかし、日光がわが国で最初の国立公園のひとつであり、古くから温泉や避暑リゾート地として利用されてきた観光地でもあることは紛れもない。
日光国立公園は、大きく日光地域、鬼怒川・栗山地域、那須甲子・塩原地域からなる。いずれも那須火山帯に属し、この公園で最高峰の白根山(2,578m)をはじめ、男体山、茶臼岳などの山々と火山活動の名残りでもある中禅寺湖、湯ノ湖などの湖、華厳の滝、竜頭の滝、湯滝などの瀑布と渓谷・渓流などがみられる。
火山に温泉は付き物だが、公園内には鬼怒川温泉、川治温泉、塩原温泉などの大規模な温泉場から、一軒宿の奥鬼怒温泉郷など、多様な泉質の多くの温泉がある。
また低山帯から高山帯にいたるさまざまなタイプの森林や戦場ヶ原、鬼怒沼などの湿原があり、ツキノワグマ、ニホンジカ、ニホンカモシカ、ニホンザルなどの哺乳類をはじめ、多くの野生生物が生息している。
左甚五郎の彫刻でも名高い東照宮は、徳川家康を祀るために建立された。この東照宮と天台宗の輪王寺、古くからの山岳信仰・修験道の中心でもある二荒山神社の二社一寺は、1999年に世界遺産(文化遺産)に登録された。
これら現在の世界遺産の社寺は、文化財保護法だけではなく、国立公園としても規制の厳しい“特別保護地区”として厳重に保護されてきた。自然保護が目的の国立公園で、何故社寺が保護対象となるのか奇異に思うかも知れないが、神社仏閣はわが国の国立公園制度創設時から国立公園の指定要件のひとつとして挙げられている。これは、人と自然が織り成す景観の保護という観点や外貨獲得も含めた観光振興の観点もあるだろう(ブログ記事「意外と遅い?国立公園の誕生 -近代保護地域制度誕生の歴史」)。
明治時代になって東京や横浜などに外国人居住者が多くなると、日光は外国人向けの避暑リゾート地としても脚光を浴びるようになってきた。現在まで続く金谷ホテルは、箱根の富士屋ホテルなどとともに、外国人向けリゾートホテルの先駆けでもある。
その後も、欧米各国の在京大使館は、中禅寺湖畔に競うように別荘を建てた。現在でも、イギリス大使館やフランス大使館などの別荘があり、そのうちのイタリア大使館は栃木県が譲り受けて一般公開している。
日本の皇室も例外ではなく、御用邸という名の別荘を設けてきた。現在、日光の田母沢御用邸は県により記念公園として整備公開されている。また、那須御用邸は、豊かな自然と人々のふれあいの場として、「那須平成の森」と命名され、環境省により管理・公開されている。
観光客が減少してきたとはいえ、秋の紅葉シーズンなどのイロハ坂の交通渋滞は、毎年の風物詩のようにニュースに取り上げられる。
かつては観光客からエサをねだるニホンザルが多数出没していたが、日光市による「サル餌付け禁止条例」制定(2000年)により、めっきり少なくなってきた。しかし、中禅寺湖畔の土産物店などでは、観光客からのエサが少なくなった分を取り返そうとするがごとく、強引かつ巧妙、ときには凶暴ともいえるサルの襲撃が多発しているという。
そのサルに代わって観光客の目に付くようになってきたのがシカだ。もともと奥日光などにはシカが生息していたが、オオカミなどの天敵もなく、また地球温暖化により冬でも積雪が少ない今日では、シカの頭数は飛躍的に増大している。
観光客はシカを見ることができて喜んでいるが、戦場ヶ原などの貴重な高山植物も食害を受け、生態系に変化が起きている。このため、環境省などは戦場ヶ原湿原の周囲を鉄柵で囲ってシカの侵入を防いでいるが、隙間から入り込むシカが後を絶たない。
日光国立公園は、かつてリゾート地としても時代の最先端だった。その日光が、再び自然とのふれあいや野生動物との共存の場として、再び脚光を浴びるような、古くて新しい国立公園の姿を想像したいものだ。
1934年12月指定 114,908㌶
群馬、栃木、福島にまたがる
(写真右上)男体山(戦場ヶ原より)
(写真左上)茶臼岳山頂部
(写真右下)東照宮三猿
(写真左下)戦場ヶ原のシカ
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「自然保護の原点 古くて新しい憧れの国立公園 -国立公園 人と自然(19)尾瀬国立公園」
「意外と遅い?国立公園の誕生 -近代保護地域制度誕生の歴史」
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自然保護の原点 古くて新しい憧れの国立公園 -国立公園 人と自然(19)尾瀬国立公園 [ 国立公園 人と自然]
初夏になると「夏の思い出」のメロディーに誘われるようにミズバショウを一目見たいという人々で賑わい、盛夏にはニッコウキスゲや可憐な湿原植物が人々を魅了する。そして、10月初旬の連休の草紅葉に彩られた湿原での利用者の受け入れを最後に、尾瀬は長い冬眠の時を迎える。
本州最大の高層湿原として有名な尾瀬ヶ原、尾瀬沼などは、燧ケ岳などの火山活動により只見川が堰き止められたことにより誕生した。その結果出現した古尾瀬ヶ原湖と呼ばれる湖は、土砂や泥炭化した植物遺骸などの堆積により、徐々に浅くなって湿原を形成していった。
この尾瀬地域は、日本最初の国立公園のひとつでもある日光国立公園から分割され、会津駒ケ岳、田代山、帝釈山などを加えて、新しく29番目の国立公園として「尾瀬国立公園」が誕生した。2007年8月のことだ。(注.2012年3月に30番目の国立公園として、「屋久島国立公園」が誕生している。)
この尾瀬にも、かつて存亡の危機が幾度かあった。
早くも明治時代には尾瀬を水没させる水力発電ダムが計画された。燧ケ岳、至仏山などに囲まれる尾瀬ヶ原は、太古の昔は湖だったというから、ダムにはうってつけであった。長蔵小屋の創始者として有名な平野長蔵は、この計画に反対した。戦後の電力不足の時代にも電源開発計画は再び持ちあがった。ダムができていれば、あの名曲「夏の思い出」も生まれなかった。
これを救ったのは、高山植物研究や日本山岳会設立、そして明治時代のイギリス外交官アーネスト・サトウの子供としても有名な武田久吉をはじめとする研究者や文化人であり、1949年には「尾瀬保存期成同盟」が発足した。同盟は、1951年には「日本自然保護協会」となった。尾瀬は、日本における近代自然保護運動の原点とも言える。
高度経済成長期の1960年代には、全国各地で観光道路(スカイライン)や林道建設による自然保護問題が持ち上がった。尾瀬でも群馬県大清水と福島県沼山峠を結ぶ自動車道計画が持ち上がり、実際、群馬県側の尾瀬入口である三平峠真下の一ノ瀬まで工事は進んだ。これを阻んだのも尾瀬を愛する日本中の人々であり、その中心の一人に長蔵小屋三代目当主の平野長靖がいた。
長靖の環境庁長官大石武一への直訴によって工事は中止になった。しかし、度重なる上京などにより体力の限界に来ていた長靖が、1971年12月小屋の越冬準備を終えての下山途中、雪の三平峠で遭難死したことは、いまや伝説と化している。
その後も尾瀬では、オーバーユース(過剰利用)によるさまざまな問題が起きている。利用者とともにゴミも増加した。ゴミ箱の増設なども試みたが、かえって周辺では湿原内にまでゴミが散乱するありさまだった。このため、ゴミ持ち帰り運動が提唱され、ゴミ箱は撤去された。関係機関によるゴミ袋の配布などにより運動は成果を上げるようになったが、わざわざ目につかない場所にゴミを捨てる利用者が後を絶たない。
また、し尿の流れ出る水路沿いのお化けミズバショウ(栄養過多で葉が異常生長)、湖の富栄養化、外来種の侵入、さらにはこれらの解決のための風呂禁止やパイプライン建設、入山料問題など、次々と自然保護上の課題が出てきた。最近では地球温暖化の影響もあってかシカの増加による湿原植物への食害などの問題もある。昔からのミズバショウ時期など利用者の一時期集中も解消されておらず、混雑による国立公園らしい雰囲気の阻害も、依然として問題だ。まさに尾瀬は自然保護問題のショウウインドウのごときである。
