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ss またまた猫の街へ [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

もともと記事更新が遅いところ、3週間ほどの海外出張が入り、またまた更新が滞ってしまった。



滞在先は、マレーシア連邦サラワク州の州都クチン。


サラワクは、世界で3番目に大きな島ボルネオ島にある。


島の南部約3分の2は、カリマンタと呼ばれるインドネシア領だ。北部は、ブルネイを挟んで東側のサバ州と西側のサラワク州がマレーシア連邦領となっている。


サラワク州に入るには、隣国のシンガポールなどから空路で入国する場合にはもちろん入管の手続きが必要だが、同じ国内のクアラルンプール経由(トランジット)で国内便で入る場合にも国外からと同様に入管手続きが必要だ。


サラワク州は、第2次世界大戦下の日本占領時代を経て、1963年のマレーシア連邦結成時に参加してマレーシアの1州となった。

19世紀には、英国人探検家ジェームズ・ブルックが藩王(ラジャ)となり、約100年間にわたるブルック家3代による白人王国が存続した。


そんなこともあり、半島部のマレーシアからの独立意識が強く、連邦加盟後も強力な自治権が認められている。それが今日でも入州に入管手続きが必要な理由かもしれない。


ともあれ、州都クチンは、マレー語(インドネシア語もほぼ類似)で「猫」の意味だ。

その名の由来には諸説あるが、必ずしもネコとの関係があるわけでもなさそうだ。

しかし現在では、市庁舎の1階には「猫博物館」まであり、街中いたるところに猫のモニュメントもある。


猫博物館には昔クチンに来た時に訪れたことがある。猫に関連する絵画や彫刻・置物・人形など、所狭しと陳列されていた記憶がある。

ネットによれば、日本のドラえもんやなめネコも展示されているらしい。

今回は訪問しなかったけど。


猫モニュメントで有名なのは、街中央部のこのモニュメント。クチンのシンボル的な存在?


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ひっきりなしに観光客が記念写真を撮っている。
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ほかにも、上のモニュメントからすぐ近くの交差点にある白猫の像。


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夜景も美しい。緑ネコ?
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食事などで出かけた街はずれにも、さまざまな猫のモニュメントが。

どれも巨大な猫たち!!


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最後に、街中で見かけた生ネコ?


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いたる所で猫の姿を見ることができる街、クチンだった。


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ss ボゴール宮殿と植物園 天皇皇后両陛下のインドネシア訪問 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

インドネシア訪問中の天皇皇后両陛下は、インドネシア訪問の旅を終えて帰国された。


旅程の中で、2023年6月19日、ボゴール宮殿での歓迎行事の後、ジョコ大統領自ら運転するカートで隣接する植物園を巡られた、と報じられた。


ボゴール宮殿は、ジャカルタから60kmほど南のボゴール市にある大統領離宮だ。

オランダ植民地(オランダ領東インド)時代の18世紀から19世紀にかけて建設改修が行われた植民地総督の別荘だった。


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ボゴール宮殿

オランダに代わって一時的に大英帝国の植民地となった1811~1816年の間は、シンガポール建設で有名なトマス・スタンフォード・ラッフルズ総督も、バタヴィア(現、ジャカルタ)の猛暑から逃れて冷涼な宮殿によく滞在した。

彼は、宮殿に連なる土地を本国のキューガーデン(王立キュー植物園)から呼び寄せた庭師によってイギリス式庭園として整備したほどだ。

この庭園を妻のオリビア・マリアンヌ夫人と散策するのが何よりもの楽しみだったようだ。

しかし最愛の妻オリビアは、病により1814年に亡くなり、ラッフルズは傷心の中、妻がこよなく愛した庭園に白亜の記念碑を建てた。この記念碑は、現在でも植物園の入口近くに残っている。
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オリビア夫人の記念碑

ラッフルズ夫妻が整備し散策したボゴール宮殿に連なる47ヘクタールの庭園は、再びオランダ領となった1817年に、ドイツ人カスパー・ゲオルグ・カール・ラインヴァルトによってボゴール植物園として再整備された。

オランダ領なのにドイツ人? 彼はアムステルダムで植物学を含む自然科学を学んだとかで、江戸時代に来日したドイツ人シーボルトもオランダ商館の一員だったから、この時代にはよくある話だったかも。


植物園には、世界各地のオランダの植民地から作物や薬草など様々な植物が集められた。

プラントハンターが活躍した大航海時代には、植物園とは植民地からの珍しい医薬品や換金作物を本国オランダに送るための実験農場、気候馴化の中継地でもあったのだ。

1848年には西アフリカから4粒のアブラヤシ(オイルパーム)の種子がボゴール植物園にもたらされ、現在の東南アジアでのアブラヤシ・プランテーション造成の契機となった。

植物園の4本のアブラヤシのうち最後の1本も、1993年には枯れてしまった。
第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1942年以降はインドネシアが日本の支配下となり、植物園長も日本人植物学者の中井猛之進が務めた。

名称も日本語のShokubutsuenと変わった。

この間には、軍部による木材調達のための樹木伐採要求もあったが、中井園長らはこれに抵抗し、植物園の樹木は守られた。


この結果、現在の植物園には、巨大な板根を有するフタバガキ科やカンラン科などの巨木をはじめ、多数の熱帯植物などが残っており、東洋で最大規模の熱帯植物園となっている。

天皇皇后両陛下が、ジョコ大統領の案内でどんな植物をご覧になったかは不明だが、多数の園内植物から、ほんの一部の写真をご紹介。
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巨大な板根のカンラン科樹木

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真綿のような実をつけるカポックの木


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舞い落ちてきたカポックの実
枕などの詰め物パンヤの原料


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燃えるように赤いヒスイカズラ?
イリアンジャヤの炎レッド・ジェイド・バイン

ほかにも、釣鐘型のウリの実の底からグライダーのようにフワフワと滑空する翼を付けた種子を次々と飛ばすアルソミトラ、フランクフルトソーセージにそっくりの実をぶら下げる、その名もソーセージの木、白い大きな苞葉がハンカチにそっくりなハンカチの木、星の王子様で有名なバオバブ、世界最大級の臭い花ショクダイオオコンニャクの数十年ぶりの開花、1本の巨木に数えきれないくらいに群がってぶら下がっている大きなフルーツバット(コウモリ)などなど、目を閉じると園内の光景がよみがえる。
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フランクフルトソーセージのような実をぶら下げるその名もソーセージの木

実は私、JICA生物多様性プロジェクト初代リーダーとして、ボゴールに3年間滞在したことがある。

このうち、1年以上はボゴール宮殿のすぐ裏手にある植物園内建物のオフィスに通い、昼休みには園内をよく散歩したものだ。
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オフィスがあった植物園内の建物
この建物のすぐ裏がボゴール宮殿

しかしその頃は、目の前の仕事をこなすのが精一杯で、現在の東南アジアの森林破壊の元凶となっているアブラヤシの導入が、このボゴール植物園だったとは夢にも思わなかった。

 

大航海時代のプラントハンターと植物園が果たした役割、ボゴール植物園の園長が日本人だったことなど、ご興味のある方は拙著『生物多様性を問いなおす 世界・自然・未来との共生』(ちくま新書)をご覧ください。


植物園の話は、

第1章 現代に連なる略奪・独占と抵抗

1植民地と生物資源

西洋料理とコロンブスの「発見」/ヨーロッパの覇権/チョウジと東インド会社/プラントハンターと植物園/日本にも来たプラントハンター/日本人が園長 ボゴール植物園物語/ゴムの都の凋落

オイルパームの話は、同じく第1章の

2熱帯林を蝕む現代生活

そのエビはどこから?/東南アジアのコーヒー栽培/インスタントコーヒーとルアックコーヒー/ほろ苦いチョコレート/日本に流入するパームオイル/地球温暖化と生物多様性/熱帯林の消失

 

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新国立競技場完成 その道のり [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

いよいよ2020年の東京オリンピック・パラリンピックのメインスタジアムとなる「新国立競技場」が2019年11月30日に完成した。

第2次世界大戦末期、徴兵が猶予されていた大学生たちが学徒出陣と称して戦場に駆り出された。

新国立競技場の前身となる「明治神宮外苑競技場」で壮行会が開催されたのは、1943年(昭和18年)10月21日の雨天の中だった。

記録映像でしばしば登場するあの場面だ。

私の小学校はこの地域を学区としており、私も子どもの頃には外苑競技場周辺でよく遊んだものだ。

同級生などには、競技場すぐ近くにあったかつての霞ヶ丘兵舎に住んでいるものもいた。
木造2階建ての廊下の両側には部屋が並び、トイレも共同、もちろん風呂などない部屋に一家で住んでいた。

そんな「明治神宮外苑競技場」も、1958年には「国立霞ヶ丘陸上競技場(通称:国立競技場)」として全面的に建て替えられた。

完成後には、第3回アジア大会(1958年)、東京オリンピック(1964年)の会場となり、またサッカー、ラグビーなどの競技会場、さらにはコンサート会場などにも使用された。


競技場周辺の風景も、東京オリンピックに向けての整備により、大きく変わった。

そしてこのたび、来年2020年の東京オリンピック・パラリンピックを迎えるために「新国立競技場」として再度建て替えられたのだ。

この建て替えに際しては、当初はザハ・ハディド氏の設計案が採用されたが、高額の建設費などのために白紙撤回されるなど、話題となったことは記憶に新しい。

その後、隈研吾氏を中心とした設計による木材などを多用した現在の新国立競技場が建設されることになった。

旧国立競技場の写真もあったが、見当たらない(デジタル化していない)ので割愛。
以下は、新国立競技場の建設中の写真の時系列。

2015年8月
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2017年1月
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2017年9月
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2018年2月
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2019年2月
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2019年10月
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かくして新国立競技場は完成し、いよいよオリンピック・パラリンピックの開催を待つまでとなった。

オリンピック・レガシーが叫ばれているが、単に建造物だけではなく、この場が、そして日本自体、いや世界中が、二度と学徒出陣壮行会などというバカげたイベントの会場(そして戦争状態)としない決意を遺産として残したいと祈るものだ。

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復興への「道」の起点 八戸 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

台風19号の犠牲者の皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災者の皆様の一刻も早い復興をお祈りします。

このところ、台風や地震などによる激甚災害が頻発しているようにも思える。
激甚災害といえば、何といっても「東日本大震災」を思い起こす。

その復興支援、地域活性化のために環境省が整備したのが「みちのく潮風トレイル」。
青森県八戸市を起点に、福島県相馬市までの約1000kmにおよぶ長距離歩道だ。

今年(2019年)6月に全線開通し、震災被災地でもある太平洋岸の4県28市町村を結んでいる。

起点となる種差海岸と蕪島は、前回ブログ記事の階上町にある階上岳とともに、2013年に震災復興の「三陸復興国立公園」に指定された。

蕪島は、ウミネコの産卵地として有名だ。
島の蕪島神社社殿は、火災のために再建中で、来年3月頃まで島内への立ち入りは禁止されている。

蕪島手前の右手に続く道が、みちのく潮風トレイルだ。
写真では見難いが、右端の歩道沿いにトレイルの起点案内板が設置されている。

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蕪島を含めて、八戸市一帯の海岸を「種差海岸」と呼んでいる。
その中心地「種差天然芝生地」は、JR種差海岸駅からも近く、多くの観光客が訪れる。

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民家風の「種差海岸インフォメーションセンター」は、海岸散策や地場産業の情報提供、休憩場所として賑わっている。

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蕪島から種差天然芝生地までの間には、いくつかの見どころも点在している。
そのひとつ、「鮫角灯台」は、1938年に建造され、日本の灯台50選にも選定されている白亜の美しい灯台だ。

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また、岬に突き出た「葦毛崎展望台」は、石積みの独特の形をしている。
太平洋を一望できる砦のような展望台は、第二次世界大戦中には軍の監視所として使われていたものだという。

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その足元には、ハマナスの花が満開だった。

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本日(10月22日)は、新天皇の即位を内外に宣明する即位礼正殿の儀が行われた。
皇后となった雅子さまのお印も、ハマナスだ。

ハマナスの花は、通常はピンクないし紅紫色だが、ここには白花もあった。

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みちのく潮風トレイルと並行して走る県道1号線の途上には、画家・東山魁夷の代表作「道」のスケッチの場がある。
道路脇には、道標のような形状のその案内板が建っている。


