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偉大な英国、強大な米国?  ― 英米の選挙に思う一国至上主義の復活と環境問題 [地球環境・環境倫理]

本日は参議院議員選挙投票日。

日本の選挙だけではなく、英米でも首相、大統領の選挙が話題となっている。

英国では、EU離脱問題に端を発した国民投票により、思いがけず離脱派が過半数を制してしまった。
国民投票のやり直し(再投票)を求める議会HPの署名も400万件を超えているというが、それこそ後の祭りだ。

首相退陣を決めたキャメロン首相の後継となる保守党党首選挙は、二人の女性候補の決戦となり、故サッチャー首相以来の約26年ぶりの女性首相誕生となることが確実という。

EU離脱派の理由にはいろいろとあるようだが、その根底には古き良き「大英帝国」よ、もう一度という思いがあったのは間違いないだろう。

その大英帝国時代の象徴として「大英博物館」がある。世界各地からの美術品や考古学資料など、約800万点が所蔵され、常設展示だけでも約15万点という。
これらの収蔵品は個人や収集家からの寄贈によるが、大英帝国時代に植民地などから略奪されたものが多く含まれているのも周知の事実だ。

世界各地からの略奪収集といえば、大英博物館だけではなく、「王立キュー植物園(キュー・ガーデン)」も同様だ。

プラントハンターによって世界各地で採取された植物・生物資源は、各地の植物園を中継し、そこで順化されて、再び植民地のプランテーションなどで生産され、大英帝国の繁栄に一役買った。

その中には、大英帝国の植民地だけではなく、アマゾン流域原産のゴムのように、他国の植民地(アマゾン流域はポルトガルの植民地)からの密輸もあった。

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英国によりアマゾンから密輸されて東南アジアに広まったゴム園(インドネシアにて)

キュー植物園は、こうした大英帝国が世界各地に張り巡らした植物園ネットワークの中心だった。キュー植物園内には、現在でも大英帝国ビクトリア朝時代に建設された「パーム・ハウス」という温室などが残されている。植物園全体は、2003年に世界遺産に登録されている。

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ビクトリア朝時代の大温室パーム・ハウス(キュー植物園にて)

生物多様性条約では、こうした原産国の権利を無視した生物資源(遺伝資源)利用に対して、資源利用から生じた利益の還元などを目的の一つとしている。

2010年に名古屋で開催された「生物多様性条約COP10」では、遺伝資源へのアクセス(利用)と利益還元の方策を示した「名古屋議定書」が採択された。(詳細は本ブログ記事、「名古屋議定書採択で閉幕 COPの成果 -COP10の背景と課題(3)」参照)

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名古屋議定書も採択されたCOP10(名古屋国際会議場にて)

先進国といわれる国々は、かつての大英帝国のような振る舞いは許されない。


一方、米国大統領選でも、トランプ旋風が吹き荒れている。
トランプ候補の主張も、尽きるところ強いアメリカの復活だ。

かつて、地球環境に関する条約でも、ブッシュ親子の大統領時代に一国至上主義によって、条約の実施が危ぶまれる事態となったことがあった。

父親のブッシュ大統領は産業経済界の意向を受けて、1992年に成立した「生物多様性条約」への署名を見送り、米国はいまだに条約に加盟していない。(詳細は本ブログ記事、「地球環境と一国至上主義(その2)  生物多様性条約と名古屋議定書をめぐって」参照)

息子のブッシュ大統領も大統領就任後わずか2か月で、地球温暖化防止のための「京都議定書」(1997年)から離脱表明した。(詳細は本ブログ記事、「地球環境と一国至上主義 (その1)  気候変動枠組条約と京都議定書をめぐって」参照)


自国を良くしたいと思うのは、誰でも同じだし、大事なことだ。
しかし、グローバル化した現代、自国だけに目を向けて満足するわけにはいかない。

地球環境問題はなおさらだ。

自分は犠牲を払わずに、その恩恵だけを得ようという人々、国々をフリー・ライダー(タダ乗り)という。

類似の用語に、NIMBYもある。こちらは、ごみ焼却施設などのように生活には不可欠だが、それが自分の近くに設置されるのには反対する態度を表している。英語の"Not in my back yard"(自分の裏庭は嫌だ)の略だ。

