ss 上橋菜穂子『香君』を生物多様性の視点で読んでみた(3) [生物多様性]
上橋菜穂子さんの『香君』について、
第1回では、ウマール帝国がオアレ稲の配布を通じて、飢餓に苦しむ周辺国を属国として支配してきた、その支配構造と源泉について生物多様性の視点から紹介した。
それはまさに、品種改良の結果生み出された多収量品種よる緑の革命や遺伝子組換えによる除草剤耐性農作物品種やターミネーター遺伝子を組み込んだ不稔種子などによる現代のグローバル企業の戦略そのものだった。
第2回では、オアレ稲一辺倒となった耕作地にヒシャという恐ろしいバッタが繁殖して稲を食べ尽くし、飢餓が蔓延する虫害の光景から、モノカルチャー(単一耕作)の危うさを紹介した。
その例として、アイルランドのジャガイモ飢饉を映画タイタニックや風と共に去りぬとの関連とともに紹介した。
でも、『香君』の物語での重要なテーマは、その題名にも表されている「香り」であることは明らかだ。
出版社(文藝春秋)のwebサイトによれば、著者(上橋菜穂子さん)は次のようなコメントを寄せているという。
「草木や虫、鳥や獣、様々な生きものたちが、香りで交わしている無数のやりとりをいつも風の中に感じている、そんな少女の物語です。」
主人公のアイシャは、あらゆる風景・出来事に香りを感じることができ、香りで生きものの声さえも聴き分けることができる。
アオレ稲の作付けにより他の植物が生育しなくなってしまうのさえ、香り(匂い)から理解する。
「土の中には様々な、ごくごく小さな生き物がいて、それぞれ独特な匂いを放って」いて、「複数の匂いが混然一体となって土の匂いを作っている」が、「オアレ稲が植えられている場所では、その匂いが変わってしまう」。「オアレ稲を植えると他の穀類が育たなくなってしまうのは、そのせい」なのだと。
そして、香りとともに重要なテーマは、生きものたちがコミュニケーション、上記の著者の言葉で言えば「香りで交わしている無数のやりとり」をしているということだ。
無粋ながら、この重要なテーマである生きものたちのコミュニケーション・関係性についてが今回(第3回)だ。
最近では、動物はもちろんのこと、声を発しないとされる植物さえも、声なき声を発して情報交換しているらしいことが科学的にも証明されつつある。樹木は種類が異なってもそれぞれの根が菌根菌の菌糸によって繋がり、栄養などのやり取りもしていることが同位体元素で確かめられてもいる。
また、害虫によって葉を食われた植物は、特別な匂いを発して害虫の存在を周囲に知らせ、害虫の天敵を誘導してやっつけることまですることも分かってきた。
まさに、香君の物語のように、「香りで交わしている無数のやりとり」の世界だ。
いわば、自然のネットワークである。
さらに物語では、香君の教えとして、アイシャに次のように語らせている。
「人にとってはいてほしくない虫も、その虫を食べて生きる鳥にとっては、いなくなれば困る食糧であり、鳥がいなければ、虫は増え過ぎて草木が困る。香君が風に知る万象とはそういうもの — 必ずしも人にとって利益ばかりではないものが満ちて、巡っているすべてのことである。」
これこそが生態系であり、生物多様性の考え方でもある。
皆さんよくご存じの「食物連鎖」に象徴されるように、あらゆる生物は、異性や餌、日照などを巡って競争し、時には喰うか喰われるかの死闘を演じ、また時には互いに助け合う共生関係(相利共生)を築いて生命を繋いできたのだ。
このブログでも、人間が一方的に決めつけてしまう雑草などについて取り上げたことがある。
雑草のほかにも、人が勝手に害虫・害獣として決めつけ、その駆除のために導入した天敵(益虫・益獣)がかえって生態系や人の生命・健康、農林水産業などに大きな被害をもたらした例は無数にある。