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魁夷自身の画家としての決意と将来への希望を表す、まさに彼の心象風景だ。
遠くへと続く1本の道はまた、敗戦復興に向かう人々の共感をも生んだという。

現在では、道路も拡張・改良され、樹々の様子なども変わってしまったが、やはりこの地に立つと、震災復興などに向かう希望が行く末に感じられる。

令和の新時代、この先の日本、そして世界の歩む先は、どのような道だろうか。


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森の征服 ギルガメッシュ展 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

古代オリエント博物館(東京・池袋)の特別展「ギルガメッシュと古代オリエントの英雄たち」を先月末にみてきた。

特別展入口のディスプレイ。

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写真撮影はここまで。

文字による人類最古の物語といわれる「ギルガメッシュ叙事詩」は、紀元前2600年頃の南部メソポタミアにあった都市国家ウルク(現在のイラク内)の実在の王ギルガメッシュと森の神フンババの争いの物語だ。

ウルクは、世界最古の都市国家であり、世界最古の文字・楔形文字を発明した都市国家でもある。

ほかにも、高度な文明を誇ったであろうことは、数々の出土品から想像できる。
撮影可能なコレクション展(常設展)には、ギルガメッシュ叙事詩と同時代頃の古代オリエント、シリアの発掘物などが展示されている。

紀元前2500年前後には、車輪を備えた幌車両や牛車も使用されていた。
写真の左は、シリア北部から出土した土製の四輪車模型。
写真の右は、トルコで出土した銅製牛車模型。

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古代アッシリア王国時代(紀元前2000~1600年)には、美しい幾何学文様の彩文土器も作成された。

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ギルガメッシュ叙事詩は、そのウルク遺跡から出土した楔形文字で刻まれた全十二書板の粘土板に刻まれている。


ギルガメッシュ大王と森の神フンババの争いは、この第五書板に記されているのだ。

森の神フンババは、青銅の手斧を手にしたギルガメッシュ大王に敗れ、森を手放した。
そして、王はこの香柏(レバノンスギ)の森を伐採した。

これは、人類がその暮らしのために森を開発し、その支配者となったことを象徴的に示している。

物語の舞台となった現在のレバノン地方には、鬱蒼としたレバノンスギの森が広がっていたことが花粉分析などで明らかになっているが、現在ではその面影もない。

かつて文明と人々の豊かな生活を支えたレバノンスギの森は、今ではわずかに残存するのみで、「カディーシャ渓谷と神の杉の森」として世界遺産に登録されている(1998年)。

そして、かつての豊かさの象徴としてレバノン国旗の中央に描かれている。

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Webより借用

人類による森林破壊と森の神々との争いの物語は、アニメ映画「もののけ姫」にも通じるところがあり、世界共通だ。


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米国の捕鯨 ペリー提督とジョン万次郎、そして小笠原諸島 -捕鯨 文化と倫理のはざまで(2) [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

前回記事で、日本は「国際捕鯨委員会(IWC)」を脱退して商業捕鯨を今年7月から再開したことを紹介した。

日本の捕鯨に強硬に反対していたのは、米国やオーストラリアなどだが、そもそも反対国の中心的な米国は、捕鯨を一度も行ったことはないのだろうか。

いや、そんなことはない。米国も立派(?)な捕鯨国の時代があった。

その証拠が、米国の作家ハーマン・メルヴィルの『白鯨』だ。
彼が捕鯨船に乗船していたときの体験をもとに創作された、「モビィ・ディック」と呼ばれる白いマッコウクジラと捕鯨船のエイハブ船長との闘争を描いた小説だ。

19世紀には、米国の捕鯨船団が世界中に進出していた。
この米国の捕鯨船の目的は何だったのだろうか。

欧米では、クジラのヒゲは、中世以来女性の下着やコルセットの芯にも使用されてきた。
また、竜涎香(りゅうぜんこう)というマッコウクジラの腸内で生じた結石状の物質は、香料として古来珍重され、高級香水などに使用されてきた。

しかし主目的は、ランプ用の鯨油を得ることで、そのための皮と骨以外の90%を占める肉の部分は海洋投棄されてきた。

それは、日本のような鯨肉などすべてを利用するものではなかった。

なお、鯨肉食の文化は日本だけではなく、エスキモーやイヌイットなど北極地方の先住民族も鯨肉食を伝統文化としている。
このため、捕鯨モラトリアムにおいても「先住民生存捕鯨」として捕鯨が認められている。

いずれにしても日本と欧米の反捕鯨国との対立の根底には、クジラ利用の伝統の差があるのは確かなようだ。


ところで、江戸時代末、米国が鎖国する日本に黒船を派遣して開国を要求したことは、歴史の授業で学ぶところだ。

その開国要求は、単に産品の通商(貿易)のためだけではなく、捕鯨船のための補給基地確保の意味合いも大きかったのだ。
独立後間もない米国では、捕鯨は主要な産業ともなっていた。

日本に開国を迫った人物として知られるペリー提督は、琉球から浦賀へ入港する前に、小笠原諸島の父島に立ち寄って上陸している。

その小笠原諸島には、ペリー上陸以前から、欧米系の人々が住んでいた。
元々は火山活動によって生成した無人島だったが、捕鯨船の補給基地として人々が移住してきたのだ。

そのことを伝え聞いた江戸幕府は危機感を覚え、日本初の太平洋横断を成し遂げた咸臨丸で領土保全のための開拓調査隊を派遣した。

小笠原の父島には、この時に亡くなった乗組員の墓も残っている。

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そして、先住の欧米の人々に日本領土宣言をしたのは、通詞(通訳)として乗船していたジョン万次郎だった。

万次郎は、足摺岬にほど近い現在の高知県土佐清水市中ノ浜の貧しい漁師の家に生まれた。

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岬の先端には、ジョン万次郎の銅像が建っている。

万次郎が14歳の時に乗り込んだカツオ船が、遭難して黒潮に流され、無人島(現在の鳥島)に漂着した。

その万次郎らを救出したのは、太平洋上でマッコウクジラを追いかけていた米国捕鯨船ジョン・ハウランド号のホイットフィールド船長だった。
船長の故郷フェアヘーブン(マサチューセッツ州)で暮らすことになった万次郎は、航海術なども学び、英語も堪能になった。

幼少期に日本を離れた万次郎は、日本への望郷の念が消えることはなく、死罪も覚悟して鎖国政策の国禁を犯して帰国した。

しかし、既に欧米諸国による開国要求などにさらされていた江戸幕府にとっては、万次郎の海外情報と英語能力は、死罪とするにはもったいないものだった。

こうして、上記のとおり、万次郎が咸臨丸で小笠原にまでやって来ることになったのだ。


それにしても「捕鯨」が、江戸末期のペリー提督の開国要求や居酒屋チェーンの名前にまで採用されて有名になったジョン万次郎、そしてそれを結びつける小笠原諸島と繋がるとは、歴史も面白いものだ。

そして、領土問題で揺れる昨今の日本で、江戸幕府による小笠原諸島の領有宣言がなく、そこが米国領となっていたら・・・と思うと、江戸幕府の対応に感心するとともに、歴史も面白いなどと呑気なことは言っていられなくなる。

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捕鯨再開とIWC脱退 -捕鯨 文化と倫理のはざまで(1) [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

昨日は、土用の丑の日。
この日に鰻を食べる習慣も、鰻の高値が続き断念している人も多いようだ。

これは、養殖用の稚魚シラスウナギの激減が原因だ。
ニホンウナギは、国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅危惧種として2014年以来レッドリストに掲載されている。

絶滅のおそれがある種をわざわざ食べる必要があるのか。許されるのか。
これは、まさに食文化とも結びついた問題だ。

しかし、「土用の丑の日に鰻」というのは、かの有名な平賀源内が鰻屋に頼まれて考え出したキャッチコピーだという。

ということは、たかだか300年の「食文化」?

絶滅種と食文化との関係は、世界中でもいろいろと話題になっているが、日本でもウナギ(ニホンウナギ)のほかに、マグロ(クロマグロ)もレッドリストに掲載されている。



同様に、長年にわたり国際問題となっているのが鯨だ。

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小笠原にて

今年(2019年)7月1日から、日本では商業捕鯨が31年ぶりに再会された。
捕鯨再開から約1か月、皆さんは鯨肉を既に召し上がっただろうか。

団塊世代の私には、学校給食での片栗粉の半透明の白い衣に包まれた琥珀揚げ(竜田揚げ)やスライスされた白い脂身の縁がピンクに染色されたベーコンなどのクジラ献立の記憶が鮮明だ。

懐かしく、食べてみたいと思う半面、「生物多様性保全」を生業のひとつとしている身としては、別に食べなくともとも思う。

この「捕鯨」について考えてみたい。

捕鯨を管理する国際組織「国際捕鯨委員会(IWC)」が設立されたのは、第二次世界大戦後の1948年だ。
当初はクジラ資源の管理のための捕獲頭数制限などが目的だった。

その後、国際的に野生生物の保護がクローズアップされるようになると、ストックホルム(スウェーデン)で開催された「国連人間環境会議」(1972年)では、10年間の捕鯨禁止を求めた米国の提案が圧倒的多数で採択された。

欧米の反捕鯨国が主張するのは、クジラ個体数の減少による絶滅の危機だ。
さらに、高等な哺乳類であるクジラを殺戮することに対する倫理的な反対論も根強い。

こうして、ついに1982年のIWCでは、商業捕鯨のモラトリアム(一時停止)が決議された。

これにより、日本は南極海での商業捕鯨から撤退して、調査捕鯨を開始した(1987年)。

現在の日本市場に出回っている鯨肉には、この調査捕鯨で捕獲されたものも含まれているため、姿を変えた商業捕鯨との批判が付きまとっている。

長年にわたる商業捕鯨再開の提案が、昨年2018年9月のIWC総会で否決された日本は、今年2019年6月30日にIWCを脱退した。

IWC脱退により、南極海での調査捕鯨実施も不可能となるが、伝統ある捕鯨文化とクジラ産業を保護するためとして、前述のとおり7月1日から日本の排他的経済水域(EEZ)内での商業捕鯨を再開したのだ。

対象となるのは、日本が資源枯渇はしていないと主張するミンククジラ、イワシクジラ、ニタリクジラの三種だ。


ところで、最初に「国連人間環境会議」で捕鯨停止(モラトリアム)を提案した米国には、捕鯨の文化はないのだろうか。

次回記事では、ハーマン・メルヴィル『白鯨』(モビィ・ディック)やペリーの開国要求、さらには数奇な日本人の運命なども紹介しつつ、米国の捕鯨をみてみよう。


それにしても、自国の意見が認められないからといってIWC脱退を決定した日本政府の態度は、自国の利益にならないとして生物多様性条約を批准せず、また地球温暖化防止のための京都議定書やパリ協定から脱退(を表明)した米国と重なるところがある。

さらには、満州からの撤退勧告決定を不服として国際連盟から脱退(1933年)した戦前の日本政府の姿とも重なる、と思うのはちょっと思い過ぎだろうか。

思い過ぎであることを祈るが・・・


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東海の日光 静岡浅間神社 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

静岡県立美術館の「古代アンデス文明展」開会式に出かけた折、静岡市内の「浅間神社」に立ち寄った。

徳川家康が、幼少期の人質時代、そして晩年の大御所時代を過ごした「駿府城」。
その家康の遺言に従って埋葬された「久能山東照宮」。

そして、駿府城からほど近い賤機山(しずはたやま)の麓に鎮守するのが、駿河国総社「静岡浅間神社」だ。

この神社、正式には「神部神社(かんべじんじゃ)」、「浅間神社(あさまじんじゃ)」、「大歳御祖神社 (おおとしみおやじんじゃ)」の三社からなるという。

神部神社は、崇神天皇時代の鎮座というから、およそ2100年前ということになる。
浅間神社も約1100年前、大歳御祖神社も約1700年前の鎮座だ。

これらの社殿群は、江戸時代後期の漆塗極彩色で、境内の26棟が国の重要文化財に指定され、「東海の日光」とも称されている。

境内の重文指定建物の中から、いくつかをご紹介。

石鳥居の奥にあるのは、「総門」。
さらに先には「楼門」があるが、こちらは現在修理中でネットに囲まれていた。

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門をくぐると、「大拝殿」。
建物としては一棟だが、神部神社と浅間神社の二社の拝殿が左右に配置されている。