ダム計画のなくなった現在でも、尾瀬国立公園の約40%、核心部の尾瀬ヶ原など特別保護地区指定地の約70%は、東京電力の所有地となっている。東京電力は、その子会社の尾瀬林業により木道の補修管理などを実施してきた。しかし、福島第一原子力発電所事故の賠償などに巨額の費用がかかり、その管理費用の捻出、管理の実施に頭を痛めているという。地元や自然保護関係者は、尾瀬の土地が第三者に売却されることによる新たな自然保護上の問題の浮上を懸念している。
この尾瀬に大学生時代の私は、ある山小屋の居候として長逗留をしたことがある。早朝の朝もやの中に吸い込まれるがごとく続く人っ子一人見当たらない木道、小屋のゴミ出しなどの手伝いのあと大の字になって見上げた青空を背景とした燃えるような紅葉の木々、一人夜道の登山道で樹上に設置されたサーチライトかと見誤ってしまった煌々とした満月の光、どれも青春の記憶に刻み込まれた風景だ。
尾瀬は、現在の私にとっての原点のひとつでもある。
2007年8月指定 37,200㌶
群馬、福島、新潟、栃木にまたがる
(写真右上) 草紅葉の尾瀬ヶ原(後方は至仏山)
(写真左上) 尾瀬ヶ原の池塘(後方は燧ケ岳)
(写真右下) ゴミ持ち帰り運動の横断幕
(写真左下) 外来植物の種子持ち込み防止のための靴底泥除去
聖なる山、トレッキングの山 -国立公園 人と自然(番外編6)リンジャニ山国立公園(インドネシア) [ 国立公園 人と自然]
リンジャニ山(Gunung Rinjani)は、インドネシアのロンボック島北部にそびえるインドネシア第三位の高峰の火山である。標高は、3726mというから、日本の富士山(3776m)よりちょうど50m低いことになる。富士山ほどの秀麗さはないが、火山性の独立峰のため、島の多くの地点、さらには近隣のバリ島などからも、その姿を望むことができる。
まさにロンボック島のシンボル的存在だ。そして、島の人々(サッサク族)からは、古くから聖なる山として崇められてきた。そこには神が宿ると考え、林産物などの利用、その他で入山する際には神に入山の許しを得る儀式を行っていた。リンジャニとは、古語で“神”を意味するという。
そのリンジャニ山を中心とする41,330haの地域が、1997年に国立公園に指定された。山全体は、亜高山性の熱帯林から高山植生、サバンナなどの植生タイプに覆われているが、山頂域は火山礫に覆われ、エーデルワイスの一種をみることができる。エボニー・リーフモンキー、ホエジカ、センザンコウ、カンムリワシなど、固有種を含む多くの動物も生息している。
現在のリンジャニ山頂は、大規模なカルデラ壁の最高峰の部分である。カルデラ壁に囲まれて、セガラ・アナク(Segara Anak)湖がある。水面標高は約2200mで、硫黄分を含んでいる。また、湖近くには、温泉が川となって流れ出ており、登山者は温泉浴気分を味わうこともできる。日本の富士山同様に火山礫の山頂登山道は、3歩進んで2歩下がるといった調子だ。疲れた足と土埃まみれの体を癒し清めるのにちょうどよい。この湖に接して、1990年代の数度の噴火により隆起した溶岩ドーム、新火山(Gunung Baru)がある。
この聖なる山も、現在はトレッキングコースとして、インドネシア各地からの若者だけではなく、世界中からのトレッカーを魅了している。地元社会への利益還元と自然保護のため、国立公園当局と地元とで、リンジャニトレック管理委員会を立ち上げ、リンジャニトレックセンターを運営して情報提供などを行っている。登山(入山)のためには、国立公園入園料のほか、このトレックセンター運営協力費を支払い、地元ガイドあるいはポーター(荷物運搬)を伴わなければ登山できない規則となっている。運営協力費は、清掃や遭難救助などに充てられている。公園当局や地元団体ではエコツーリズムを推進しているというが、見る限りは単なるトレッキングのようだ。
ロンボック島の隣のバリ島にも、アグン山があり、やはり信仰対象となっている。日本にも、富士山をはじめ多くの信仰対象の山々がある。人々の生活を見守り、多くの恵み(山の幸)を与えてくれる山は、地元の人々の信仰の対象であり、聖なる場所でもある。いつまでもこの聖なる山を汚すことなく、国立公園の保全と利用、そして地元の人々の生活が続くことを祈りたい。
(写真上) リンジャニ山の山容(スンバルン側から)
(写真中上)カルデラ湖セガラ・アナクとリンジャニ山頂(湖右側に新火山)
(写真中下)独特の振り分けカゴでトレッキング客の荷物を運ぶ地元住民ポーター(足元はゴムゾウリ、一般のインドネシア登山者もゴムゾウリが多い)
(写真下) アグン山(バリ島)(左のシルエット)と日没(スナル側ルートより)
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花の浮島、花の原野 最北の国立公園 -国立公園 人と自然(18)利尻礼文サロベツ国立公園 [ 国立公園 人と自然]
前回の南アルプス国立公園の記事で、カタカナ名のつく2国立公園のひとつとして紹介した「利尻礼文サロベツ国立公園」を今回取り上げる。
北海道最北端の宗谷岬の西に位置する利尻島、礼文島と対岸のサロベツ原野の3地域が、わが国最北の国立公園となっている。いくつかの地域から構成されている国立公園の名称の中には、それぞれの地域名をつなぎ合わせたものも多い。それでも現在のところは3地域までだ。その中でも、ここの3地域を表す12文字の漢字とカタカナの公園名称は最長のものだ。ここはまた、花の国立公園としても有名だ。本州の高山帯でしか見られないような可憐な花を緯度の関係で海岸近くでも容易に目にすることができ、ここだけに生育している固有種も多い。
利尻島は約200万年前の噴火によって出現した島だ。その名の元となったアイヌ語「リィ・シリ」(高い山)のとおり、海岸から一気に利尻岳の山頂(1721m)まで、島全体が一つの山を形成しており、その山容から「利尻富士」とも呼ばれる。かの有名な深田久弥の「日本百名山」のスタートを飾る山でもある。その1000m以上のお花畑では、「リシリ」の名を冠したリシリヒナゲシやリシリリンドウなどの花を見ることができる。また、姫沼周辺などにはトドマツなどの原生林もある。
礼文島はわが国で最北の人が居住する島だ。アイヌ語の「レブン・シリ」(沖の島)からその名がついたという。利尻島に比べて平坦な礼文島は、利尻島より古い時代に海底隆起により誕生した島だ。そのため高山はないが、桃岩やスコトン岬などの海岸部でもレブンウスユキソウ、レブンソウなど「レブン」の名のつくものをはじめ、多くの高山植物を見ることができる。別名「花の浮島」と呼ばれる所以だ。
その中でも、ラン科のレブンアツモリソウは淡黄色で袋状唇弁の大形花をつけるため、特に人気がある。このため盗掘も多く、現在では環境省により「種の保存法」に基づく「国内希少種」に指定され、保護増殖事業の対象種にもなっている。24時間体制で監視されているが、それでも盗掘は後を絶たない。なお、アツモリソウの仲間は、花の姿を平敦盛の背負った母衣(鎧の背につけた飾りで後方からの矢も防ぐ)になぞらえて名づけられている。
サロベツ原野は、東西7km、南北28km、面積2300haにおよび、釧路湿原に次ぐ国内第2の広さの湿原で、サロベツの名前はアイヌ語の「サル・オ・ベツ」(葦原を流れる川)に由来するという。砂丘や高層湿原に多くの花が咲き乱れ原生花園として名高い。見渡す限りの湿原を黄色や白の絨毯に染め上げるエゾカンゾウやワタスゲなどは見事だ。