どちらも、利己主義であり、国レベルとなれば一国至上主義となる。

英国、米国の選挙も、そして日本の選挙も、争点は別のところにあるが、一国至上主義には陥らないように願いたい。

もっとも、自国の拡大・強大化を顕示して一国至上主義化しているのは、当面は選挙のない隣国・周辺国も同じだけれどもね。


【本ブログ内関連記事リンク】

アジサイとシーボルト  そしてプラントハンターと植物園

ABS論争も先送り 対立と妥協の生物多様性条約成立 -COP10の背景と課題(2)

名古屋議定書採択で閉幕 COPの成果 -COP10の背景と課題(3)

生物資源をめぐる国際攻防 -コロンブスからバイテクまで

地球環境と一国至上主義 (その1)  気候変動枠組条約と京都議定書をめぐって

地球環境と一国至上主義(その2)  生物多様性条約と名古屋議定書をめぐって

見返りを求める援助 求めない援助

地球温暖化「パリ協定」 なぜ今?に迫る -その1 条約採択と京都議定書

地球温暖化「パリ協定」 なぜ今?に迫る -その2 なぜ歴史的合意か

お天道様が見ている -公と私の環境倫理

選挙と生物多様性





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地球環境と一国至上主義 (その1)  気候変動枠組条約と京都議定書をめぐって [地球環境・環境倫理]

米国大統領選挙も、予備選挙が本格的に始まり熱を帯びてきた。果たして、今年(2016年)11月の大統領選挙では、民主党と共和党、どちらの大統領が誕生するのだろう。

政権が変われば、政策も変わるのは、どこの国も同じだ。
米国でも、かつて地球環境に関わる政策が大きく変わったことが何度かある。

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地球温暖化防止に一役買う風力発電のある風景
(ドイツ北部で列車車窓から)

その一つは、地球温暖化防止のための「京都議定書」をめぐる動きだ。
1997年に京都で開催された第3回気候変動枠組条約締約国会議(COP3)で採択された京都議定書は、条約の原則の一つの「共通だが差異のある責任」に基づき、先進国には温室効果ガスの削減を義務づける一方で、途上国にはその義務づけはなかった。

このため米国では、温室効果ガス削減に伴う投資などで製造価格が上昇し、削減義務のない中国やインドなど途上国の製品と太刀打ちできなくなる懸念から、「京都議定書は不公平だ」との声が産業経済界からあがった。

京都議定書採択当時の民主党クリントン政権は、後に地球温暖化を扱った「不都合な真実」でノーベル平和賞を受賞したアル・ゴアが副大統領だった。

しかし、ゴアと争って勝利した共和党のジョージ・W・ブッシュ大統領が2001年1月に大統領の座につくと、経済界をバックにした議会の圧力を受けて、その年の3月には京都議定書からの離脱を表明した。

政権が交代したとはいえ、大統領就任直後のあまりにも素早い政策転換だ。
当時、温室効果ガス排出量の国別第1位の米国が抜けたことで、京都議定書の発効と効果も危ぶまれた。

米国のことばかりは言っていられない。

昨年2015年の「パリ協定」が合意される以前、2012年に効力が切れる京都議定書後の枠組み(ポスト京都議定書)をめぐって世界の対立が深まり、2011年に南アフリカのダーバンで開催されたCOP17では、次善の策として京都議定書を延長することが提案された。

削減義務のない途上国はもちろん、EU諸国も京都議定書延長に賛成する中、日本は不参加を表明した。

理由は、米国が京都議定書を離脱した時と同様、不平等であり、すべての国が参加する枠組みでなければ認められないというものだ。
しかしその裏には、産業競争力が落ちるという懸念があるのは疑いないところだ。

日本で誕生した「京都議定書」に、議長国としていわば生みの親である日本が不参加を表明したのだ。

地球温暖化の防止のためには、すべての国の参加が必要で、自国だけが犠牲になるのはイヤだという、かつての米国の態度に現在の日本は丸写しだ。

もちろん、世界中に自国が犠牲になるのを良しとする国、為政者は少ない?領土、難民、経済・・・

地球環境問題では、地域や世代を超えた共生の思想が必要だと思うけれども・・・・


【本ブログ内関連記事リンク】

地球温暖化「パリ協定」 なぜ今?に迫る -その1 条約採択と京都議定書

地球温暖化「パリ協定」 なぜ今?に迫る -その2 なぜ歴史的合意か

地球温暖化防止をめぐる国際関係

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地球温暖化「パリ協定」 なぜ今?に迫る -その2 なぜ歴史的合意か [地球環境・環境倫理]