代表的な浅間造の二階屋の楼閣造りで、高さは25mもあり、出雲大社本殿(約24m)よりも高く、日本一という。

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拝殿奥には「本殿」があるが、残念ながら本殿には立ち入ることができないので、脇から一部を覗き見?
階段も2列あり、右が神部神社、左が浅間神社だ。

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境内の社殿が極彩色なのに比べて、質素な素木造りの「舞殿」。

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大歳御祖神社の拝殿は、第二次世界大戦で焼失したためコンクリートで再建。
重文は本殿だが、これも脇から覗き見。

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このほか、境内には数多くの境内社がある。

「八千戈神社(やちほこじんじゃ)」は、徳川家康の念持仏であった摩利支天像を安置するために造営されたといい、本社に次いで造営された入母屋造銅瓦葺、朱塗極彩色の壮麗なものだ。

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その脇の階段を上って山道をしばらく行くと、賤機山の山上に鎮座し、山宮ともいわれる「麓山神社(はやまじんじゃ)」がある。

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この社も壮麗な極彩色の漆塗りだ。

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「少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)」も、入母屋造銅瓦葺の極彩色の神社で神宮司薬師社と称し、医療・薬業の守護神として参拝者も多い。

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「神厩舎」も重文だ。
納められている神馬は、左甚五郎作と伝えられ、何でも願い事が叶うということから叶え馬として信仰を集めている。

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静岡浅間神社の境内でいただいた説明書によると、「見た目は7社、実は40社、56の神々」ということだ。

極彩色の漆塗り建物も見ごたえがあり、一つの境内で40もの社と56もの神々にお参りできるとは、実に効率的?と罰当たりなことを言ってはいけませんね。

神社背後の賤機山には古墳もあり、国指定史跡となっている。

この地は、二千年以上前からの信仰の場となっていたのだ。

これらを現代に伝えたのは、徳川さんの社殿再建などの力も大きい思う。

この日は、古代アンデス文明と浅間神社の社殿群、地球規模での古き文化様式を堪能することができた。

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祈る姿、食べるもの 庶民の生活などアラカルト ―ラオスの旅(5) [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

仏教国ラオスでは、王様だけではなく、庶民が寺院で祈る姿を多数目にする。
托鉢僧への寄進なども、その一つだ(「古都ルアンパバーン(その2)托鉢とマーケット ―ラオスの旅(2)」参照)。

ビエンチャンで庶民の信仰を集めている「ワット・シームアン」もそんな寺だ。
ビエンチャンでも最も美しい寺の一つとも言われる。

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門前には、参拝者が利用するトゥクトゥクや屋台が並んでいる。

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ワット・シームアンにはシーという女性にまつわる伝説があり、願をかけて熱心にお祈りする人にも女性が多い。女性は伝統的な横座り。

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僧侶から白い糸を手首に巻き付けてもらい祈願するバーシーの儀式も人気だ。

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町中の樹木の花も美しい。

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サクラのような花が咲いているのは、「ナンプ広場」。

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ラオス国営航空のシンボルマークも、国花チャンパー、日本ではプルメリアとして知られる甘い香りの美しい花だ。

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ラオスでは、昔ながらの染色糸を使用して肩掛けなどの手織りの布が作られている。

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庶民の台所は、何といっても市場だ。
露天も多いが、町中には大規模な市場もある。

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トロピカルフルーツから野菜、メコン川の淡水魚、香辛料だか薬草だか、なかには鳥やカエルまで。

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ラオスの食材での料理の一皿がこれ。
淡水魚にタケノコ、それとカイ・ペーンという川海苔、やや厚みのある海苔で、表面には白ゴマがまぶしてある。

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それと、食事に欠かせないのは、カオニャオというもち米(竹籠に入っている)とビア・ラーオ!?

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市場には、東南アジアでよく見かける金アクセサリー店も。
資産は金に代えて肌身離さず、つまり金本位制?という時代の名残か。

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サンダルなど履物の展示方法もずいぶん違う。
一足一足、マネキンの足首に履かせて展示しあるが、何と壮観、かつ不気味なこと!!

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最後に、日本とラオスの友好橋「パクセー橋」。

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南部の最大都市パクセーのメコン川にかかる1380メートルの橋で、日本の無償資金協力で建設され、通勤や物資輸送に重宝されている。

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橋の欄干(親柱)には、日本の協力を示す説明板が取り付けられ、紙幣の絵柄にもなっている。

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古都ルアンパバーン(その1)王宮と寺院 ―ラオスの旅(1)

古都ルアンパバーン(その2)托鉢とマーケット ―ラオスの旅(2)

世界遺産ワット・プー ―ラオスの旅(3)

ビエンチャン 黄金の仏塔と凱旋門 ―ラオスの旅(4)

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ビエンチャン 黄金の仏塔と凱旋門 ―ラオスの旅(4) [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

ラオスの首都ビエンチャンは、大河メコン川でタイと国境を隔てた人口80万人ほどの小さな町だ。

ラーンサーン王国の都が1560年にセーターティラート王によって、前回ブログで紹介したルアンパバーン(古都ルアンパバーン(その1)王宮と寺院 ―ラオスの旅(1))からこのビエンチャンに遷都され、それ以降代々の王国の首都となり現在に至っている。

その町で目を引くのは、何といっても黄金の仏塔「タート・ルアン」だ。

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紙幣の図柄にもなっているラオスの代表的仏塔で、建立は紀元前3世紀にまで遡るとも伝えれるが、真相ははっきりしない。

その後、セーターティラート王による遷都の際に、廃墟となっていたものを修復して1566年に再建されたと伝えられる。
しかし、現在のものは、19世紀のシャム王国(タイ)の侵略によって破壊され、20世紀に再建改築された姿だそうだ。

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仏教寺院と言えば、1818年に建立されたビエンチャン最古のものが「ワット・シーサケット」だ。
もともとのものは、セーターティラート王による1551年の建立と伝えられる。

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本堂内(撮影禁止)には二千体以上の仏像が並ぶが、回廊にも壁の穴内の小さな仏像と手前の大きな仏像など、無数の仏像が安置されている。

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ワット・シーサケットに近く、道路を挟んだ向かい側といった位置に「ホー・パケオ」がある。

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これも、ランサーン王国の首都をルアンパバーンからビエンチャンに遷都した際、エメラルドの仏像を旧王都から移して安置するために、セーターテイラート王によって1565年に建立された。

王専用の祈りの場であったため、屋根の妻の部分には王家の象徴の3頭のゾウの文様が付されている。
ルアンパバーンの旧王宮(現在の「国立博物館」)と同様だ。

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しかし、1779年シャム王国(タイ)との戦争により建物は焼失し、エメラルド仏は持ち去られてしまったという。
現在の建物は、1936年に植民地宗主国フランスによって再建され、博物館として使用されている。

フランスの植民地といえば、ビエンチャンのシンボルにもなっている「パトゥーサイ」がある。

パリ凱旋門を模して作られたもので、戦没者慰霊碑として1960年代に建造された。

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建物上からは、ビエンチャンの町を見下ろすことができる。

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パトゥーサイの脇には、「首相官邸」の大きな建物がある。

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ところで、黄金仏塔タート・ルアンが紙幣のデザインにもなっていることは上記の通り。

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しかし、ラオスでは米ドルやタイのバーツも流通しているので、外国人観光客は地元紙幣(単位キープ Kip)を見かけることもほとんどないかもしれない。

外国通貨が通用するとは、まだまだ植民地?

と書いていたら、つい最近読んだばかりの第160回直木賞受賞作、真藤順丈『宝島』を思い出した。

物語の舞台は、第二次大戦後1972年5月15日の返還まで、日本円は使用できず、B円といわれる米軍の軍票が流通していた頃の沖縄だ。
まさに植民地状態といえよう。

その後、米ドル、さらに復帰後の日本円と、通貨の変化だけををみても、沖縄の置かれてきた状況が推し測られる。


新紙幣発行のニュースが流れたばかりだが、二千円札はデザイン変更がないという。

二千円札は、沖縄サミット開催(2000年)もあり、沖縄重視の姿勢を表すものとして表面には守礼門が描かれている。
しかし、現在の流通は、ほぼ9割が沖縄県でのみだという。

まもなく沖縄返還(本土復帰)の5月15日を迎えるが、紙幣への関心も高い今日、あらためて沖縄の置かれてきた状況を考える機会としたいものだ。

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古都ルアンパバーン(その1)王宮と寺院 ―ラオスの旅(1)

古都ルアンパバーン(その2)托鉢とマーケット ―ラオスの旅(2)

世界遺産ワット・プー ―ラオスの旅(3)

大石灰岩地帯をゆく!





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世界遺産ワット・プー ―ラオスの旅(3) [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

ラオス南部の町パクセーから車で1時間ほどの丘に点在する遺跡。
世界遺産「ワット・プー」だ。

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ここは、世界遺産アンコールワット(カンボジア)の創建で知られるクメール人によって建てられたヒンズー教寺院だ。
もともとは、宮殿あるいは城塞だったともいう。

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その後、ラーオ族のラーンサーン王国時代には仏教寺院となった。

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本堂といわれる天井も抜けた石造りの建物には、黄金の大仏像が安置され、信者による供え物が並べられている。

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しかし、建物の外壁リリーフはヒンズー教時代の女神像のままだ。
ヒンズー教と仏教が混在というか、融合している。

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古代インドの神話の神々は、ヒンズー教の神となり、仏教にも取り入れられたものも多い。

帝釈天、毘沙門天、弁財天など日本の寺院で彫刻などになっている仏様も、もともとはヒンズー教の神々だった。

ここワット・プーでも、入口には蛇神ナーガが待ち構えている。
仏教では、八大竜王などとして知られている。

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ほかにも、様々な石像やレリーフがある。

なかでも、巨石に刻まれたゾウのレリーフは有名だ。

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また、日本の明日香村にある「酒船石」を彷彿とさせる謎の加工石もある。

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寺院背後の断崖の下では、聖なる湧水が竜の樋を伝って湧き出ている。

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古代インドから伝わったヒンズー教や仏教。
日本にはヒンズー教は直接伝わらなかったが、仏教を通じてここラオスの地とも繋がりがあると思うと、何やらロマンを感じる。

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古都ルアンパバーン(その2)托鉢とマーケット ―ラオスの旅(2)

古都ルアンパバーン(その1)王宮と寺院 ―ラオスの旅(1)

大石灰岩地帯をゆく!





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古都ルアンパバーン(その2)托鉢とマーケット ―ラオスの旅(2) [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

ルアンパバーンは、長い歴史を有する古都だ。
フランス植民地時代の面影も残る落ち着いた町街並みは、1995年に世界遺産に登録されている。

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早朝まだ暗いうち、ルアンパバーンの露路に人々が集まり、沿道に並んで腰かけている。
敬虔な仏教国のラオスでは、托鉢で一日が始まる。

観光客も参加できるように、托鉢用のご飯やお菓子が売られている。

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オレンジ色の袈裟をまとった托鉢僧の一団が列をなしてやって来ると、人々はご飯などを僧に喜捨する。

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次々とやって来る僧侶に、手元のカゴからご飯を少しずつ手で千切って渡すのだが、うるち米なのでべとつかない。


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観光のイベントともなった托鉢に違和感を持つ人もいるようだ。

明るくなると、露地では路上の朝市も開かれる。

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野菜や魚などの食材、さらにはスカーフなど装飾品(土産品?)もある。

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最近では外国人観光客も多く、サッカリン通りなどには洒落たカフェなども多い。


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メコン川は、タイやミャンマーとの国境にもなっているが、ルアンパバーンのあたりでは、対岸もラオスだ。

対岸の村とルアンパバーンの町の間の渡し舟は、人間のほか、自転車やバイク、さらに車まで運ぶ。

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メコン川を2時間ほど遡るとタムティン洞窟(前々回記事「大石灰岩地帯をゆく!」)に到着するが、途中では中国の援助による橋が建設されていた。

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また、途中のサンハイ村は、特産の焼酎ラオ・ラーオの産地として有名だ。

米で作る蒸留酒で、40度以上の強さがあり、泡盛や白酒(パイチュウ)、あるいはウォッカを彷彿とさせる。

赤米が原料の赤ワインのようなもの、中には、サソリ酒まである。


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ルアンパバーンの町の夕方は、プーシーの丘でメコン川に沈む夕日見物。
多くの人々が日没を待つ。

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残念ながら、この日はきれいな日没を見ることができなかったが。

夜になるとナイトマーケットが開かれて、ここでも多くの観光客が土産物を探す姿が見られる。

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外国人観光客が集まるレストランやカフェは、夜遅くまで賑わう。

こうして、早朝の托鉢に始まるルアンパバーンの町の一日は終わる。


世界遺産の落ち着いた町が、観光客の騒がしい町とならないように祈りたい。



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大石灰岩地帯をゆく!