かつては根釧原野と呼ばれた道東の釧路から厚岸などに広がる原野も、現在では釧路湿原のように湿原と呼ばれ、あるいは原野そのものが牧草地などに変わり消滅しているている。こうして、不毛の地、役立たずの地として、“原野”と呼ばれた北海道内の多くの土地も、今では原野と呼ばれることもなくなった。その中で、いまだに原野と呼ばれるサロベツ原野。しかし、戦後にはサロベツ原野の開拓も本格的に始まり、25年間で約30%の湿原が牧草地に変わってしまった。現在では、サロベツ原野の自然再生事業が環境省ほか関係省庁で実施されている。
これら最北の地では古くからのアイヌの人々が生活していたが、江戸時代になると松前藩がニシンやアワビ、タラなどの海産物の交易の場として進出してきた。今でも、利尻昆布は特産だ。また、米国捕鯨船の船員だったラナルド・マクドナルドは、密入国を企て1848年に漂流地点の焼尻島を経て利尻島に滞在した。彼の日本滞在は、長崎からの送還まで10ヶ月間だけであったが、長崎滞在中に日本で最初の英和辞典を作成し、通詞たちに英語を教えている。このため、日本最初のネイティブ英語教師としても知られている。ロシアに対する警護のため、会津藩士たちもこの地に派遣されてきた。戦後も樺太(サハリン)から多くの引揚者たちが帰国してきた。最北の地は、国境の地でもある。
実のところ、私が利尻島と礼文島を訪問したのは、阿寒湖でレンジャー(国立公園管理官)をしていた35年ほど前のことだ。今回、ブログに掲載する写真を探すため古いアルバムを繰ると、妻と当時2歳の長男の花に囲まれて微笑む数多くの姿があった(掲載写真の色があせていてごめんなさい)。とたんに、道東の阿寒湖からオホーツク沿岸の原生花園、さらに道北の宗谷岬と、幼い子供を連れた自家用車での、この最北の国立公園への旅が鮮明に思い出された。あの頃の花園は今も健在だろうか。
昨年の東日本大震災以来、日本全国で地震と津波の可能性とその対策に関心が集まっている。1993年に発生した北海道南西沖地震では、同じ日本海に浮かぶ奥尻島に大きな被害をもたらした。花の島、花の原野のこの地域と人々の生活が、地震や津波で被害にあわないよう切に祈りたい。
1974年9月指定 21,222㌶
北海道
(写真上) 姫沼からみた利尻岳(利尻富士)
(写真下) レブンアツモリソウ(礼文島にて)
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日本第二位の高峰とお花畑、自然保護と登山ブーム -国立公園 人と自然(17)南アルプス国立公園 [ 国立公園 人と自然]
日本中の誰もが、いや世界中にも知られている富士山。それに比して、日本第二位の高峰、北岳(3192m)の名を知る人は意外と少ない。北岳の石灰岩質を含む切り立った斜面には、100種を超える高山植物が生育している。中でも、世界中で1属1種、北岳だけに生育(固有種)するキタダケソウは氷河時代からの生き残り(遺存種)で、花好きの登山者の憧れの的だ。その白い可憐な花は、ちょうど今頃が満開だ。梅雨の間にもかかわらず、多くの登山者を誘う。
南アルプス国立公園は、この北岳を含む白峰三山、鳳凰三山と甲斐駒ケ岳など北部の山々と、仙丈ヶ岳から赤石岳、光岳など南部に連なる赤石山脈から構成されている。3000mを超えるこれら高峰の山腹は、大井川、富士川、天竜川の水系により侵食された深いV字谷となっており、シラベやコメツガなどの原生林に覆われている。
南アルプスには多くの峠道がある。古来から塩の交易道路でもあり、戦国時代には武田の軍勢も通過したとはいうが、この険しい地形と長いアプローチは、永らく登山者を拒んできた。そのためもあってか、北アルプスに比べて地味で、玄人好みの山という印象が強い。数日掛かりで到達した稜線は森林限界を超えており、展望の効く山頂からは富士山を望むこともできる。足元は可憐な高山植物の花園だ。
この南アルプスの北部地域のアプローチを短縮したのは、南アルプススーパー林道建設だ。スーパー林道は、もともとはその名のとおり林業目的の道路だ。それに地元の生活の利便などの目的が加わって、1960年代から全国各地で建設され始めた。ちょうどその頃は高度経済成長期による公害問題や自然保護問題も顕になってきた時代で、観光有料道路、スカイライン建設に対する反対運動も各地で盛んになっていた。
南アルプスでも1967年から建設が開始されたが、風化の進んだ地質地帯での建設と観光客の増加による自然破壊を懸念して当初から反対運動が起きていた。73年には当時の副総理兼環境庁長官三木武夫により工事が凍結されたが、その後78年に再開、79年には57.6kmの全線が完成して、翌年6月のシーズンに開通した。これにより、山梨県芦安村芦安温泉と長野県長谷村戸台の間は車道でつながった(町村名は当時)。
しかし、林道建設目的はあくまで地域交流であり、国立公園の貴重な自然への影響を最小限に抑えるため、県境の北沢峠周辺(広河原から戸台橋間)は1車線のみとなった。それでも標高2000m余の北沢峠までの市(村)営バスの運行によって、甲斐駒ケ岳や仙丈ケ岳などへの登山者にとっては格段に便利になり、百名山と中高年登山のブームも重なって登山者は急増した。一方で、当初からの懸念どおり法面の崩壊はとまらず、現在でもたびたび通行止めと補修が繰り返されていて、「金喰い道路」との悪評も聞こえる。地域振興と自然保護との兼ね合いはなかなか難しい。
この南アルプスは、私の青春の思い出の場のひとつでもある。高校時代の仲間との鳳凰三山登山、そして大学生になってアルバイトでの聖岳から光岳、寸又峡への登山だ。南アルプスでのアルバイトとは、当時作成中の2万5000分の一国土基本図の航空測量対空標識の設置と翌年の確認作業だ。2万5000分の一地形図は、当時は都市部は作成されたが、山間部はこれからという段階だった。三角点に白い発泡スチロールの板を置いて、それを飛行機から撮影し、図化の際に三角点の位置を確定するのだ。現在のようにGPSなど便利なもののない、のんびりとした時代の話だ。それはまた、金儲けのアルバイトではなく、無料で山に行けるチャンスでもあった。山行にまさか新幹線を使用するなど、思ってもみない贅沢でもあった。そして長いアプローチの末の開けた稜線の雄大さは、今でも忘れることができない。
前回、前々回と国立公園の名称について紹介してきた。今回の南アルプス国立公園は、カタカナ名の付く2国立公園の一つだ。ちなみに、もう一つは北海道の「利尻礼文サロベツ国立公園」だ。ここもまた、お花畑で名高い国立公園だ。また、山梨県側の麓町村は2003年4月に合併して、わが国で唯一カタカナ表記の市名「南アルプス市」が誕生した。なお、カタカナ町名には、北海道のニセコ町がある。
1964年6月指定 35,752㌶
山梨、長野、静岡にまたがる
(写真上)固有種のキタダケソウ
(写真下)仙丈ヶ岳より甲斐駒ケ岳を望む
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首都圏で貴重なハイキングコースと国立公園名称変更騒動のゆくえ -国立公園 人と自然(16)秩父多摩甲斐国立公園 [ 国立公園 人と自然]
関東平野西方の三峰山、両神山や御岳山など手軽なハイキングコースで有名な山々から雲取山、甲武信ケ岳、金峰山など2000mを超える本格的な関東山地の山々がこの公園に指定されている。火山国日本の国立公園では珍しく火山を含んでいない。この公園はまた、荒川、多摩川、笛吹川(富士川)、千曲川(信濃川)など本州中部の代表的な河川の源であり、中津峡や御岳昇仙峡、西沢渓谷など浸食による深い渓谷が刻まれている。山頂までコメツガやシラビソ、トウヒなどの亜高山性針葉樹林の原生林に覆われ、林床にはアズマシャクナゲも咲く山々は、独特の雰囲気を呈している。ツキノワグマやカモシカなど動物も豊富だ。また、奥多摩は東京都民の水瓶となっていて、2万ヘクタールの水源林は都内だけでなく山梨県にまで及び、百年の歴史を有している。