前回記事では、気候変動枠組条約と京都議定書をめぐる先進国と途上国の対立、そして米国の離脱を解説した。

今回は、京都議定書以降の交渉過程と「パリ協定」合意がなぜ“歴史的”と言われるのかに迫ってみる。

京都議定書は、当時の温室効果ガス国別排出量第1位の米国が議定書から離脱(2001年)し、また同第2位の中国、同第5位のインドは途上国として削減義務がないことなどから、その発効(2005年)当初から効果には疑問符が付かざるを得なかった。

削減義務を負う日本などもこれ以上の削減は無理であることから、資金援助や技術協力などによって他国の削減を実現すれば、その減少した排出量を自国の削減分としてカウントできる「京都メカニズム」が用意されていた。すなわち、共同実施(JI)、クリーン開発メカニズム(CDM)、排出権取引(ET)の3種で、さらに森林保全や植林による吸収源も削減実績にカウントされる制度となっていた。

これは、削減義務のない途上国の“実質的な”排出量を削減し、同時に日本など先進国の“形式的な、あるいは見かけ上の”削減目標を実現するという、両立の効果があった。

それでも日本などでは、実際の温室効果ガス排出量は増加する一方だった。

京都議定書に基づく削減の義務が生じる期間(第1約束期間)は2008年から2012年までの間であり、約束期間開始前から早くも京都議定書後(ポスト京都議定書)の削減の枠組み作りが模索された。

その後毎年開催されるCOPで議論が重ねられたが、たとえば2007年COP13(インドネシア・バリ島)では、「『2009年開催のCOP15までに合意する』ことが合意」(バリ・ロードマップ)されただけだ。

しかし、バリ・ロードマップで合意の期限とされた2009年COP15(デンマーク・コペンハーゲン)でも、新たな枠組みは合意されなかった。

2011年COP17(南アフリカ・ダーバン)では、「京都議定書」が2013年以降も継続されることになった。これには、削減義務を負わない途上国は賛成したが、そもそも参加していない米国はもとより、京都議定書のいわば生みの親でもある日本(それにカナダ)も不参加を表明した。

すべての排出国が参加する新たな枠組みの合意に失敗したCOPは再び、2013年のCOP19(ポーランド・ワルシャワ)で「次期枠組み(ポスト京都議定書)を2015年COP21で採択する」ことを合意した。

こうして先送りにされてきたポスト京都議定書が、2015年12月のCOP21(フランス・パリ)で「パリ協定」として合意された。

ここまでの経過説明がずいぶん長くなったが、それだけ途上国と先進国の対立(南北対立)が激しかったということだ。すなわち、途上国にとっては、温暖化は、産業革命以降の先進国の発展に伴うもので、その責任は先進・工業国が負うべきものとの強い認識がある。

この途上国の認識と南北対立の構図は、本ブログ記事でたびたび取り上げた「生物多様性」や「保護地域」をめぐる国際関係でも同様だ(下記の関連記事参照)。

その対立が解かれたのは、このまま温暖化が進むと、世界中で異常気象などによる国土の水没や食料減産、生態系消失といった危機が迫り、何らかの対策を講じないと人類の生存自体も危うくなると認識されたからだ。それだけ、切羽詰まった状況になっていることを世界中が認めざるを得ない現状ということだ。

国土水没の危機を抱える南太平洋諸国などの強い意向もあり、パリ協定では、世界の気温上昇を産業革命前から2度未満に、できれば1.5度以内となるよう努力することが合意された。人類活動による温室効果ガス排出量と森林などの吸収量とが均衡すること、すなわち排出を実質ゼロにすること、が今世紀後半までの長期目標となった。

そして、この目標達成のため、現在の温室効果ガス国別排出量第1位の中国、同第3位のインドなどのこれまで削減義務を負ってこなかった途上国、さらには京都議定書から離脱した同第2位の米国も含む“全ての排出国が参加”して、削減目標を作成・報告し、5年ごとに見直すことなどが義務化された。