古都ルアンパバーン(その1)王宮と寺院 ―ラオスの旅(1)




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古都ルアンパバーン(その1)王宮と寺院 ―ラオスの旅(1) [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

ちょうど1年前ほど前に訪れたラオス。
まずは、前回記事「大石灰岩地帯をゆく!」の洞窟探訪の出発点、「ルアンパバーン」から。

ルアンパバーンは、ラオス北部、メコン川沿いの古都で、14世紀半ばに誕生したラーンサーン王国の都。1975年のパテト・ラオ共産革命までは王宮が置かれた首都だった。

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中心部に位置するフランス植民地時代に建てられた旧王宮は、現在は「国立博物館」になっている。
入口部の3頭のゾウの文様は、王家の象徴だ。

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王様の葬儀に使用された霊柩車は黄金の龍。(内部は撮影禁止だが、これは外部展示)

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王宮博物館と同じ敷地には、70年もの歳月をかけて完成した寺院「ワット・マイ」もある。
5層の屋根と、本堂扉の釈迦逸話などを題材にした黄金のレリーフは見事だ。

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敷地入口部にも黄金の建物。これは、パバーン像安置祠だ。

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ルアンパバーンを代表する寺院といえば、何といっても「ワット・シェントーン」だ。
町の中心部から1キロほど北のメコン川沿いに、1560年にセーターテイラート王によって建立された。

3層屋根のルアンパバーン様式の本堂は、ラオスで最も美しい寺院といわれている。

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本堂背面の壁には、かつてこの地に聳えていた大木をモチーフにした仏教説話のモザイク画「マイ・トーン(黄金の木)」が描かれている。

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シーサワンウォン王の葬儀(1960年)で使用された霊柩車が納められている霊柩車庫も。
国立博物館の霊柩車と同じく黄金の龍を型取っている。

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他の建物では、修行中の小僧さんたちが、外壁の掃除をしていた。
どこでも新人は大変だ。

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次回は、世界遺産ルアンパバーンの町並みや托鉢など。

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大石灰岩地帯をゆく!



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大石灰岩地帯をゆく! [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

またまたNHK番組ネタで失礼。ブログ記事の題名も、ほぼパクリ?

先日のBSプレミアム「体感!グレートネイチャー」で、中国南部の大カルスト地帯が放映されていた(番組名「中国南方・大カルスト地帯をゆく!」)。

雲南省、広西チワン族自治区、四川省などにかけては、太古の海底で堆積したサンゴなどの石灰質の分厚い層がマントルの動き(造山活動)で隆起した大石灰岩地帯が広がる。

そこには、石灰岩が雨水による浸食などで作られたカルスト地形が形成されている。
これらのカルスト地形は、桂林、石林、黄龍、九寨溝などの世界遺産にも登録されている。

そのひとつ、四川省の世界遺産・九寨溝。(NHKテレビ番組では、登場しなかったけれど)

青色や緑色など様々な色合いの水で彩られた湖沼風景。
これも、カルスト地形のひとつ。

しかし、2017年8月の地震で地形もだいぶ変わってしまったらしい。

20年前(1999年)のUNESCO会議の時の訪問では、今のように飛行場もなく、断崖絶壁のガタガタ道をガソリンではなく冷却水を補充しながら、成都からバスで丸一日がかり。

急峻な山間の奥に、白い肌を見せる石灰岩の山が現れる。

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湖沼地帯では、実に美しい風景が展開する。

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大石灰岩地帯は、中国南部だけではなく、ベトナム、ラオスなど広大な面積で分布している。


そのラオスのメコン川沿いの石灰岩地帯も、グレートネイチャーで放映されていた(番組名「発見!生命を育む岩と水の楽園~ラオス メコン川~」)。

昨年(2018年)3月に訪問したのは、番組でも紹介された「クアンシーの滝」。
ラオス北部のメコン川沿いの町ルアンパバーン近くの落差約50m滝だ。

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幾筋もの流れの滝そのものもさることながら、滝つぼから流れ出た先に形成された石灰華で階段というよりも棚田のようになっている絶景。
写真でみた中国の世界遺産・黄龍のミニ版のようだ。

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さらに船でメコン川を2時間ほど遡ると、鍾乳洞の「パークウー洞窟」がある。

周囲は石灰岩の山。

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船着場のすぐ上にあるタムティン洞窟には、4000体ともいわれる仏像が立ち並んでいる。

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そこから、急な階段道をしばらく登るとタムブン洞窟。

こちらは懐中電灯がないと真っ暗で見えない。

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観光用に入れるのはほんのわずかだが、そこにも何体もの仏像が安置されている。

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観光用のカルスト地形、鍾乳洞とグレートネイチャーの大洞窟や地底湖、地下河川の探検とは、だいぶ趣も違うが、どちらもカルスト地形であることには変わりない。


太古の海の底が隆起した広大な石灰岩地帯には、いまでこそ“国境”が引かれている。

しかし、その地下には国境を超えて、雨水の作用による洞窟、地下河川などが張り巡らされているかもしれない、と考えると自然のスケールの大きさとロマンを感ぜずにはいられない。


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一乗谷朝倉氏遺跡 ブラタモリも訪問




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一乗谷朝倉氏遺跡 ブラタモリも訪問 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

昨晩(2019年1月26日)の大坂なおみ、テニス全豪オープン優勝は、久しぶりの明るい話題だ。
最大の祝福をしたいと思う。
普段はスポーツ中継はあまり見ないが、今回の決勝試合はNHK総合テレビで最後まで見てしまった。

その試合中継のために、NHK人気番組のひとつ「ブラタモリ」が放送延期となった。(2月2日(土)に放映予定)

放映予定だったテーマは、福井市という。
番組宣伝によると、戦国大名朝倉氏の城下町だった一乗谷にも訪問するようだ。

それにしても、最近のNHKは番宣が多過ぎ、特に“大河ドラマ”(昨年の「西郷どん」、今年の「いだてん」)の過剰宣伝(関連番組も含めて)には食傷気味だが・・・


というわけで、ブラタモリではどのような紹介がなされるかわからないが、一足先に昨年の秋に福井を訪問した際の写真で、一乗谷朝倉氏遺跡をご紹介。

「一乗谷朝倉氏遺跡」は、福井市の南東約10kmにある遺跡で、城跡だけではなく、武家屋敷や町屋などの町並みがほぼ完全な姿で発掘され、日本のポンペイとも呼ばれているとか。

朝倉氏は、初代の朝倉孝景以来、戦国時代に5代103年にわたって越前国を支配したが、信長によって滅ぼされ、その後、城下町は放棄されて田畑に埋もれていったという。

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初代 朝倉孝景墓所

1967(昭和42)年から進められた発掘によって、計画的に整備された道路とその両側の町屋などが次々と明らかになった。
現在も発掘は続いていて、発掘現場を見ることもできる。

1971(昭和46)年には、一乗谷城を含む地域一帯が国の「特別史跡」に指定され、さらに1991(平成3)年には庭園跡などが「特別名勝」に指定、2007(平成19)年には出土品が「重要文化財」に指定された。

このような文化財保護法による国の三重指定を受けたものは、金閣寺や厳島神社、平城宮など一乗谷朝倉氏遺跡を含め全国に6件しかない貴重なものだ。

遺跡は、大きく山城・館エリア(無料)と城下町エリア(有料)とに分かれている。

城下町エリアには、町並みなどが復元されている。

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復元された町並みは土塀の両側に町屋、武家屋敷などが続き、部屋や台所、店舗などの暮らしの様子をうかがうことができる。


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さらに、当時の衣装を身に着けた人々がまるで劇のように、当時の生活の一端を再現してくれる。


町中では、当時の衣装をまとった売り子や町人が歩き回っている。戦国時代にタイムスリップしたようだ。

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武家屋敷には甲冑も展示されている。
部屋で説明しているのは、人形ではなく、リアル人だ

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道路(川)を隔てた丘陵の先には山城跡があるというが、時間がなくて山頂部の本丸(千畳敷)などまでは行かなかった。

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山城に続く道


山城の麓には、朝倉館跡が点在し、庭園跡も見ることができる。

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4つの庭園は、前述のとおり国の特別名勝に指定されている。

義景館跡庭園は、館に接し、山から水を引き入れて滝まで設えている。

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湯殿跡庭園は、一乗谷で最も古い回遊式林泉庭園だ。

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テレビ番組などで紹介された情報を基に、観光地訪問や名物探しをすることもあるが、それほどの事前情報もなく自分が行った所が、後からテレビなどで紹介されて話題になると、なんとなく得した気分で嬉しくなる。

有名、メジャーになる前に出かけると、自分で発掘した気分にもなる。
たまたま自分が知らなかっただけで、世の中(少なくともその筋)では結構知られていたりもするのだが。

美術展なども同じだが、マスコミなどで紹介される前に行った方が、静寂と“優越感”を味わうことができる?

中には、ハロウィーンや大晦日に渋谷まで出かける人々のように、有名になって混んでいる方が気分が出るという人もいるかもしれないけどね・・・

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青い海と長い橋 宮古島 その3 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

宮古島最終回です。

前回の「下地島」の名所「通り池」は、海岸部にある大小二つの円形の池だ。

南側の海に近い池は直径75m、水深45m、北の陸側の池は直径55m、水深25mで、この二つの池は地下が繋がっているらしい。
名前の由来もここからきているという。

繋がっているとはいえ、水深の違いもあり、水色は微妙に異なる。
水深の深い南側の方が美しい。

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南西諸島には、サンゴ地形で隆起石灰岩のカルスト地形が多い。
通り池の二つの池は、鍾乳洞が波で浸食されて天井が崩落した陥没ドリーネにより形成された。
通り池は、国の名勝・天然記念物に指定されている。

NHKなどの自然ものドキュメンタリーを見ていると、世界各地で鍾乳洞にポッカリ穴が開た陥没ドリーネからロープで下降して洞窟探検を始めるケイビング映像がよく出てくる。

メキシコのユカタン半島に点在するセノーテが有名だ。

タイの遭難事故もあり、私はケイビングはそれほどやってみたいとは思わないけど。


伊良部大橋のさらに南の長い橋は、「来間大橋」。
宮古島と来間島を結ぶ全長1690mの橋で、1995年3月開通。

渡り切った来間島には、その名も「竜宮城展望台」という展望スポットがあり、青い海に架かる橋の全景を眺めることができる。

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宮古島南東端にあるのは「東平安名崎」(ひがしへんなざき)。

先端までの約2㎞の歩道の両側は、太平洋と東シナ海。
切り立った断崖は、以前行ったアイルランドの「モハーの断崖」を彷彿とさせる。

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崖上から波間を覗き込むと、何やらブルーの魚が。
そう!夕食に刺身で食べたイラブチャーだ。
崖の上からでも大きく見えるのだから、実際の魚はさぞかし大きいことだろう。

先端までの歩道途中には、絶世の美女「マムヤの墓」といわれる巨岩の洞窟もある。

先端には高さ約24mの「東平安名崎灯台」があり、灯台上からの眺めもすばらしい(入場有料)。

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南部には、「うえのドイツ文化村」というテーマパークがある。
ライン川沿いの古城マルクスブルク城を模した博愛記念館などが建設されている。

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宮古島にどうしてドイツのテーマパークがあるのだろう。
1873(明治6)年に、ドイツ船が台風で座礁したのを旧上野村の住民が救助し、帰国にまで助力したという。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世がこの話に感銘を受け、宮古島とドイツは友好を結び、戦前の修身の教科書でも取り上げられたという。


日本も前述のタイのサッカー少年洞窟遭難をはじめ、世界各地の災害地への救助・援助隊派遣やボランティアの皆さんの協力が続いている。

東日本大震災の時には、そのお礼も兼ねて、世界各国からの援助があった。

世界各国はこうして協力をして、まさに共生しなければならないのに、現実は自国利益優先主義などで対立している。

宮古島のドイツ友好の話も、国の施策ではなく地元の人々の善意からだ。
日中、日韓を含め、政府に任せるのではなく、草の根レベル、民間交流を進めるしかないのだろうか。

いや、各国の為政者にもっと頑張ってもらいたい!!