これらの地域は、公園利用者の多い東京からみて昔から奥秩父や奥多摩と呼ばれていた。1950年に国立公園が指定されたときには「秩父多摩」が公園の名称となったが、これが県域を表す名称でもあることから騒動が始まった。つまり、秩父は現在の埼玉県、多摩は東京都を示す名称であるが、公園面積の4割以上を占める山梨県域を表す名称が付いていなかった。これは指定当時の運動主体が東京だったことなどにもよるが、山梨県としては不満だったようだ。1986年の「阿蘇くじゅう国立公園」への名称変更を知った山梨県は、公園拡張を伴わない名称変更の前例に意を強くして、「秩父多摩」の公園名称に「甲斐」を入れるべく陳情を開始した。
しかし、事はそう簡単ではない。わずかながら区域が含まれる長野県も、県域を示す信濃あるいは信州などを含めるべきだと主張しだした。地元にとっては誇りであり、また観光産業振興などにもつながるものであろう。だが、関係県に関連するのすべての名を国立公園名に関することは、関係県が11県にも及ぶ瀬戸内海国立はもちろん、他の多くの県にまたがる国立公園では現実的ではない。山梨県と長野県の主張の調整のため、私も両県を何度も往復したことがあった。公園運動を始めてから10年以上、瑞牆山のふもとで全国植樹祭が開催される直前の2000年8月、山梨県関係者の長年の夢であった名称変更がやっと認められた。
新緑のシーズンから、夏のキャンプ、秋の紅葉のシーズンは、多くのハイカー、キャンパーや観光客でにぎわう。また、木枯らしが吹く前の晩秋から初冬にかけて、落ち葉を踏みしめ、時には枝先に残る紅葉を眺めながらのハイキングは、夏や紅葉シーズンとは違った格別の味わいがある。東京で育った私に、自然の素晴らしさを教えてくれたのもこれらの地域だった。首都圏でのそんなハイキングの対象地にも、地元の面子をかけた知られざる歴史があったのだ。
名称変更問題は、国立公園にとどまらない。各地で由緒ある地名も、市町村合併や新住居表示などで消滅している。消滅するだけではなく、全国各地で類似の名称が増えて、個性や伝統がなくなってきた。また、意味を含みにくいカタカナやひらがなの名称も増加している。「くじゅう」を名称に加えた国立公園を棚に上げての繰り言だけれど。
1950年7月指定 126,259㌶
埼玉、東京、山梨、長野にまたがる
(写真上) 甲武信岳
(写真下) 瑞牆山
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世界的大カルデラの魅力と草原の危機 -国立公園 人と自然(15) 阿蘇くじゅう国立公園 [ 国立公園 人と自然]
阿蘇くじゅう国立公園は、東西約18km、南北約25km、周囲約128kmの外輪山に囲まれた世界最大級のカルデラ「阿蘇地域」と北東部の久住山を中心とする「くじゅう地域」とからなる。わが国最初の国立公園の一つとして指定されて以来、以前にこのブログ連載「国立公園 人と自然」で紹介した霧島屋久や雲仙天草のような大規模な区域拡張はなかったが、1986年に現在の名称に変更された。国立公園面積の4分の1を占める大分県側の長年の名称変更運動が実ったわけだが、地元の「久住山」と「九重山」、「久住町」と「九重町」との確執が名称変更運動にも影を落とした。“くじゅう”の読みでも、それぞれあてる漢字が違うのだ。同じ漢字でも、“くじゅう”と“ここのえ”の読み方の違いもあるから厄介だ。その結果、南アルプス国立公園以来の“かな”名称の採用となった。そこに苦悩の痕がうかがえる。
国立公園内には阿蘇の草千里や久住高原、飯田高原など広大な草原が広がる。現在では草地改良による西洋牧草の人工的な草地も多いが、もともとはシバやネザサなど自然の草地で、キスミレやヒゴタイなど氷河期に陸続きだった大陸から移ってきた貴重な遺存種も生育している。といっても、それも人間活動が生み出した草原景観(二次草原)である。特に阿蘇の草原は、面積約23,000haにもおよぶわが国最大のもので、平安時代から馬の放牧地となっていた。牛馬の放牧のほか、野焼きや採草(刈り干し切り)などの長年にわたる継続的な働きかけが、放っておけば森林に変化する(遷移)のを留めてきたのだ。
しかし生活習慣の変化とともに、草地への働きかけもなくなってきて、景観にも変化が起きてきた。環境省が中心になって策定した「生物多様性国家戦略2010」では、このような生活の変化に伴う自然の衰退を「生物多様性第2の危機」としている。ちなみに、第1の危機は開発などによる生息環境そのものの破壊だ。第3の危機は、外来生物による在来種の生存圧迫だ。そして第4の危機は、地球温暖化の影響による環境変化だ。
日本自然保護協会会長も務めた千葉大学名誉教授 故沼田眞は草地生態学が専門で、全国の自然草原が年々減少していくのを憂えていた。もはや昔の生活に戻ることはできない現代、阿蘇や久住をはじめ全国各地で草地景観を守るためのボランティアによる野焼きなどが始まった。一方で、自然の遷移に任せるべきで森林化もやむなしとの意見も根強い。開発と自然保護の間だけではなく、自然保護の中でもなかなか一筋縄ではいかない。保護の目標、青写真の合意形成は難しい。「自然保護という思想」(岩波新書)を著した沼田の生前のうちに、もっと話を聞いておきたかった。(文中敬称略)
ところで私事になるが、飯田高原・長者原の草原には特別の思い出がある。かつて香川県に出向していた頃、まだ幼かった子どもたちを連れて九州旅行を繰り返したことがあった。いつもはフェリーで九州に着くや、レンタカーで名所めぐりをする旅だった。おかげで、九州のめぼしい観光地は大方訪れることができた。しかし、幼かった子どもたち、特に車酔いする娘たちにとっては、実は難行苦行だったようだ。その点、飯田高原を訪れた時には、山に登ったくらいで、後は草原でのんびりと過ごした。子どもたちは、コスモスの咲き乱れる草原でトンボを追いかけたり、小川で笹舟を流したりして、嬉々として遊んでいた。観光地を巡るだけではなく、1カ所に落ち着いて自然とふれあう。これが国立公園の本来の姿だろう。今でこそ日本人の余暇やレクリエーションの姿について研究をする身分だが、当時の私はやはり仕事とレクリエーションの両方をせっかちに追い求めていたのだろう。遠い昔の子どもの喜ぶ姿を思い返しているようでは、やはり齢の証拠にちがいない。
1934年12月 72,678㌶
熊本、大分にまたがる
(写真)飯田高原の草地景観
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ペリカンの棲む湿地と海水浴場の賑わい -国立公園 人と自然(番外編5) ディヴィアカ・カラヴァスタ国立公園(アルバニア) [ 国立公園 人と自然]
欧州の最貧国のひとつアルバニアを知る人は、日本では少ないのではないだろうか。ましてや、国立公園となると、ほとんど知られていない。その国立公園のひとつ、ディヴィアカ・カラヴァスタ(Divjaka-Karavasta)国立公園の管理計画作成支援のための2年間の国際協力に、私の知り合いがJICA専門家として本日5月3日成田から旅立った。私は、このプロジェクトの計画策定のためのJICA調査団として、昨年(2011年)7月にアルバニアの国立公園を訪問した。
アルバニアは、地中海の中央に位置し、アドリア海とイオニア海に沿って広がり、バルカン半島の南西部に位置する。モンテネグロ、コソボ、マケドニア、ギリシャといった国々と国境を接し、海を隔ててイタリアとも接している。国土面積は四国の約1.5倍と小さいにもかかわらず、独特で変化に富んだ地形が特徴となっている。国土の3分の1が低地で、残りの3分の2は山岳か丘陵となっている。北部には2千m級の山々が連なり、アルバニアの最高峰はコラビ山(標高2,751m)である。全長450kmにもおよぶ海岸線には、数多くのラグーン(潟湖)があり、また内陸部にも湖沼が多い。