拘束力のない自主的な削減目標の作成に留まるのか、義務を伴う削減目標制度とするのか、をめぐって長年の間、先進国と途上国間のみならず、先進国間でも対立があった。

しかし、これまで削減義務を負ってこなかった途上国も含めて“全ての国”が削減目標を立てて実行することが義務化されたことは、各国の自主的な削減量は別として、これまでなかった歴史的な点だ。

一方で、温暖化は先進国の責任とするインドなどの途上国の根強い主張を受けて、先進国による途上国の温暖化対策など資金への拠出も義務づけた。

こうして、実に18年ぶりとなる歴史的な枠組みが、196か国・地域の合意を得て誕生した。

地球温暖化の脅威が叫ばれていても、自国の産業・経済などを優先して、身近に迫らないと一致団結した対策にも合意できない。わかっちゃいるけど、止められない・・・ではない、まとまらない。

前回の京都議定書では、合意直後に米国が途上国との不公平を理由に離脱するなど、その実効性に赤信号がともったが、今回はその轍は踏まないでほしい。

世界各地での紛争やテロ、国内の安保法制制定、さらにTPPなど、地球温暖化だけでなく、この先の不安を懸念せざるを得ない今年だったが、「パリ協定」が合意されたことがせめてもの救いだ。

来年は、もっと明るい世界になって欲しいものだ。

今年も拙いブログにご訪問いただき、ありがとうございました。

皆様、良いお年をお迎えください。


【本ブログ内関連記事】

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地球温暖化「パリ協定」 なぜ今?に迫る -その1 条約採択と京都議定書 [地球環境・環境倫理]

2015年11月30日から12月12日までフランスのパリで開催されていたCOP21で、『パリ協定』が採択されて閉会した。

新聞各紙やTVニュースなどでも「歴史的合意」などと大きく取り上げられたが、なぜ今頃になって合意されたのか?なぜそれが歴史的なのか? その疑問に迫り、わかりやすく解説してみたい。

なお、COPとは条約などの締約国会議の英名Conference of the Partiesの略だ。COP21は、第21回締約国会議の略になる。
だから、地球温暖化の条約(下記)だけではなく、生物多様性条約など各条約にもCOPはある。

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↑は、COP21ではないが、生物多様性条約のCOP10会議場(2010年、名古屋)


地球温暖化は今更説明するまでもないが、人間活動によって排出された温室効果ガスの増大で地球表面温度が上昇するものだ。
原因となる温室効果ガスにはフロンやメタンもあるが、石炭や石油のような化石燃料の燃焼などから排出される二酸化炭素がその中心だ。

世界の専門家で構成される気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第5次報告書(2013年)によると、実際にこの100年間で世界の平均気温は0.7度上昇しており、このまま地球温暖化が進むと2100年頃には現在よりも、気温は2.6~4.8度程度上昇、海水面も26~81cm上昇する予測という。

なんだか温室効果ガスは悪者のようだが、名誉のため(?)に説明すると、地球を二酸化炭素などが取り巻いていないとすると、地表部の温度は零下18度となり、とても生物(少なくとも私たちが認識するような生きもの)は住める状態ではない。現在の世界の平均気温の15度に保つプラスマイナス33度が、温室効果ガスの効果だ。私たちが地球上に住むことができるのは、温室効果ガスのおかげということになる。

しかし、これ以上の地球温暖化が進むと、海水面の上昇やそれに伴う国土の水没、異常気象、生態系変化、農業漁業やレジャー産業などへの影響、熱帯性病虫害や伝染病などの蔓延、その他、水や食糧の不足などを含めて私たちの生活に大きな影響が出ると予測されている。

日本も例外ではない。最近の異常気象や高潮は温暖化の影響と推測されている。
世界的には、シリアの内戦などは温暖化による記録的な干ばつが引き金になったとの研究もあるほどだ。

これらの、いわば人類の滅亡へのシナリオを回避するため、世界が一致して温暖化を食い止めようとして合意されたのが「国連気候変動枠組条約」(1992年)だ。

条約を貫く大きな原則に、「共通だが差異のある責任」というものがある。
これは、条約交渉の過程で途上国からの主張を取り入れたものだ。現在の温暖化を招いたのは先進工業国が産業革命以来石炭・石油を大量消費してきた結果で、これから産業発展する途上国にまで足枷をはめるのは不公平、というのが途上国の主張だ。