宮古島の交差点には、優しく見守る「宮古島まもる君」がいる。

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世界の見守りまでお願いしたら、過重負担になってしまいますよね~。


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青い海と長い橋 宮古島 その2 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

宮古島の続きです。
北端から南下中(実際の訪問ルートとは異なります)。

先島諸島地域(今回の宮古諸島と石垣島、西表島などの八重山諸島)ではどこに行っても、それはそれは美しい海の景色を見ることができる。

海の景色といっても、海岸の風景と海中の景観とがあるが、今回は残念ながら海中景観の堪能は天候の関係もありできなかった。

宮古島での美しい海岸風景の一つが、「砂山ビーチ」だ。
その名のとおり砂山から少し急な道を下ると、全面に青い海が飛び込んでくる。

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何度も言うようだが、天気が良ければ海面はもっと美しいコバルトブルーに染まっていただろうに。

そして、この浜の名物は左手に現れるアーチ状の岩山。
誰でも思わず写真シャッターを押したくなる場所だ。

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宮古島は海ばかりではない。
サンゴ礁が隆起した平坦な地形で、50%以上が耕作地となっているが、島の中央部東側には約119haの原生林が広がる。

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その一角には、「宮古市熱帯植物園」があり約1600種の植物が生育している。
近く(と言っても、歩くのはちょっと・・・)には、「宮古島市総合博物館」もあって、歴史や暮らし、自然などが展示されているので、併せて立ち寄るとよいだろう。

宮古島と橋でつながる島の中で最大の島が「伊良部島」だ。

その島を結ぶのが「伊良部大橋」。
2015年1月に開通した3540mの橋で、無料で通行できる橋としては日本で最長だという。

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伊良部島でも美しい海岸風景は多い。
そのひとつ、「佐和田の浜」は大岩が転がっていて、まるでマリンブルーの石庭のようだ。

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この大岩は、1771年の明和の大津波によってもたらされたものだという。
現在ののどかな風景からは想像もできないが、自然の猛威を忘れないようにしたいものだ。

もうひとつの「渡口の浜」は、単なる白いビーチではなく、“パウダーサンド”とも称されるきめの細かなサンゴ砂のビーチとして有名だ。
さっそく裸足になって、砂の感触を確かめてみた。

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伊良部島に接して「下地島」がある。
伊良部島と下地島との間は狭い海峡なので、普通の川にかかった橋を渡る感覚で、気が付かないうちに渡ってしまう。

下地島の海岸も美しい。
晴れ間も出てきて、青い海面と環礁に砕ける白い波のコントラストをやっと堪能することができた。写真ではいまいちだけれどもね。

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ところで、下地島は、「パイロット訓練飛行場」があることで、その道のマニアには有名らしい。
タッチアンドゴー訓練を見るために、わざわざ訪れる人もいるほどだ。

しかし今や、パイロット不足(志望者減)とバーチャル・リアリティ(VR)(仮想現実)による操縦訓練の進歩によって、下地島での訓練飛行はめったに見ることができないらしい。

一方で、日本本土のみならず、台湾や東南アジア方面からの観光客も増加しているため、訓練飛行場を廃止して、LCC(格安航空)の飛行場に再整備する計画があるそうだ。

海外からの観光客は空路だけではない。
世界から宮古島(平良港)への豪華ルーズ船の入港が急増して、年150回以上が予定されているという。

そういえば、昨晩(2018/8/4土曜)のTBSテレビ「世界ふしぎ発見」では、ボーダー(国境)観光なるものを取り上げていた。
国境線を超えて往来する観光だそうだ。


その費用、東京から台湾までLCCで片道7000円、台湾から石垣島までの2泊3日豪華ルーズは食事も含めて5万円。

東京から石垣島まで飛行機で往復するよりも安い! ということらしい。
とは言っても、飛行機だって先行割引やLCCを利用すれば、安くなるけどね。

いずれにしても、こうした観光リゾートブームに沸く宮古島は、島外者(中国など海外も多いという)により土地が買い占められているそうだ。

特に伊良部島の海岸部はリゾートホテル(ペンション)の建設ラッシュだった。
島の周回道路からは、建物に遮られて海を望むこともできない。

土地だけではなく、景観も買い占められているかのようだ。
さらに伝統のある文化までもが買い占められないように願うばかりだ。


次回は、宮古島の最終回、南部地域です。



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青い海と長い橋 宮古島 その1 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

西日本豪雨災害で亡くなった方々にはお悔やみ申し上げるとともに、被災者の皆様には一日でも早い復興をお祈り申し上げます。

今また、沖縄地方には台風10号。
6月に宮古島に行ったときにも、梅雨前線の停滞と台風の影響で、曇り空だった。
それでも、時折覗く太陽のもと、宮古ブルーの海を見ることもできた。

東京(羽田)から直行便。
南太平洋よりも手軽に、南太平洋よりも美しい海を堪能できるので、人気が高まっている。

実際のルートとは異なるが、宮古島の北部から順に、主な場所をアップ。
北部周遊の際には、残念ながらあまり天気は良くないので悪しからず。

まずは宮古島北部の池間島。
全長1425mの「池間大橋」(1992年開通)で宮古島と繋がっている。

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宮古島には、ほかにも来間島と結ぶ来間大橋(1995年開通、全長1690m)、伊良部島・下地島と結ぶ伊良部大橋(2015年開通、3540m)があり、どれもコマーシャルなどに登場するほど、日本の風景とは思えないほど美しい。

北端に近いところに、「池間島灯台」がある。
宮古島や石垣島、西表島などの先島諸島地方では最初の灯台という。
1940(昭和15)年に完成、地上高は23mだ。

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最北端に近いフナクスビーチ(池間ブロック)。
天気がよければ、さぞかし美しい宮古ブルーが望めただろうに。

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池間島は、島全体が国指定鳥獣保護区に指定されている(池間鳥獣保護区、2011年11月1日指定20年間)。

その中心となるのが、島内中央に位置する「池間湿原」だ。
池間湿原は面積38haの沖縄県内最大の淡水湿原で、ヒメガマ、チガヤなどの湿原植生に多くの鳥類が飛来する。

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白いのはサギ(?)の群れ


湿原際には展望台も設置されている。

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池間島から池間大橋を再び渡って、宮古島に戻った。
島の北西端には「西平安名崎」があり、展望台がある。

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風が強いらしく、風力発電も行われている。

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宮古在来のミヤコウマにも会えた。


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少し戻って立ち寄ったのが、宮古島の雪塩として有名な「雪塩製塩所」。
工場と売店などがあり、雪塩ソフトクリームを賞味。

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さらに南下して、「島尻マングローブ群」。
広大なマングローブ林の周囲は、駐車場や遊歩道が整備されて公園となっている。

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マングローブは、海水と淡水が混じる汽水域に生育する植物の総称で、ここ島尻ではオヒルギとメヒルギが主体だ。

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オヒルギの花

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メヒルギの花

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ほかにも、トベラやハマボウなど海岸植物がたくさん。

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干潟には無数の赤いものが。初めは何かの花弁が散った後かと思ったが、よく見るとカニ。
どうやらベニシオマネキらしい。

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近くには、「四島の主の墓」がある。
なんでも、この地域の集落の支配者の墓だそうだ。

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「海中公園」の海中観察施設は、残念ながら海底の砂が波で巻き上げられていて視界不良のため営業休止(正確には、営業はしていて料金も安くなっていたが、何も見えないのではねェ~)。

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この続きは、また後日。
次には、日差しの合間の宮古ブルーも。

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嵐のあとで

自然と文化が織りなす世界自然遺産候補 -国立公園 人と自然(22)奄美群島国立公園

多様な生態系のエコツアー:マングローブ林と観光の可能性 -スマトラ島のマングローブ林から(4)






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アラビア王国展とコーヒー [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

またまた1か月以上も前のことについてのブログです。ご容赦を!!

東京国立博物館(上野)の表慶館で開催されていた(会期延長で本日5/13まで開催!)「アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝」展に4月初めに出かけた。

アラビアンナイトの昔話やラクダで、幼いころからなんとなく憧れもあったアラビアだが、昨今はオイルマネーやテロ内戦と、私にはあまり良いイメージではなくなってきた。

アラビア王国展では、古代からの交易路として栄えたアラビア半島の様々な文物をサウジアラビア王国の至宝の中から展示している。日本で初めての公開という。

先史時代の石器や礫器に始まり、メソポタミア文明などの影響を物語る石像なども展示されていた。

「祈る男」と題された石像は、紀元前2900~2600年頃の作品で、タールート島の出土という。

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青銅製の「男性頭部」は、紀元前1世紀~紀元後2世紀の作で、もとは等身大のものだったという。

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ヘレニズム・ローマ時代(紀元前3世紀~紀元後3世紀頃)には、香料交易でアラビア半島は栄えた。

アラビア半島南西部(現在のイエメンやオマーンの一部)、東アフリカの一部で産出した乳香や没薬などの香料(樹脂香料)は、宗教行事などにも使用されて中近東や地中海地方で珍重され、古代エジプトのファラオやアレクサンドロス大王、ローマ皇帝も香料産地を支配しようとしたが果たせなかったという。

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展示品は、手前が香料(左が乳香、右が没薬)。
奥は香炉(左)と奉献代(右)、ともに石灰岩製で紀元前3~4世紀頃。

ほかにも、様々な美しい器も展示されていた(下写真はそのごく一部)。

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アラビアといえば、私としてはコーヒーが連想される。

野生のコーヒーは、エチオピア高原あたりが原産地と言われているが、15世紀後半頃には、イエメンのスーフィー教派のイスラム教徒が祈祷の最中に眠気覚ましで飲用していたともいわれる。

その後、イエメンの港町モカから世界にコーヒーが輸出されるようになり、モカコーヒーとして有名になった。

アラビア王国展には、コーヒー焙煎用のへら(銅製、19世紀)やコーヒー豆冷まし(木と金属製、19世紀)も展示されていた。

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さらに、コーヒーポット(銅製、19世紀)も。
ポット内に砕いたコーヒー豆をいれて煮出した後、カルダモンなどで香り付けしたという。

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そういえば、私たちが飲むモカ、キリマンジャロ、ブルーマウンテンなどのコーヒー品種は、「アラビカ種」だ。

やはりアラビアの影が濃い?

インドネシアで飲むコーヒー豆粉が沈殿したコーヒーも、やはりアラビアからの伝播だろうか。

*アラビカ種のほか、インドネシアやベトナムで量産されている「カネフォーラ種(ロブスタ種)」については、下の記事「コーヒーあれこれ」「そのおいしいコーヒーはどこから?」などを参照ください。

また拙著『生物多様性と保護地域の国際関係 -対立から共生へ』(明石書店)もどうぞ。
ブログ記事「インドネシアの生物多様性と開発援助 -『生物多様性と保護地域の国際関係 対立から共生へ』出版3」ほか。


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古代アンデス文明

コーヒーあれこれ

続 コーヒーあれこれ

そのおいしいコーヒーはどこから? -スマトラ島の国立公園調査

コーヒーを飲みながら 熱帯林とコーヒーを考える

最高の人生の楽しみ? ルワック・コーヒー

のんびりベトナムコーヒーとオートバイ

アルバニアのんびりカフェ






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古代アンデス文明 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

先月(2018年2月)、東京上野の国立科学博物館で開催されていた「古代アンデス文明展」に行ってきた。

南米の文明というと「インカ文明」が有名だが、展覧会はインカを最終にそれ以前のシカン、モチェ、ナスカなどの文明のそれぞれの土器をはじめ、ミイラも含めた幅広い展示物が集められている。

これらの発掘などには、長年にわたる日本人学者などの貢献が大きいという。

下の写真は、展示品のごくごく一部

モチェ文化の鐙型注口土器
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ティワナク文化のネコ科動物などをかたどった土製香炉
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シカン文化の壺など
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黄金の装飾品などが少ないのは、スペインの征服者(コンキスタドール)に奪われて、溶かされてヨーロッパに持ち去られたためという。


モチェ文化の儀式用ケープ
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シカン文化の金の胸飾り
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インカ帝国の皇帝アタワルパはフランシスコ・ピサロに捕らえられたが、その釈放条件として部屋を満たす黄金を要求された。
その黄金を帝国中から集めたものの、約束は反故にされて殺されてしまい、インカ帝国は滅びた。

ラテンアメリカからヨーロッパに持ち込まれたものは、黄金だけではない。

このブログでたびたび記事にしているとおり、トマト、ジャガイモ、ピーマン、インゲンマメ、落花生、アボガド・・・数え上げたらきりのない農産物やタバコなどの嗜好品が、コロンブスとその後の大航海時代以降に原産地のラテンアメリカからヨーロッパに渡り、今や私たちも日常的に接しているものとなっている。

関心のある方は、下記の本ブログ記事もご笑覧ください。

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そのチョコレートはどこから?