ディヴィアカ・カラヴァスタ国立公園は、アドリア海沿岸の河口、干潟、砂丘と背後の地中海松(ディヴィアカ松)の森林を中心に2007年に指定された面積22,230haの国立公園だ。このうち、カラヴァスタ・ラグーンは、1994年にラムサール条約の登録湿地となっており、アルバニアでも最も重要な生態系の一つだ。特に、絶滅危惧種のニシハイイロペリカンは、世界の5%がこのラグーンに生息しているといわれている。
湿地に接する海岸部は遠浅の砂浜で、年間50万人もの海水浴利用者があり、夏の最盛期には1日に1万台もの車が海浜部に入り込む。私が訪問した夏の盛りの7月には、海浜部は車で埋め尽くされ、砂浜は家族連れや若者で賑わっていた。まるで私の居住地の近くの湘南の海辺のようだ。海岸に隣接する土地はディヴィアカ市所有地で、レストランなどが営業許可されている。国立公園としてのゲートや入園料徴収はないが、シーズン中には土地所有者でもある市により海岸部への入園料が徴収され、清掃など環境保全の財源となっている。
ディヴィアカ・カラヴァスタ国立公園は、もともとは地中海松保護のためのディヴィアカ国立公園として指定されていた。このディヴィアカ国立公園にカラヴァスタ湿地などを加えたラムサール条約登録湿地(1994年)を核に、2007年10月に現在のディヴィアカ・カラヴァスタ国立公園として指定された。こうした経緯もあり、国立公園の管理は地方森林局により行われているが、湿地生態系の保全などの専門知識と経験は十分ではない。
また、国立公園とはいえ、公有地や民有地も含まれている。前述の海岸部の市有地ほか、民有地の農地や住宅地も含まれ、1万5千人以上が公園内に居住している。これまでこのブログでも紹介してきたように、途上国を含む海外の国立公園では、公園内の土地は原則として国有地という制度をとっているところが多い。いわゆる「米国型」だ。これに対して、日本では狭い国土と古くからの土地利用などのため、国立公園内にも多くの民有地が存在する。一般的には、米国や多くの途上国のような公園専用地型の公園制度を「営造物制」、日本やアルバニア、その他のヨーロッパ諸国のような民有地も含む公園制度を「地域制」と呼んでいる。
こうした国立公園を有効に管理するため、アルバニアの保護地域では、広く関係者が参画する協働管理の確立をめざしている。管理者の環境・森林・水管理省だけではなく、公共事業省、観光省、関係地方自治体、保護地域内土地所有者、NGOなどの代表者から構成される「保護地域管理委員会」が設置され、管理計画を策定することになっている。しかし、実際のところ委員会の設置や管理計画の策定は遅々として進んでいない。
法律・制度が形式上は充実していても、実効が上がらないのが途上国の特徴だと、このブログでも何度か書いてきた。類似の制度と長年の経験を有する日本の先進国としての出番がここにある。しかし、足の引っ張り合いで国会論議も進まず、必要な法制度さえも策定できない最近の日本は、はたして先進国といえるのだろうか。
*アルバニアの保護地域制度については、筆者「協働管理の確立をめざすアルバニアの国立公園」(国立公園702、2012.4)を参照願います。
(写真上)ラムサール条約登録湿地にもなっているペリカン営巣地の湿地
(写真下)海水浴客で賑わう海岸
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三陸復興国立公園の中核として -国立公園 人と自然(14)陸中海岸国立公園 [ 国立公園 人と自然]
2011年3月11日のあの日以来、このブログの「国立公園 人と自然」で陸中海岸国立公園をいつ取り上げるか悩んできた。環境省が復興事業の一環として「三陸復興国立公園(仮称)」の再編設立を決定したこともあり、震災一周年となるこの時期にやっと取り上げることにした。ただし、私自身はまだ被災地には足を踏み入れる機会がない。以下の紹介文は、およそ10年前にある新聞の連載コラム記事として書いたものだ。震災後の現在では、記述はあまりに現実離れしすぎているかもしれない。その点はご容赦願いたい。
『陸中海岸国立公園は、岩手県久慈市から宮城県気仙沼市にかけての180kmに及ぶ海岸線である。岩手県宮古から北側は海食崖や海岸段丘が続く隆起海岸で、南側の大船渡周辺は陸地が沈んで複雑な海岸線を形成しているリアス式海岸だ。ここで見られる目もくらむような断崖絶壁あるいは眼鏡や蝋燭のような奇岩の数々は、わが国の長い海岸線の中でも代表的な景観だ。中でも、200m近い断崖が8kmも続く北山崎は、絵葉書やポスターにもよく登場する。また、1683(天保3)年に宮古常安寺の僧侶、霊鏡が発見したと伝えられる浄土が浜の白砂と奇岩の織り成す景色は、その名のとおり訪れる人々を安堵の世界に導く。
三陸沖で多発する地震とこの複雑な海岸線は、この地域を津波の常襲地帯としている。津波をもたらすのは、沖合の地震だけではない。1960年には、太平洋のはるかかなたのチリ沖で発生した観測史上最大の地震により、発生から22時間後に津波が到達した。この津波による被害は、太平洋岸の各地で死者142名、家屋の全壊流出2800戸という大きなものだった。津波の高さは大船渡で実に5-6mにもなった。今でも、海岸の岩肌には信じられないほどの高さの所に津波の白い線が残っている。
特に岩手県田老町は、この300年間に数十回にわたり津波の被害を受け、数度の全町壊滅をも経験している。現在では総延長2400mにもおよぶ防潮堤「田老万里の長城」が完成し、町を災害から守っている。また、宮城県唐桑半島には全国で唯一の「津波体験館」がある。座席に座ると、映像と音響に振動も加わって、津波を疑似体験することができる。
海がもたらすものは災害ばかりではない。津軽石川(宮古市)や大槌川(大槌町)などには、サケが産卵のため遡上する。江戸時代初期にこのサケを江戸まで輸送するため考案されたのが「南部鼻曲がり鮭」、現在の新巻き鮭だ。考案者は、大槌地方を治めていた大槌孫八郎政貞だと伝えられている。岩手県は本州一のサケ漁獲量を誇り、シーズンには「鮭のつかみ取り」などのイベントも催される。』
10年前の記述に、こんなに地震と津波に関して分量を割いていたとは、我ながら驚きだ。それだけ、訪れた際の印象が強かったということだろう。しかし、防潮堤が人々を救うことができなかったのは誠に残念としか言いようがない。
環境省の発表によれば、北山崎の断崖や浄土ヶ浜・浄土ヶ島などの地形には地震と津波による変化はなかったというが、歩道やレストハウスなど海岸沿いの施設は被災したようだ。中でも、高田松原は壊滅的な被害を受け、唯一残った「奇跡の一本松(希望の松)」も、塩害により枯死を待つばかりという。
陸中海岸国立公園は、南三陸金華山国定公園や他の県立自然公園などとともに、三陸復興国立公園(仮称)に再編される予定だ。以前の文章の最後にも記したとおり、「海がもたらすのは災害ばかりではない」と思う。それを信じたい。「人と自然」の絆が一層深まり、海の恵みによって、一日でも早く被災地が復興され、かつての賑わいが再びもたらされますよう、切に祈っています。
1955年5月指定 12,212㌶
岩手、宮城にまたがる
(写真 上・下)陸中海岸北山崎付近の風景(ともに震災前)
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歴史が交錯するキリシタンの里と軍港が生んだ国立公園、世界遺産候補、そしてハンバーガー -国立公園 人と自然(13)西海国立公園 [ 国立公園 人と自然]