有名なものとして、沖縄のハブ退治のために導入したジャワマングースが、ニワトリなどの家畜・家禽やアマミノクロウサギなど固有種を襲ったり、ボウフラ退治のために導入したカダヤシ(蚊絶やし、タップミノー)が在来種メダカをはじめ稚魚を食べてしまう例などがある。
生態系、人の健康、農林水産業などに甚大な被害を及ぼすとして「外来生物法」による特定外来生物に指定されているものの多くは、こうして人によって持ち込まれたもの(外来種、外来生物)だ。
これらの事例を含め、共生の考え方、必要性、そして私的共生論については、拙著『生物多様性を問いなおす 世界・自然・未来との共生とSDGs』(ちくま新書)をご参照ください。
目次は、下の過去記事からどうぞ。
上橋さんは、もともと文化人類学者で、物語にもその知識が光っている。
さらに、「上橋菜穂子『香君』を生物多様性の視点で読んでみた(1)」でも紹介したとおり、いわば生物多様性に関連する実に多くの書籍を読み込んで物語を執筆しているから、単なるファンタジーには終わらないのだ。
医者や弁護士、さらには元組員など、その経歴や専門性をもとに小説家となった人も多い。
私もいつかは、専門分野を活かした小説でも書こうかなと構想、いや夢想?はしているのだけれども・・・
ss 上橋菜穂子『香君』を生物多様の視点から読んでみた(2) [生物多様性]
前回に続いて、上橋菜穂子『香君』を生物多様の視点から読んでみると・・・
ウマール帝国は、神授の稲オアレ稲によって属国を支配してきた。
その支配構造と源泉は、現代の多国籍アグリビジネス企業のビジネス戦略とそっくりだということを前回の記事で示した。
物語では、さらに生物多様性の視点から興味深い出来事が続いて起きる。
オアレ稲一辺倒となった耕作地にヒシャという恐ろしいバッタが繁殖して稲を食べ尽くし、飢餓が蔓延する光景が描かれている。すなわち虫害だ。
現在の香君と少女アイシャが、この害虫に対処するのが物語の山場でもある。
前回の緑の革命で記したとおり、プランテーションなど大規模なモノカルチャー(単一耕作)では、病害虫や気象により作物などが全滅する(大きな被害を被る)リスクの高いことが弊害としてよく語られるところだ。
私たちは体形や顔つき、性格なども一人一人異なり、新型コロナやインフルエンザなどの感染症にも罹りやすい人と罹りにくい人がいる。これも生物多様性。
生物多様性条約で示されている3つの多様性のひとつ、遺伝子レベルの多様性だ。
しかしモノカルチャーでは、同じ性質の作物、時には遺伝的に全く同一の作物(クローン)が広範囲に栽培されており、病害虫などに対する耐性も同一となる。このために全滅の危機が高くなるのだ。
つまり、自然界での生物多様性は、絶滅回避のためにも重要といえる。
ほかにも、進化の源泉などの重要要素があるが、これらについては後日に譲る。
日本でも、これを示す出来事が何度も起きている。
そのひとつ。かつてブランド米として全国で広範囲の作付面積を誇ったササニシキは、1993年の大冷害によって壊滅的な被害を被り、以降の生産量(作付面積)は激減することになった。
ササニシキ以外の作付けでは比較的被害が少なかったことから、モノカルチャーの危機がクローズアップされることとなった。
こうしたモノカルチャーによる悲劇として世界的に有名なものに、アイルランドのジャガイモ飢饉がある。
ジャガイモの原産地はラテンアメリカのアンデスだが、アイルランドは原産地に似て気候が冷涼で、土壌も貧弱のために他の作物が育ちにくい。なにしろ、海藻を土壌代わりに敷いたというくらいだ。
また貧しい農民にとってジャガイモは、コムギ栽培と違って小作地代を払う必要のないありがたい作物だった。
これらの理由から、アイルランドのジャガイモ栽培は急激に増加して、18世紀半ば頃にはジャガイモがほとんど唯一の食糧となっていた。
土壌がほとんどなく石ころだらけで、強風の大地。掘り上げた石を風除けとした耕地(アイルランド・アラン諸島にて)