生物資源をめぐる国際攻防 -コロンブスからバイテクまで

一番人気の世界遺産 空中都市 マチュピチュ

生物資源と植民地 -COP10の背景と課題(1)

テーブルマウンテンが林立する「失われた世界」 -国立公園 人と自然(番外編2) カナイマ国立公園(ベネズエラ)




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クリスマスの誕生とトナカイの絶滅 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

明日はクリスマス。
キリストの誕生日としてキリスト教の祝祭日だ。

しかし実は、キリスト教布教に際して、古代ローマやケルト民族の祭りをキリスト教に取り入れたことは、結構広く知られている。

12月末のこの時期、ヨーロッパ、特に北欧では、これから数か月間は太陽を拝むこともできない日々が続く。

このため、冬至祭のような祭事が各地で行われていたようだ。

日本でも、伊勢神宮や東京・早稲田の穴八幡宮などでは冬至祭が催される。

日照に恵まれている日本では、冬至といっても柚子湯に入るなどの季節の行事くらいで、それほど盛大な祭とはなっていないのではないかな?
個人的感想だけれども・・・

逆に、春先になって太陽が顔を出すと、喜びに満ち溢れた祭が行われた。
これがキリスト教では復活祭、イースターとなったといわれる。

これらは世界各地にある太陽信仰の一つで、日本神話にも天照大神の天岩戸隠れの話がある。

キリスト教に取り入れられたクリスマスに飾るクリスマスツリー。

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上↑の写真は、シドニー近郊のパラマッタ市のクリスマスツリー。
南半球のオーストラリアでは、クリスマスは真夏の行事。半そで姿の人々に、なんとなく違和感?

クリスマスツリーも、もともとは冬でも緑の葉をつけるオーク(カシ)の巨樹を生命の象徴として崇拝していた古代ゲルマン民族などの巨樹信仰が由来とされている。

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いかにも森の聖のようなオーク(ヴィルム島(ドイツ)にて)


また、常緑で成長も早い針葉樹のモミやトウヒも、古くから広く巨樹信仰の対象ともなっていたようだ。

日本でも、高山や北海道などの亜寒帯植生として、モミやトウヒ、シラビソなどの針葉樹が出現する。

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アオモリトドマツ(オオシラビソ)(八甲田山睡蓮沼にて)


日本の門松や御柱祭、御神木などの巨樹信仰にも通じるところがある。

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御神木(秩父神社にて)


日本やヨーロッパだけではなく、世界中に巨樹信仰はある。

一族の出自を巨木に示しているというネイティブアメリカンのトーテムポールも、巨樹信仰の一つと言える。(バンクーバー(カナダ)にて)

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こうした巨樹信仰など古代からのアニミズムを信奉する人々は、その後、一神教のキリスト教徒から異端者として迫害を受け、オークの森に逃れて隠れ住んだ。

それからというもの森は、キリスト教徒にとって悪魔や魔女の住処として征服、つまり自然破壊の対象となったという考えもある。

征服者の領主に抵抗するロビン・フッド、すなわち異端者が隠れ住んだのもシャーウッドの森だった。

ところで、クリスマスのサンタクロースの乗り物ソリを曳くトナカイに絶滅の怖れがあるという。

地球温暖化による気温の上昇で、トナカイの生息地の北極圏では雪が降らずに雨が降ることが多くなってきた。
その降った雨が凍って、草地が氷で覆われて餌をとることができなくなるという。

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北極圏の植生(ノルウェー・トロムソにて)


各地で餓死したり、体重が減ったりしているのが研究者によって確認されている。
個体数も、およそ20年間で40%も減少していると推定され、国際自然保護連合(IUCN)はトナカイを絶滅危惧種としたレッドリストを発表した。

もっとも、フィンランドやノルウェーなどの北極圏で生活をしている先住民族のラップ人やサーミ人などは、伝統的にトナカイを放牧していて、トナカイ肉がレストランのメニューにもなっているそうだ。

サンタさんのソリを曳くのも、馬などと同じ家畜としてのトナカイだろうか?

日本でも、北海道幌延町にはトナカイ観光牧場があって、トナカイソーセージなどを販売しているらしい。


このまま地球温暖化が進んで、トナカイが絶滅したら、サンタクロースはどうやって良い子たちの所に行くのだろうか。

飼育されたトナカイがいる?
スノーモービルもある?

そんな問題ではないだろう!!



【本ブログ内関連記事リンク】

クリスマスツリーと巨樹巨木信仰

冬至とクリスマスの間

キリンが絶滅!!?

巨木文化と巨石文化 -巨樹信仰の深淵

縄文の巨樹に思いを馳せて -第25回巨木フォーラムと三内丸山遺跡

諏訪の御柱祭と巨樹信仰







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日本のポンペイ? 上毛の古墳王国 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

しばらく前になるけど、9月と10月に、保渡田古墳群とその敷地内にある「かみつけの里博物館」(群馬県高崎市)を見学した。

5世紀末と6世紀前半の二度の榛名山大噴火により埋もれた東日本有数の王国の一部が、保渡田遺跡として発掘、保存されている。

王族の墓である大型の前方後円墳は、八幡塚古墳と二子山古墳、それに一部は切り崩されている薬師塚古墳の3基がある。

「八幡塚古墳」は、二重の堀を巡らした三段墳丘で、葺石で覆われている。墳丘長96mという巨大な前方後円墳だ。

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周囲は約6千本の「円筒埴輪」で取り囲まれている。

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この円筒埴輪は、もともとは壺などを載せる台で、死者へのお供え土器が源流という。これを並べ立てて結界を張ったと考えられている。

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円筒埴輪のほかにも、「盾持ち人埴輪」と呼ばれる神域を守る軍団がある。

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保渡田古墳出土(群馬県立歴史博物館)

顔には紅を塗り、墓域に邪霊が侵入するのを阻んだ。
赤色は、古代から悪霊に打ち勝つための色として、世界中の呪術で取り入れられていたようだ。

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八幡塚古墳の石室には、石棺が収蔵されている。
この地を支配した王の遺体が収められていたのだろうか。

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また、王の権力を示すような道具類の器財埴輪や動物埴輪、さらに武人や巫女などの人物埴輪といった形象埴輪なども、古墳には収められていたようだ。

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「武人埴輪」の最高傑作といえば、群馬県太田市出土のもので、埴輪で唯一の国宝に指定されていて、東京国立博物館で展示されていた(埴輪 古代へのロマン参照)。

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群馬県立歴史博物館にも、榛東村の高松塚古墳から出土された武人埴輪が展示されていた。

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保渡田古墳群には、八幡塚古墳のほか、「二子山古墳」もある。
こちらは芝で覆われた前方後円墳だ。
秋の時期には、周囲をコスモスの花が彩る。背後には、これらの地を火山灰で覆いつくした榛名山が聳えている。

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古墳群の近くには、上越新幹線の工事で出土した王の巨大な館跡(三ツ寺Ⅰ遺跡)もある。

「かみつけの里博物館」には、これらの遺跡の復元模型や出土した埴輪、副葬品の金銅製の靴なども展示されている。

ところで、平成24年(2012年)には、渋川市の金井東裏遺跡から古墳時代の男性人骨が甲を着けた状態で出土した。(↓写真は、県立歴史博物館展示のレプリカ)

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1500年前の榛名山の大噴火に巻き込まれた甲を着けた人骨の主は、榛名山に向かって前のめりに倒れこんでいた。
噴火を鎮めるために、火砕流が迫る中、逃げずに甲を着けて山に向かって祈っていたとも考えられている。

NHKの「歴史秘話ヒストリア」では、今年の10月にこれらの上毛の古墳遺跡群を「謎の古代王 最後の戦い 日本のポンペイから探る」として取り上げて放映する予定だった。予告放送までしていた。

しかし、予告放送直後に起きた阿蘇山の36年ぶりの爆発的噴火(2016年10月8日)による被害者の方々などに配慮してか、放映は中止になったようだ。

阿蘇の噴火で被害にあわれた方々にとって、日本のポンペイの放送は感情的に違和感があるのかもしれない。

大変申し訳ないが、当事者ではない私には、正直なところ放映中止で安堵する感情は持ち合わせていない。(東日本大震災では、世界中が共感したというのに・・・)

それよりも、過敏な自主規制、自粛の方が違和感がある。

自主規制の風潮は、一見やさしさの表れのようだが、行き過ぎると危険性もはらんでいるようにも思う。

大噴火の山と迫りくる火砕流を前に、家族や部族の安全をひたすら祈ったであろう古代の武人に思いを馳せつつ・・・


【本ブログ内関連記事リンク】

埴輪 古代へのロマン

中国文明と縄文文化 - 兵馬俑展と三内丸山、登呂遺跡

縄文の巨樹に思いを馳せて -第25回巨木フォーラムと三内丸山遺跡

イベント自粛と被災地との連帯 -自粛の連鎖から多様性を考える

震災被災跡地の風化 -被災地訪問記1




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伝統とミシュラン星 宝登山神社 -秩父の神社と巨樹(3) [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

今回は、三峯神社、秩父神社とともに秩父三社の一角を占める「宝登山神社」(ほどさんじんじゃ)。

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創建は今からおよそ1900年前のこと。
日本武尊の東征の際に山中で山火事に会い、脱出もままならなくなった時、大犬が現れて火を消してくれたという。

頂上に登った尊は、この山を「火止山(ほどやま)」と名付け、神武天皇、山の神(大山祇神)、火の神(火産霊神)を祀ったのが起源という。

鳥居の先の石段を上るとその先に本殿(拝殿)が見えてくる。

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柱だけではなく、虹梁や化粧垂木なども白色で、今まで拝んできた他の神社とはずいぶん雰囲気が違う。

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そこに絡みつく彫刻の龍も、金色や緑色、赤色など艶やかな色彩だ。

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この艶やかさはどこかで見たような気がする。と思ったら、日光東照宮の陽明門だ。
現在の本殿は江戸時代の建築だそうだから、白塗りの柱など、なるほど日光東照宮にも似た華やかさもあるのだろう。

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日光東照宮陽明門(2007年撮影)

このちょっと日本離れした艶やかさが、埼玉県内で最初(2011年)にミシュラン星(一つ星)を獲得した理由だろうか?