多島海の中でも、北松浦半島南西沿岸の佐世保から平戸島にかけて大小約200の島々が点在する「九十九島」は特に有名だ。島の密度は日本一とも言われ、島々をシルエットに海を赤く染める夕日の景色は正に日本を代表する景観でもある。ここはまた海洋性スポーツなどの拠点にもなっている。
九十九島から西には、平戸島や生月島、さらに宇久島から福江島まで140余の島々から成る五島列島が連なる。平戸島は遣隋使や遣唐使の寄港地にもなっていたため、小野妹子、弘法大師空海、栄西禅師なども立ち寄ったという。
その後もこれらの島々は、大陸との交流や南蛮貿易の拠点にもなり、キリシタン禁教令以降は、多くの隠れキリシタンが移り住んだ。このため、こうした史跡が多く残っている。特に明治時代の禁教令解禁後は、木造、石造り、レンガ造りなど多様な教会が建築され、現在ではこれらの教会巡りも西海国立公園周遊の楽しみの一つとなっている。これらの教会建物は、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として世界遺産の暫定リストに掲載された。地元では、正式な世界遺産登録に向けて運動中だ。
一方、九州本土側の佐世保は、明治時代には大日本帝国海軍の佐世保鎮守府(明治22年)、そして海軍工廠(明治36年)が置かれるなど、横須賀、呉に次いで軍港として整備された基地の町だ。ここはまた、九十九島など島々への周遊・渡航の拠点、また多島海景観の展望地でもある。
その九十九島の展望地として名高く、昭和初期には「新日本百景」(昭2年、大阪毎日新聞社)にも選定されて登山バスも走っていた弓張岳がある。しかし、軍港であるがために、この弓張岳への登山も、戦争が激しくなると軍事機密保持のために禁止となってしまった。
それでも戦後になると、「観光地百選」(昭25年、毎日新聞社)に選定されるなど、再び観光地として脚光を浴び始めた。当時の佐世保市長中田正輔は、軍事基地の故に残っていた自然を観光資源として活用するために国立公園誘致運動を始めた。こうして、「西海国立公園」が誕生した。自然破壊の最大の脅威である戦争が自然保護に貢献したとは、なんとも皮肉だ。もっとも、現在でも同様の例には、沖縄やんばる、朝鮮半島軍事境界線などがあるが。
かつての軍港佐世保には、戦後は進駐軍が駐留した。朝鮮戦争の勃発により多くの米兵が駐屯すると、ハンバーガーも伝えられ、手作りのハンバーガー店も出現した。現在では、“佐世保バーガー”として観光客の人気もある。
歴史を秘めた世界遺産候補の島々も、平戸大橋(77年)、生月大橋(91年)、若松大橋(91年)、大島大橋(99年)など、次々と長大橋により連絡されている。こうして再び、西海の地は、新たな歴史と景観を刻みつつある。
1955年3月指定 24,636㌶ 長崎県
(写真上)生月島の大バエ断崖
(写真下)日本一の密度を誇る九十九島
雄大な「神の座」に遊ぶ動物たちと咲き乱れる高山植物 -国立公園 人と自然(12)大雪山国立公園 [ 国立公園 人と自然]
大雪山は、一つの山の名ではなく、旭岳(2290m)を主峰に、黒岳、間宮岳など20連峰におよぶ山々の総称だ。十和田を愛し、十和田に眠る文人大町桂月は、大正10年(1921年)に来道し、大雪山にも登山した。その桂月は後に、「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」と記した。しかし、わが国の国立公園誕生の黎明期、その雄大さは残念ながら国立公園候補地とは足りえなかった。大正10年に当時の内務省が選定した国立公園候補地16カ所には、道内では阿寒、登別、大沼が挙げられているものの、大雪山の名はなかった。この国立公園選定の中心人物で日本の国立公園の父とも呼ばれる田村剛は、その著の中で、国立公園として第一流なのは富士山、日光、上高地、朝鮮金剛山(当時は日本領)などであり、第二流として、道内では箱庭的な美しさのある大沼公園(現在は国定公園)が挙げられているものの、大雪山は挙げられていない。しかし、足の悪い田村を駕籠(かご)に乗せて層雲峡などを案内した結果、田村も大雪山の雄大さに感銘を受けたという。この結果、大雪山は昭和9年(1934年)12月にわが国の国立公園の第1陣として指定された(厳密には、同年3月に霧島などが指定されているが、12月指定のものまでも含めて「最初の国立公園」とすることも多い)。今日の大雪山国立公園は、地元の人々の熱き想いと猛烈な陳情などの運動の結果である。
アイヌの人々はこの壮大な山々を昔から「カムイミンタラ(神の座)」として崇めてきた。その山系は、例年だと9月に入ると早くも山頂付近から順にウラシマツツジやナナカマドなどの紅葉で染まりだす。やがて初雪もやってくると、雪の白と紅葉の赤や黄、さらに麓の緑とのコントラストが見事だ。
この大雪山国立公園は、わが国最大の国立公園だ。また、神奈川県とほぼ同じ面積のこの公園の約95%は国有地(国有林)で、民有地の多いわが国の国立公園の中では最も高い国有地率を誇っている。北海道の自然はもともと雄大だが、大雪山のエゾマツやトドマツなどの針葉樹原生林や山頂部の高山植物・雪田植物の群落はいずれも大規模で、見る者が圧倒される。単にお花畑が大きいだけではなく、エゾノツガザクラなど1種類ごとの群落面積がとにかく大きい。ここにはヒグマやエゾシカなどの哺乳類、クマゲラやシマフクロウなどの鳥類、さらにウスバキチョウやダイセツタカネヒカゲ、アサヒヒョウモンなどの高山蝶が生息している。氷河期の生き残りといわれるナキウサギは、重なり合った岩場を住家としており、その名のとおり鳴き声をあげて仲間に警戒を伝えたりする。
また、大雪山には羽衣の滝など滝も多い。特に層雲峡には無数の滝がかかる。中でも銀河の滝と流星の滝が有名だ。層雲峡は石狩川に沿って約24kmにわたり、100mから200mもの高さの柱状節理(マグマが凝固してできる柱状の割れ目)の断崖が続くわが国最大級の大渓谷で、そのために滝も多いのだ。川沿いの大函、小函は、柱状節理の景観が見事だが、残念ながら車道からは見ることができない。道路改良のために現国道はトンネルとなってしまっている。柱状節理というのはいわば風化の進んだ岩盤だから、落石も多い。現在でも道路改良が続き、トンネルは年毎に多くなっていく。これも安全のためには致し方ないか。落石だけではなく、十勝岳の噴火による災害もたびたび起きている。
層雲峡の紅葉も間もなく終わろうとしている。これから雪に覆われた長い冬が始まるが、道路改良も進み、除雪体制も進んでいる現在の北海道では、家に閉じこもることもなくなってきた。真冬でも運行するロープウェイなどにより、凛とした「カムイミンタラ」の世界を訪れることもできる。しかし、本当の大雪山の自然は厳しい。くれぐれも自然を甘く見て、侮らないようにしてもらいたい。
大雪山国立公園 1934年12月指定 226,764㌶ 北海道
(写真上) 高山植物が咲き乱れる裾合平(旭岳)
(写真下) 層雲峡 銀河の滝
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ゾウの楽園の背後にあるもの -国立公園 人と自然(番外編1追補)ワイ・カンバス国立公園(インドネシア) [ 国立公園 人と自然]
インドネシアは、東南アジア型(東洋区)の動物とオセアニア型(オーストラリア区)の動物が生息する世界でも有数の生物多様性の宝庫だ。バリ島とロンボック島の間を通るこの境界は、ウォーレス線として知られている。なお、この分布の相違を発見したウォーレス(Alfred R. Wallace)は、自然選択説を提唱し、ダーウィンの進化論(種の起源)の発表にも影響を与えた博物学者としても有名だ。
スマトラ島には、トラやサイなどのアジア型の動物が生息している。ゾウもその1種だ。ジャワ島など他の島では、トラもゾウも絶滅してしまったが、カリマンタン島(マレーシアでは、ボルネオ島と呼ばれる)とスマトラ島には、現在も生息している。