しかし、塊茎(種芋)を植えるジャガイモ栽培は、遺伝子組成が同一のクローンでもあり、当時アイルランドで栽培されていた約300億株の全てが同一クローンのランパー種によるモノカルチャー(単一耕作)だった。
このため、遺伝的多様性を失ったジャガイモ栽培は、疫病の攻撃に耐えることはできず全滅した。
このジャガイモ飢饉により、100万人以上が餓死し、150万人もの人々が米国など海外に移民となって出国して、アイルランドの人口は半減したという。
悲劇の豪華客船タイタニック号の沈没事故では、新天地米国への夢を抱いて最後の寄港地アイルランド南部のコーブ(当時はクイーンズタウン)で乗り込んだ多くのアイルランド人が、救命具の備えもない三等客室に閉じ込められたまま犠牲となったことが知られている。
作品賞など11部門でアカデミー賞を受賞した映画「タイタニック」(ジェームズ・キャメロン監督、1997年公開)でも、船底の客室でフィドルの演奏に合わせてアイリッシュダンスに興じ、救命艇にも乗船できずに犠牲となったアイルランド移民の姿が描かれている(と記憶しているけど)。
どこのパブでもアイリッシュ音楽のライブが始まる(アイルランド・ゴールウェイにて)
余談だけれども、アイルランド系移民の子孫たちからは、自動車王ヘンリー・フォードやケネディ元大統領をはじめ、政財界、スポーツ界、芸能界などで多くの有名人が輩出されている。
全米で3000万人とも4000万人ともいわれるこれらアイルランド系米国人たちにより、毎年3月17日には全米が緑色に染まるがごとくのセント・パトリック・デーの祭が各地で催される。
また、セント・パトリック・デーを祝う人々の心の中には常に、古代ケルトの聖地であり、中世アイルランドの大王の宮殿があったとされるタラの丘があるという。
タラの丘は、アイルランド人の心の聖地でもあり、原点でもあるのだ。
アカデミー賞作品賞受賞映画「風と共に去りぬ」(ヴィクター・フレミング監督、1939年製作、1952年日本公開)で、南北戦争のさ中、ヒロイン、ビビアン・リー演じるスカーレット・オハラが、クラーク・ゲーブル演じるレット・バトラーとも別れ、すべてを失った失意の中で夕焼けを背に再起を誓った「タラ」の地。
そここそは、父ジェラルドが、自分の出身地アイルランドのタラの丘にちなんで命名した開拓農場だった。
アイルランド人の聖地、タラの丘(アイルランド・ミース州にて)
オアレ稲やアイルランドのジャガイモ飢饉などは、モノカルチャー(単一耕作)の危うさを象徴的に示している。
自然は、それぞれの種が多様な形質を備え、そして多くの種が生存競争をし、また助け合いながら生きること、つまり画一的であるよりも多様であることの方が、健全で強い生物社会を作り上げることを教えてくれる。
この自然が用意した仕組みこそが、生物多様性だ。
画一化・同質化がもろいということは、農業に限らず私たちの社会全般にも当てはまるのではないだろうか。
多様性と画一化のバランスは難しい?
拙著『生物多様性を問いなおす 世界・自然・未来との共生とSDGs』(ちくま新書)では、専門書の引用のほか、もののけ姫やアバター、ジュラシックパーク、猿の惑星などの映画も取り上げて生物多様性を語った。
本当は、たとえばアイルランドのジャガイモ飢饉では上記のように、風と共に去りぬやタイタニックの映画も取り上げたかったのだけれども、総ページ数の関係で割愛せざるを得なかった。
まぁ、テーマの生物多様性からは、自分でも「余談」と自覚しているから仕方ないけどネ。
そのうちにアイルランド紀行的な記事もアップしてみようと思うけれど、いつになるかわからないのであまり期待されないほうが良いかも?
拙著の目次などは、下の過去記事からどうぞ。
『香君』の物語の主人公アイシャは、植物や昆虫たちのやりとりを香りの声のように感じ取る鋭い嗅覚の持ち主だ。
そのアイシャが体験する自然界の生物同士の相互作用、ネットワークについては、またまた次回ということで!!