でも、裏に回ると本殿は意外に渋く地味だ。

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宝登山の山頂には「宝登山神社奥宮」があって、ロープウェイでも登れる。
また、ロウバイをはじめ、季節ごとの花々も楽しむことができるという。

今回は残念ながら時間もなかったので、奥宮参拝は断念。

その代わりでもないが、すぐ近くの「長瀞岩畳」を訪れた。
長瀞渓谷は荒川の上流部で、地殻変動に起因する岩石などを見ることができ、「日本地質学発祥の地」ともいわれて国指定名勝・天然記念物となっている。

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青緑の川面と白い岩肌のコントラストも美しい。
川下りでも有名で、その発着場ともなっている。
最近ではラフティングも盛んだそうだ。

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ミシュラン星の艶やかな神社、そして清流と岩壁のコントラストも美しい渓谷。

伝統と近代が入り混じったような多彩な宝登山神社と長瀞だった。

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巨木フォーラム in 秩父 ― 秩父夜祭 屋台芝居と囃子でおもてなし


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夜祭と甚五郎彫刻 秩父神社 ー 秩父の神社と巨樹(2) [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

秩父といえば「秩父の夜祭」。今回は、その12月例祭で知られる「秩父神社」。

秩父市(埼玉県)の中央、秩父鉄道秩父駅の近くの秩父神社は、崇神天皇の時代に知知夫国の初代国造に任命された知知夫彦命が祖神を祀ったのが始まりとされている。

現代の本殿は徳川家康が寄進し、江戸初期の建築様式をよく表していることから埼玉県有形文化財に指定されているという。

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本殿の彫刻には、日光東照宮の彫刻で有名な左甚五郎作のものも見受けられる。

本殿正面には、寅年の寅の日、寅の刻にうまれたという徳川家康にちなんで4面の虎の彫刻が施されている。

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そのうちの1面(↓写真の右)は、「子宝 子育ての虎」は左甚五郎作と伝えられる。

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ほかにも左甚五郎作の彫刻として「つなぎの龍」がある。
天ヶ池に住み着く龍が暴れると必ずこの彫刻の下に水溜りができることから、彫刻を鎖でつなぎとめたところ龍は現れなくなったという。

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本殿北側の「北辰の梟(ふくろう)」の彫刻は、体は向こう側を向いているが、顔はこちらを向いているという見返りの姿だ。

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さすがに左甚五郎も参画した彫刻群は見ごたえがある。

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秩父神社の社紋は銀杏の葉とかで、境内には樹齢400年と伝わるご神木の大イチョウもある。

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乳根は大イチョウだけかと思ったら、この樹は樹高も低いのに乳根は発達している。

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また、諏訪の御柱祭で有名な御柱も境内にあった。
本家の諏訪のような巨木ではないが、境内社の諏訪神社例祭として「秩父御柱祭」が昨年9月末に6年ぶりに執り行われたという。

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秩父神社の祭といえば、冒頭にも記したとおり、何といっても「秩父夜祭」だ。
毎年12月の寒さの中、夜空を彩る打ち上げ花火とともに繰り広げられる夜祭は、京都の祇園祭、飛騨の高山祭とともに日本三大曳祭に数えられている。

神社道路向かいの「秩父まつり会館」には、この夜祭の笠鉾と屋台が展示されている。

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映像などでもそれなりの迫力は感じられる。

でも、やはり、師走の寒風の中で、本物の屋台と祭の熱気を味わなくてはね!!


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三峯神社 狼伝説と関東最強パワースポット ー 秩父の神社と巨樹(1) [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

秩父での巨木フォーラム(「巨木フォーラム in 秩父 ― 秩父夜祭 屋台芝居と囃子でおもてなし」)の前日、山梨県側から雁坂トンネルを経て「三峯神社」に立ち寄った。

伝説によれば、日本武尊が東征の途中で創建したという。
周囲を囲む白岩山、妙法ヶ岳、雲取山の三山から三峯の名となったそうだ。
修験道の祖の役の小角や空海も縁があるようだ。

標高およそ1100mの地は霧深く、神社参道入口の「三ツ鳥居」の両脇では、狛犬というよりも精悍な狼(山犬)が出迎えた。

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さらに奥の「随身門」(仁王門)でも狼が。

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いよいよ拝殿。

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彫刻もあでやかだ。

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拝殿の石段には、狼というよりも狐(?)が両脇を固めていた。
その台座には、寄進の講として私の出身地の「江戸 四谷」の文字が。なんとなく嬉しくなった。
現代のように電車や車はないから、当然ながらここまで歩いてきたのだろう。

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このように、境内のあちこちには狼が鎮座している。
お札も狼だ。

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三峯神社では、ご眷属(けんぞく)、すなわちお使い神としてお犬様を信仰している。
日本武尊が奥深いこの地に足を踏み入れた時に道案内をしたのが山犬で、その忠実さと勇猛さによってご眷属に定められたという。

そのご眷属は、深い山中に身を潜めているために、お祭りをおこなうための仮のお宮として創建されたのが「遠宮」、別名「御仮屋」と呼ばれる小さな祠で、拝殿のさらに奥の道にある。

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その祠の内外は、ご眷属の山犬、つまり狼に守られている。

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オオカミがこのように信仰対象となったのは、山の樹や畑を荒らす害獣を追い払う益獣と考えられたからだ。

ご眷属のお犬様は、大口真神(おおぐちのまがみ)として崇められたし、そもそもオオカミの名も大口真神の大神から由来しているともいわれる。

三峯神社だけではなく、御岳神社(東京都)など、甲州から関東一円で信仰されてきた(「オオカミ復活!?  - シカの増加と生態系かく乱を考える」参照)。

神社入口(三ツ鳥居の横)の「秩父宮記念 三峯山博物館」では、ちょうどオオカミ展をやっていた。

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館内写真撮影禁止だったが、狼(二ホンオオカミやタイリクオオカミなど)の毛皮も展示されていた。二ホンオオカミの毛皮は、7例目、8例目を一挙展示とのことだ。

つい最近でも目撃者があり、秩父の山中にもまだオオカミが生息していると信じられているようだ。


三峯神社にはまた、パワースポットのご神木もある。
拝殿脇の大杉に触れるとご神木の気が貰えるというので、参拝客の手当てで黒光りしているほどだ。

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休日には、長蛇の列ができるという人気のパワースポットだ。

遠宮の近くの「縁結びの木」も、特に若い女性には人気があるようだ。

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秩父の山並みが見渡せるパワースポットの「遥拝殿」では、霧で何も見えなかったが、神社の参拝だけで十分すぎるパワーを貰った気がする。

そして何よりも、境内に多数鎮座しているお犬様、狼からたくさんのパワーを貰った。

全国巨樹・巨木林の会会長が、巨樹よりも狼からパワーを貰うとは不謹慎?


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埴輪 古代へのロマン [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

最近、古墳時代の埴輪を続けて2カ所で見る機会があった。

初めは、国立博物館(東京上野)の「日本の考古・特別展」。
「古代ギリシア展」を観た際に、たまたま特別展に立ち寄った。

平成館の特別展会場入口では、国宝に指定されている「挂甲の武人(けいこうのぶじん)」の埴輪が出迎える。

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埴輪で唯一の国宝とか。出土は群馬県太田市。

大陸伝来の最新の甲冑と剣を身に着けた武人の姿を現している。
身に着けているのは大陸伝来のものだが、その姿は弥生時代以来の日本の伝統的な武装だそうだ。

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後で紹介するように、大和朝廷が勢力を張った畿内(関西地方)に対して、古墳時代の関東地方にはそれと匹敵するほどの豪族の勢力があったようだ。

その古墳の一つ、「稲荷山古墳」(埼玉県行田市)は、金錯銘を有する鉄剣が出土したことでも有名だ。

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仁徳天皇陵として知られている大仙陵古墳(大阪府堺市)とそっくりの前方後円墳の形状で、仁徳天皇陵のほぼ4分の1の大きさという。

周囲には、このほか丸墓山古墳(↓写真)、二子山古墳、将軍山古墳など多くの古墳が隣接していて、「さきたま古墳公園」として整備されている。

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国立博物館の埴輪に戻るが、国宝のほかにも、重要文化財の「腰かける巫女」も展示されている。群馬県大泉町出土だ。

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これ(↓)は、「琴をひく男子」。茨城県桜川市出土という。
おさげ髪の女性かと思ったが、男性だそうだ。しかし、顔つきは優しい?

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こちらは正真正銘(?)の「女子」と名付けられた埴輪(群馬県高崎市出土)。
彩色の跡も見え、服の模様やネックレスまではっきりとしている。

なにやら盃のようなものを差し出しているところを見ると、巫女さんみたいな気もするけど・・・

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「盛装の男子」は、栃木県壬生町出土で、名付けられたとおり、立派な服装だ。

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もう1カ所の埴輪見学は、群馬の森の群馬県立歴史博物館(群馬県高崎市)。
こちらは、近くに所要があったのでついでに立ち寄ったところ、たまたまその日がリニューアルオープンの日で、入館料は無料。といっても、普段でも入館料は200円と安いけど。

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館内は、原始時代から古代、中世、近世、それに近現代と、それぞれの時代の群馬県の姿が展示されている。

それとは別に、「東国古墳文化展示室」があり、そこに埴輪が展示されていた。

ここでも、国立博物館と同様に、高さ123cmの大型の「高塚古墳の武人埴輪」(群馬県桃井村出土)が出迎える。
甲冑の形状は少々異なるが、その雰囲気はそっくりだ。

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前方後円墳の保渡田八幡塚古墳(高崎市)から出土した埴輪は、皆が盾を持っている。
外界から古墳を守る異様な形相をした魔除けの役割を果たしていたという。

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富岡市の円墳から出土の埴輪は、人物だけではなく、何やら抽象的な形象埴輪だ。

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下(↓)の左の馬形埴輪は、群馬県で最大級の大きさの埴輪だ。
伊勢崎市の蛇塚古墳からの出土で、馬具が忠実に表現されている。

右は鷹匠埴輪で、太田市のオクマン山古墳出土。
正装した身分の高い人物で、左腕(向かって右)に鷹を止まらせて、鷹狩の様子を示しているらしい。

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ところで、この県立歴史博物館の最後の展示室、近現代には、「スバル360」の実物が展示されている。

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私たちの年代ならば記憶にある「てんとう虫」の愛称で親しまれた量産型の軽自動車だ。

戦時中に軍用機を生産していた中島飛行機の技術を受け継いで生産された自動車で、1958年(昭和33年)に登場した。
この中島飛行機太田製作所(群馬県太田市)が、後に富士重工業となりスバル360が生産されたので、博物館に展示されているというわけだ。

その名のとおり、360㏄という、今ではオートバイにも負けそうな排気量だが、それでも4人乗り。

販売第1号車の購入者は、かの有名な松下幸之助だったという。

昭和33年といえば、東京タワーが建設された年。映画「三丁目の夕日」にも、東京タワーとともに、三輪自動車ミゼットやスバル360も登場していたような気がする。

このスバル360は、日本機械学会によって今年度の「機械遺産」に選定された。

いつの日にか未来人からは、現代の埴輪同様に、古代の遺物として珍しがられる日が来るのだろうか。

それとも、未来人となるまで人類は存続できない? 
戦争テロ、環境汚染、食品汚染・・・・



先週の土・日の学会出席に続き、慣れない畑仕事や収穫物の配送で、ギックリ腰状態になってしまいました。トホホ・・・
PCに向かっていると腰を伸ばして立ち上がれなくなるので、ブログの更新もできず、niceのお返しもできませんでした。失礼!
せっかくの「山の日」も含めて数日間横になっていましたが、何とかPCに向かえるようになり、やっとブログの更新ができました。万歳!!


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中国文明と縄文文化 - 兵馬俑展と三内丸山、登呂遺跡

(山の日に寄せて)

山の日制定

形から入る -山ガールから考える多様性








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暁の祭典 浜降祭 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

海の日の7月18日、神奈川県茅ケ崎市の西浜海岸では「浜降祭」が催された。

神輿を担いで海の中にまで入って禊(みそぎ)を行う祭形態は、海岸部では各地でみることができるが、茅ヶ崎の浜降祭は、別名「暁の祭典」とも称されて、神奈川県無形民俗文化財にも指定(昭和53年)されている盛大な祭だ。

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起源には諸説あるようだが、一般的に伝えられているのは次の説。

時は天保9年(1838年)、相模国一宮の寒川神社の神輿が「国府祭」(大磯町)に参加した帰途、相模川の渡し場での氏子同士の争いで川に落ちて行方不明になってしまった。

その後、南湖(現、茅ヶ崎市南湖)の網元の鈴木孫七が漁の最中に御神体を発見して寒川神社に届け、そのお礼として南湖の浜(西浜)まで寒川神社の神輿が赴いて禊をするようになったのが始まりとか。

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寒川神社の神輿(浜降祭にて)

もっとも、それより以前から地元の鶴嶺八幡宮では、海に入る禊が行われていたともいう。

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鶴嶺八幡宮の神輿(浜降祭にて)

「暁の祭典」ともいわれるように、祭の当日早朝には、寒川神社をはじめ、近隣の神社の神輿が一斉に海岸を目指す。
一番神輿は午前4時ころには海岸に到着するという。

かつては、遠方の神輿は夜中に出発したそうだが、最近は海岸近くまではトラックやバスでやって来る。

海岸沿いの国道134号線は、片側2車線、上下線で4車線の道路だが、この日ばかりは片側2車線はこれらトラックなどの駐車場となる。

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写真↑の車のある奥の車線(海側)は渋滞ではなくて神輿や担ぎ手を運んだトラックなどの駐車場、手前の2車線が対面交通となっている。

地元の南湖地域の上町(琴平神社)、中町(八雲神社)、下町(住吉神社)の各神輿は、各町内から練り歩いて会場入りする。

入場前には、海に入って禊をする神輿も多い。

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午前7時までには、30基以上の神輿が勢揃いする。

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その後、寒川神社の宮司さんたちによる神事が始まる。

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神事が終了すると、神輿は一斉に帰途に就くが、その前に海に入るのもある。

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それぞれの町内会に戻った神輿は、町内を練り歩く。

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この浜降祭、私の子供が小学生の頃は7月15日と決まっていて、地元小学校は午前中は休校だったが、授業時間や担ぎ手の確保などのためもあり、また観光面から多くの見物人を集めるためもあり、1997年(平成9年)から現在のように「海の日」に開催することになった。

小学生たちも心置きなく祭囃子に参加できるが、学校が休みでなくなるのはなんとなく寂しい?!