そのゾウたちは、熱帯林の伐採によって住処を奪われている。スマトラ島は、2000-2005年の間で1,345,500haもの森林減少があり、インドネシア国内でも最も森林減少・劣化が進行している地域だ。その熱帯林の伐採の原因は様々だ。最近では、スナック菓子などの揚げ物油やバイオディーゼル(バイオ燃料)原料のオイルパーム・プランテーション造成のために急速に伐採が進んでいる。地球温暖化防止のためのバイオディーゼルが、二酸化炭素を吸収固定する熱帯林の伐採につながるのだから、皮肉なものだ。またこれまでにも、天然ゴムやココナツヤシ、さらにはキャッサバ(シンコン)やバナナのプランテーションが開発されてきた。
住処を奪われたゾウたちも生きて、子孫を残さなければならない。しかし、豊富な食料(餌)を提供してくれた森林はもはやわずかだ。そこで、手っ取り早く餌を確保するため、集落周辺のバナナ園や畑を荒らすことになる。ときには、うまそうな匂いにつられてか、人家を破壊してしまうこともある。これについては、ゾウが人間に対する報復として、意図的に集落を襲うという説もあるが。
それに対して腹を立てた村人たちは、ゾウを殺してしまう。いわゆる有害獣駆除だ。その際に傷を負ったゾウや母親が殺されてしまった乳飲み子のゾウなどが、ワイカンバス国立公園の訓練センターに連れてこられるのだ。もっと積極的に、ゾウを単に駆除するのではなく、捕獲し訓練して、木材運搬や観光に利用しようとの思惑もある。
ワイ・カンバス国立公園のあるスマトラ島南部は西側のバリサン山脈地域を除けば比較的平坦だ。また、首都ジャカルタもあるジャワ島ともフェリーで結ばれている。そこに目を付けた政府の移住省は、人口稠密なジャワ島から島外に住民を移住させる「移住政策」の対象地としてスマトラ島南部に目を付け、大量のジャワ人やスンダ人を入植させた。
ワイ・カンバス国立公園周辺でもこうした入植地が拡大した。ときには移住省の手違いで国立公園制度創設前の保護地域内に移住させたこともあった。現在の国立公園南部の境界付近は、そのようにして森林が畑地や集落に転換されていったのだ。その後国立公園が指定され、保護地域内への移住は誤りだったと気付いた移住省は、その地域の住民を公園外に再移住させた。今から30年ほど前のことだ。
さすがに公園内の元の集落跡地は森林に遷移しつつあるが、隣接地では現在も大規模な農地が広がっている。かつて盛んに栽培されたデンプン採取用のキャッサバ(シンコン)畑は、より収益性の高いパイナップル畑に代わっている。また、輸出用のバナナ栽培も盛んだ。果実は傷つかないように、房全体が紙袋で覆われている。
360度見渡す限りの畑(プランテーション)。これではゾウが野生のままで生きていけるはずがない。畑地に餌を求めるのも無理はない。ゾウと人間との居住地を巡る争いは、いまだに続いている。ワイ・カンバス国立公園の訓練センターのゾウは、こうした争いの犠牲者なのだ。同時に人間もまた、政策に翻弄された犠牲者かもしれない。
(写真上) ゾウに乗ってトレッキングを楽しむ観光客
(写真下) 国立公園境界付近の見渡す限りのパイナップル畑
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魅惑の高山植物、消滅した恐竜と山村生活 -国立公園 人と自然(11)白山国立公園 [ 国立公園 人と自然]
このところ、日本海側を中心に九州までの広い範囲で大雪が降っている。今回の国立公園ブログ記事は、この大雪にちなんで、その名も白き名峰「白山国立公園」を取り上げる。
白山は、富士山、立山とともに日本三名山と呼ばれ、奈良時代には開山されたと伝えられる信仰の山でもある。しかし、「白山」という名称の単独の山はなく、御前峰(2702m)を主峰とする山の総称である。
ここには、ハクサンフウロ、ハクサンイチゲ、ハクサンチドリ、ハクサンシャクナゲなど、植物好きの人なら一度は聞いたことのある「ハクサン」の名を冠した多くの高山植物も生育している。私はかれこれ20年前に、日本に産する約8,000種の高等植物の和名(学問的に使用されている標準和名)を分類したことがある(「植物和名接頭辞考 -植物和名の接頭辞にみる自然と人間」森林文化研究第12巻、1991年)。この結果、「ハクサン」を冠した植物は18種。これは山名を冠した中では、「イブキ(伊吹山)」(22種)、「フジ(富士山)」(19種)に次ぐ種数だった。これらは、必ずしも白山だけに産する、いわゆる固有種ではないが、高山植物が豊富なため、古くから植物学者により調査研究された結果、ここで発見されたものが多く、「ハクサン」の名が付いた。「花の白山」とも呼ばれる所以だ。写真好きの人にはたまらない。ハクサンの名を冠した植物をはじめ、多くの高山植物が多くのファンを魅了している。これらの高山植物やハイマツ、アオモリトドマツなど、白山を分布の西南限とする植物は多い。
また、中腹にはブナの原生林も広がり、ツキノワグマ、カモシカなど大型哺乳類も多く生息している。全国に500羽ほどしかいないといわれる猛禽類イヌワシも、白山周辺には40羽近く生息しているという。これらの動物は、もともと繁殖率も低く(子供の数が少なく)、採餌など生息に広い面積を必要とするが、森林伐採などにより生息地が減少し、全国的に絶滅の危機に瀕している。白山では、広大な原生林と急峻な地形、豪雪がこれらの動物を人間による絶滅から守ってきた。これらの原生的な自然は、ユネスコ「人間と生物圏計画(MAB)」による生態系研究のための生物圏保存地域(わが国で4箇所)の一つにもなっている。
白山国立公園の4県には、手取層群という中生代ジュラ紀から白亜紀前期にかけて堆積した地層があり、化石が豊富だ。1874年(明治7年)、ドイツ人研究者ラインによる白山登山の際の石川県白峰村での植物化石採取がわが国最初の化石採取で、採取地の通称「桑島の化石壁」は地質学発祥の地とも言われている。この地域をはじめ、手取層群からは、その後もわが国最古の恐竜化石などが続々と発見されている。最近でも、肉食恐竜の化石が発見されたという。白山周辺は、さながら自然の恐竜博物館のようだ。
この公園はまた、自然保護関係者には「スーパー林道」の名で思い出されることも多い。森林開発公団(当時)が1960年代後半から全国各地で建設した高規格の林道で、この「白山スーパー林道」のほか、「南アスーパー林道」「奥鬼怒スーパー林道」などが有名だ。地域振興への期待の一方で、国立公園など原生的な地域を貫通し、またその工事も残土を谷に崩落させるなど自然破壊が懸念され、反対運動も起きた。
山村の生活と言えば、この地域には「出作り」という生活様式が昭和初期まで見られたという。これは、縄文時代から続いた白山山麓の山の民の典型的生活様式だ。夏季は山の出作り先住居で焼畑、炭焼き、養蚕などをして暮らし、冬季は村に帰って生活をする自給自足の2重生活だった。それも今はほとんど見ることができない。
恐竜など自然ばかりでなく、伝統文化も生活様式の変化に伴って変化し、あるものは衰退・絶滅してゆくのは世の常か。
1962年11月指定 47,700㌶
富山、石川、福井、岐阜にまたがる
(写真上) 白き白山の峰
(写真下) 白山の名を冠した代表的な植物のひとつ「ハクサンチドリ」
インドネシアで最古の国立公園、周辺は別荘も多い避暑地 -国立公園 人と自然(番外編4)グデ・パンゴランゴ山国立公園(インドネシア) [ 国立公園 人と自然]