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小学校の英語教育などで、ますます授業時間が足りなくなるから、祭どころではない?!

(掲載写真のうち、海入り神輿などは、過去の撮影写真を使用)

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祭で休みは、文化か、悪弊か? -祭日と休日を考える

幸運!! 京都 葵祭





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四谷・左門町界隈(3) 江戸の名残と明治・大正のモダン [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

実家のある左門町(新宿区)から用務先の二番町(千代田区)までの散策も、いよいよ終盤。

服部半蔵の墓もある「西念寺」(前回ブログ記事)から、このあたりに多い車も通過できないような路地をしばらく進むと、JRと地下鉄丸ノ内線の「四ツ谷駅」前の交差点に出る。

四ツ谷駅から多くの人々が左方向、すなわち赤坂・青山方面に歩いていた。
どうやら、今年4月から公開時期が拡大された「迎賓館赤坂離宮」に向かう人々のようだ。

赤坂離宮は、1909年(明治42年)、かつての紀州徳川家江戸中屋敷に、後の大正天皇の皇太子時代に東宮御所として建設された。その後も、昭和天皇のご成婚直後などに東宮御所として使用されたものの、あまり利用はされなかったようだ。

ネオ・バロック様式の西洋風宮殿は、2009年(平成21年)には明治以降の建造物として初めて国宝に指定されている。

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そういえば、建物はもちろん、外周の塀(フェンス?)も、どことなくベルサイユ宮殿を彷彿させるが、細部の飾り物などには和風のもの(鎧兜や鳳凰など)も多い。

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写真↑の中央の青銅の屋根飾りは鎧・兜、左の金色は鳳凰

戦後は、国会図書館などにも使用されたというが、私が小学生のころには写生会で庭園や館内に入場した覚えがある。
迎賓館として改装利用されるようになったのは、1974年(昭和49年)からだ。

今回は、JICAでの会議の予定もあり、見学は断念。
写真↑は、2013年11月に撮影。


「四ツ谷駅」ホームは、江戸城外堀の中にある。
外堀は、この辺りではJR市ヶ谷駅と飯田橋駅間や地下鉄赤坂見附駅付近(ホテルニューオータニ近く)などで、昔のように水を湛えているのを見ることができる。

JR中央線・総武線はこの外堀の底を通過し、あとからできた地下鉄丸ノ内線はJRよりも高い位置で地表に出たところに駅舎がある。

写真↓の手前がJR四ツ谷駅のホーム、奥の線路を跨ぐのが丸ノ内線との連絡通路と地下鉄駅舎。その先のビル群は、赤坂見附方面。

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この外堀跡の線路を跨ぐのが、都内最古の陸橋「四谷見附橋」だ。

もともとは1913年(大正2年)に架けられ、近くの東宮御所(赤坂迎賓館)に合わせてフランス式の装飾が取り入れられたという。
なお、現在の橋は道路整備に併せて1991年に整備された。

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この橋を越えて新宿通りを進んだ(写真↓の先)突き当りが、前回登場の服部半蔵が警護したという江戸城(皇居)の「半蔵門」だ。

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ところで、四谷見附や赤坂見附、日比谷見附などの「見附」は、江戸城を警護するための見張り番所があったところで、敵に攻め込まれないように道が折れ曲がる枡形になっていたりする。

四谷見附は、江戸城外郭門の一つ「四谷門」があったところで、現在でも石垣の一部が残されている。

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これに連なる外堀の土手は、春には桜の名所として名高い。


左門町の実家を出発してから、写真を撮ったり、寄り道をしたりの小一時間、江戸の名残と近代日本のモダンな姿を垣間見た散策だった。

故郷を見直してみるのも悪くない・・・

でも、急がないと、JICAの会議に遅れるかも(-.-;)




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四谷・左門町界隈(2) 忍者ハットリ君の墓も! 坂の町、寺の町 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

前回記事の須賀神社から四谷にかけては、坂が多く、またお寺さんも多い。

須賀神社に続く天王坂のすぐ近くには、「観音坂」というのもある。坂の途中の真成院にある潮踏観音に因むという。(写真↓は、坂下から)

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潮踏観音とは、前回記事のとおり、かつて海水がこの辺りまで来ていたことにも関係あるらしい。
四谷周辺は、「塩踏の里」とも呼ばれていたという。

父親からは、かつてこのあたりの谷地は「鮫ヶ橋」と呼ばれていたと聞いた記憶がある。
サメも出るというからには、やはり海とも繋がっていたのだろう。
須賀神社近くのお寺の水鉢には、明和3年の年号とともに「鮫ヶ橋谷町」の銘が刻まれている。

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須賀神社のあたりは、新宿から四谷にかけての甲州街道(現在の新宿通り)から尾根のよう張り出た台地上に位置する。

なるほど坂が多いはずだ。どちらに行っても坂がある。
先ほどの銘の「谷町」もうなづける。

これらの坂の一つ、その名もオドロオドロシイ「闇坂」(くらやみざか)。
JR中央線の線路(信濃町駅方面)に向けて落ち込む急坂だが、かつて坂の左右にお寺があって樹木が茂り、昼なお薄暗い坂だったためにこう呼ばれたという。

小学校の同級生たちも何人かがこの周辺に住んでいて、よく遊びに行ったものだ。
自転車でこの急坂を下ることは、臆病な私には到底できなかった。

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須賀町や四谷周辺には、坂だけではなく、お寺も密集していて、寺町ともいわれる。
お寺さんが隣同士、あるいはお向かいなど、どちらを向いてもお寺だらけだ。
私が子供のころに一時通った学習塾は、お寺の本堂でアルバイトの大学生が一人で教えていた。まさに寺子屋だった。

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先ほどの「観音坂」は、真成院と「西念寺」との間の坂だ。
坂上からの写真↓の左側の塀が西念寺。

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西念寺は徳川家ゆかりの寺だ。

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門扉にも葵の紋が附されている。

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ここには、徳川家康の旧臣で、槍の名手、そして伊賀忍者の総帥であり、皇居(旧、江戸城)の半蔵門にその名を残している服部半蔵の墓がある。

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家康の長男の信康は、織田信長から謀反の嫌疑をかけられて切腹を命じられた。
半蔵は、信康の介錯を家康から命ぜられたが、主君でもあった信康の介錯はついにできなかった。

後に、信康の冥福を祈るために仏門に入り、この西念寺を開山して、信康の供養塔を建立したという。

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服部半蔵は、単に武勇に秀でただけではなく、深い情をも兼ね備えた人だったようだ。
そこが、漫画でも「忍者ハットリ君」として皆に慕われるキャラクターとなったのかな~、と勝手に想像している。

忍者ハットリ君の墓からは、彼が警護した江戸城を防御するための外堀と見附があった四谷も近い。

次回は、江戸の名残と明治・大正のモダンが混在する四ツ谷駅周辺。







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四谷・左門町界隈(1) お岩さんとお天王様 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]

国際協力機構(JICA)(本部:東京都千代田区二番町)での会議のついでに実家(東京都新宿区左門町)に寄って、そこから四谷・JICA本部まで歩いてみた。


新宿区内には、町名変更(住居表示)の嵐を逃れた由緒ある町名がたくさん残っている。
「左門町」の町名も、江戸時代に諏訪左門という先手組組頭の屋敷があったことに由来するという。

町域は、JR信濃町駅と地下鉄丸ノ内線四谷三丁目駅を貫く外苑東通りの両側だ。


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東京オリンピック(1964年)前までは、品川車庫/天現寺橋(うろ覚えだが)から四谷三丁目(元、塩町)の間を都電が走っていた。
道路の真ん中には都電軌道敷きがあったが、現在では道路も拡張されて、両側にはビルが立ち並んでいる。
都電軌道敷の御影石は、代々木オリンピック会場広場の敷石として利用されている。
信濃町側(明治神宮外苑側)から四谷三丁目方向(新宿通り)の写真↑右側には、四谷警察署がある。

この町出身の一番の有名人は、なんと言っても「四谷怪談」の主人公、「お岩さん」だろう。

「田宮稲荷神社」(通称、於岩稲荷)は、お岩さんの父、田宮又左衛門の住居にあった社で、婿養子の夫、田宮伊右衛門とともに家盛を再興したお岩さんが信仰していたそうだ。
現在では、都の指定旧跡となっている。


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お岩夫妻は本当は夫婦円満だったというが、鶴屋南北の戯曲『東海道四谷怪談』が世に出ると、怪談話のモデルとしてすっかり有名になった。

芝居や映画で四谷怪談を取り上げる際には、現在でも必ず俳優などが参拝する。
最近では、パワースポットとしても有名らしく、若い女性が参拝しているのをよく見かける。


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すぐ斜め向かいにも、お岩さんと称される「於岩稲荷陽運寺」がある。

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手前右の赤い幟が田宮神社、その先左の赤い幟が陽運寺。

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お岩稲荷の本家争いをしていたと聞いたことがあるが、今はどうなっているのか。

境内には、お岩さんの産湯につかった(と聞いた記憶があるが)井戸が残されている。
井戸にはそのような説明板もないから、産湯というのは根拠のない言い伝えに過ぎなかったのだろう。
子供のころには蓋もなく、隣接する銭湯への行き帰りによく中を覗き込んだものだ。


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お岩さんのすぐ近くには、「須賀神社」がある。ここの町名は、神社に因んで須賀町。
須賀神社は、須佐之男命(すさのおのみこと)(別名 須賀大神)と宇迦能御魂命(稲荷大神)の二柱を主祭神とする。


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牛頭天王(ごずてんのう)はインドの神が仏教に取り入れられたものだが、さらに日本では須佐之男命と習合した。
このため、須賀神社は「天王様」とも称され、子供のころにはもっぱらこちらの名で呼んでいた。

お祭り(例大祭や酉の市)になると、神楽殿では神楽舞が奉納された。
当時は、この向かい側の現在神輿蔵になっているところも神楽殿(舞台)で、こちらでの奉納の方が多かったように記憶している。



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見世物小屋や夜店がたくさん出て賑わった境内広場も、現在ではマンション(写真↓の右建物)が建って狭くなった。

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須賀神社は四谷の総鎮守であり、例大祭「天王祭り」の際には、四谷地区(現在の新宿区になる前は、四谷区として独立していた)の各町内から神輿が出て、神輿行列で四谷の町中を練り歩いた。

台地上の先端に位置する須賀神社から神輿を担いで台地下に下りるときには、この女坂を使う。


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一方の男坂は急峻で、足を滑らせると昔は海水が来ていたという谷底にまで転がり落ちそうだ。

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谷底から先は急な上り坂で、右側には甲州街道の新しい宿場町、内藤新宿の生みの親である高松喜六や江戸時代の国学者、塙保己一の墓がある「愛染院」がある。

さらにその先の右側、現在ではマンションになっているところには、かつてラジオ局の「文化放送」社屋があり、芸能人などがよく出入りしていたものだ。

この坂は、坂の途中の愛染院の反対側にある「東福院」に因んで「東福院坂」と呼ばれるが、須賀神社にちなんで「天王坂」とも呼ばれている。(写真↓は、かつての文化放送側から)


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次回は、これらの坂とお寺にまつわる話を追加する。服部半蔵も登場の予定。




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