この国立公園の名称になっている「グデ山」(標高2,962m)と「パンゴランゴ山」(標高3,091m)はともに火山で、グデ山は1957年に噴火している。周辺には温泉も湧出している。グデ山の登山道の途中には“湯滝”も流れ落ちていて、登山者はヌルヌルの河床を滑らないように慎重に横断しなければならない。もっとも、インドネシアの人々は、この3000m級の山にもビーチサンダル(ゴム草履)という日本では信じされない装備で登山し、湯滝を渡っていく。Tシャツにサンダルとは、日本の山ガールファッションとは無縁の世界だ。登山の起点チボダス(Cibodas)の標高は約1,400m、山頂までの標高差1,500mをビーチサンダルで登るのだから驚きだ。グデ山山頂からの見晴らしは素晴らしく、間近にはパンゴランゴ山のドームが望まれる。その遥かかなたの秀麗な山容が、ボゴールの家から毎日見慣れたサラック山であることを悟るまでは、しばらく時間を要した。(*ボゴールに住んでいたことについては、下記参照)
公園内は、山頂の高山植生から山麓の森林まで自然性の高い植生に覆われ、約900種の固有植物種をはじめ、鳥類245種、霊長類4種、さらにはヒョウ(Panthera pardus)など、多くの動植物が確認されている。特に、グデ山とパンゴランゴ山の鞍部に広がる草生地スリヤカンチャナ(Suryakancana)は、エーデルワイスの一種が生育していることで知られている。また、主要登山口であるチボダスには、「チボダス植物園」がある。このチボダス植物園は、現在ではボゴール(Bogor)市内のボゴール植物園の分園としてインドネシア科学院(LIPI)によって管理され、高地性の熱帯植物の研究の場として、またジャカルタ市民など人々の憩いの場として活用されている。このチボダスやグデ山には、シンガポール建設者としても有名なイギリスのラッフルズ(Sir Thomas Stamford Raffles)やダーウィン進化論に影響を及ぼし、ウォーレス線(バリ島とロンボック島の間にあるアジア型の生物種とオセアニア型の生物種の境界)の発見で有名なウォーレス(Alfred Russel Wallace)も訪れたという。
私がこの公園を初めて訪れたのは、1995年にJICAの「インドネシア生物多様性保全計画」プロジェクトのリーダー(チーフアドバイザー)として、国立公園管理事務所を訪問した時だ。JICAプロジェクトについては、このブログでもたびたび取り上げているが、当時はプロジェクトの現場である「ハリムン山(グヌン・ハリムン)(Gunung Halimun)国立公園」には管理事務所はなく、このグデ・パンゴランゴ山国立公園の管理事務所長が兼務していたのだ。
その訪問の際に感じたのは、日本の「箱根」(富士箱根伊豆国立公園)になんと似ていることか、ということだった。前述のようにインドネシアでも最も古い国立公園の一つで、管理事務所もちょうど日本の日光や箱根のように国内では歴史がある。また、首都ジャカルタに最も近い国立公園で、利用者が多い。ジャカルタからこの公園に至る道すがらは、さながらリゾート別荘地帯だ。特に、ボゴールからプンチャック(Puncak)峠にかけてはリゾートホテルやヴィラと呼ばれる別荘が多い。これらの点が、なんとなく箱根を彷彿させた。そして何よりも、公園内(入り口)にゴルフ場があるのも、実に“箱根的”だ。
その後、JICAプロジェクト・リーダーの任期満了とともに帰国して、環境庁(当時)に復帰した私の職場が“箱根”だったのも、巡り合わせだったかもしれない。しかし、足繁く通ったグデ・パンゴランゴ山国立公園管理事務所を久しぶりに訪れて、当時の親近感は感じられなかった。やはり、15年の歳月は、当時の親近感を希薄にさせるに十分な時間だったようだ。
(写真上)リゾートホテルからみたグデ山(左)とパンゴランゴ山(右)
(写真下)比較的平坦なアプローチで観光客も多いチベリウム(Cibeureum)滝、ここからグデ山への登山道が分岐している
(関連ブログ記事)「インドネシア生物多様性保全プロジェクト1」、「インドネシア生物多様性保全プロジェクト2(調査研究活動)」、「インドネシア生物多様性保全プロジェクト3(国立公園管理)」、「インドネシアの生物資源と生物多様性の保全」、「国立公園 人と自然(番外編1)ワイカンバス国立公園(インドネシア) -ソウと人との共存を求めて」、「プロフィール」、「形から入る -山ガールから考える多様性」
陽光輝く海原と桜満開の伊豆半島 -国立公園 人と自然(10) 富士箱根伊豆国立公園(追補) [ 国立公園 人と自然]
3月の末に、久しぶりに伊豆に行ってきた。環境行政学会という会合のついでに半島をドライブした。陽光輝く海原の先には、前日の寒波で雪をかぶった大島が浮かぶ。山々は芽吹きはじめ、オオシマザクラの白い花色が斜面に彩りを添えていた。伊豆は桜餅などに使用する桜葉塩漬の産地としても有名だ。西伊豆の松崎町では、摘みやすいように低く仕立てたオオシマザクラの樹園があり、全国の桜葉塩漬け生産量の70%を占めるという。もっとも、最近では桜餅にもプラスチック製の葉が使用されたりするが。春爛漫の伊豆のドライブ中、いつの間にか「岬めぐり」(山本コウタローとウイークエンド)を口ずさんでしまうといえば、年代もわかってしまうだろう。このブログではプロフィールも既に明らかにしているが。
伊豆半島は前回の連載ブログ「国立公園 人と自然(10)富士箱根伊豆国立公園 -世界のフジヤマ、天下の険 箱根、そして踊子の伊豆」で記したとおり、1955年に富士箱根国立公園に編入された。半島全域が国立公園と思っている方も多いかもしれない。しかし実際の公園指定地域は、海岸自動車道路沿いあるいは岬の展望台などと、そこから見える海岸や岩礁など比較的限られている。日本の国立公園は景観保護が目的だといわれる由縁でもある(ブログ記事「日本の国立公園は自然保護地域ではない? -多様な保護地域の分類」参照)。一方、天城の山中は主として稜線を中心に指定されてきたたため、伊豆スカイラインなどその後の道路建設により、稜線から外れた道路沿いは公園外ともなっている。いずれにしろ、数本の紐のいわば組み紐のような伊豆半島の国立公園区域の中で、満開の桜並木が続き大勢の人が訪れていた伊豆高原駅から大室山にかけての別荘地帯は、城ケ崎の海岸地帯とともに比較的国立公園の地域が広がっている地域だ。伊豆半島の組み紐のような国立公園区域は極端な例だが、面的な公園でも、保護計画という区域指定をよく見てみると、規制の比較的厳しいのは道路沿いだけで、沿線から外れた部分は規制の緩やかなことも多い。最近では、生態系・生物多様性保全の観点から、自然公園法も改正になり、こうした公園計画も徐々に変更されてきている。
伊豆半島には、毎年首都圏から多くの人が訪れる。だが、その形態や目的はずいぶん変わってきた。かつては熱海や伊東などの大温泉地に、修学旅行や職場の団体観光客などが大挙して押し寄せた。旅館ホテルも、もっぱら団体客向けの部屋の造作と宴会などの接客サービスに特化してきた。そして最近では、小グループや熟年夫婦の旅行客が多くを占め、伊豆高原をはじめ各地に点在するミュージアムやレストランを求めて訪れるようになってきた。それにつれて、宿泊施設もペンションなど小規模のものも増え、部屋の間取りも少人数用に対応せざるをえなくなってきた。しかし、いつの時代でも変わらないのは、日本人を惹き付けてやまない温泉の魅力だ。伊豆半島には、温泉以外にも、海岸や天城山中などの自然と鄙びた生活やナマコ壁建物などの伝統的文化がまだまだ残っている。おしゃれなミュージアムもよいが、国立公園ならではの自然と文化を味わいたいものだ。
(写真上)南伊豆の海岸景観(奥石廊にて)
(写真下)大勢の観光客でにぎわう桜並木(伊豆高原にて)
(関連ブログ記事)「国立公園 人と自然(10)富士箱根伊豆国立公園 -世界のフジヤマ、天下の険 箱根、そして踊子の伊豆」、 「日本の国立公園は自然保護地域ではない? -多様な保護地域の分類」、 「意外と遅い?国立公園の誕生 -近代保護地域制度誕生の歴史」
(2010.6.4 タイトルおよびカテゴリー変更)