条約交渉での先進国と途上国の対立(南北問題)は深刻だったが、「国連環境開発会議」が開催されて地球環境問題への国際的関心が高まった1992年を逃せば、この後いつ合意の機運が高まるか分からないとの焦りもあり、いわば妥協の産物でもある。

そして、この条約を具体的に推進するために1997年に京都で開催されたCOP3で採択されたのが『京都議定書』だ。

「京都議定書」では、2008年から2012年まで(第1約束期間)の温室効果ガス削減を先進国のみに義務付けた。ちなみに、削減目標は1990年比で、日本6%、米国7%、EU8%だった。

当時の温室効果ガス国別排出量では、米国が第1位であり、ついで中国、ロシア、日本、インドの順だった。

安い人件費などにより製造された中国製品の進出に危機を覚えていた米国の産業界は、温室効果ガス削減によるコスト高により、ますます中国製品が有利になるとして、米国議会に圧力をかけた。

議会の意向を受けて、当時のブッシュ大統領は、途上国に削減義務がないのは不公平だ、として京都議定書からの離脱を宣言した(2001年)。つまり、この時点で米国は削減義務を負わなくなったのだ。

地球温暖化を扱った「不都合な真実」の著者でノーベル平和賞も受賞したアル・ゴア副大統領を擁した民主党のクリントン政権から、共和党のブッシュ政権に移行した途端の出来事だった。

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火力発電からの二酸化炭素を削減する風力発電の大風車群
(米国カリフォルニア州にて2002年)


日本を含め京都議定書を批准した各先進国でも、温室効果ガス濃度は削減目標には届かず、むしろ増加してしまった。

そうこうしているうちに、温室効果ガスの国別排出量で世界第2位だった中国が、米国を抜いて世界1位に躍り出た。

中国の1位の座は、現在までゆるぎないものとなった。

大国の力自慢を争っている感のある米中両国だが、こんなところで張り合ってもらいたくないものだ。

 
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(地球温暖化関係)

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 『生物多様性と保護地域の国際関係 対立から共生へ』出版2 ―第Ⅱ部 国立公園・自然保護地域をめぐる国際関係 

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人間になったオランウータン [地球環境・環境倫理]

 人間になったオランウータンの話。といっても、ジャングルに生息しているオランウータンがいつのまにか人間に変化したという、進化論やホラー映画のような話ではない。

 話の主は、サンドラという28歳の雌のオランウータンで、住んでいるのところは、アルゼンチンのブエノスアイレスの動物園。1986年にドイツの動物園で生まれて、94年にアルゼンチンに移ってきたが、生まれてからこの方ずっとオリの中の生活だ。

 このサンドラに対して、アルゼンチンの裁判所は2014年12月19日、オランウータンにも人間と同じ基本的な権利が認められるとして、動物園から解放して自然に戻すように命じる判決を出した。3人の裁判官の全員一致の判決だったという。

 日本では、12月24日の新聞各紙やテレビニュースなどで報じられた。もっと早くにこの話題を取り上げたかったが、なかなか時間が無くて・・・・

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熱帯林でのオランウータン
(グヌン・ルーサー国立公園(インドネシア・スマトラ島)にて)

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オランウータンの生息する森林は、アブラヤシのプランテーション開発で消失
(グヌン・ハリムン・サラック国立公園(インドネシア・ジャワ島)隣接地にて)

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アブラヤシの回収(マレーシア・パソにて)

ヤシ油のためのプランテーション開発による生息地破壊だけではなく、ペットとしても捕獲される


 「動物の権利」といえば、環境倫理学などの世界では、オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーの「動物解放論」やノルウェーの哲学者アルネ・ネスが提唱した「ディープ・エコロジー」などが有名だ。また、世界各地で開発に伴う生息地破壊などを阻止するための「動物の権利(自然の権利)裁判」(自然権訴訟)も提起されている。

 それぞれの概念には膨大な論文が提出されていて、概略を述べるのも難しいが、誤解を怖れずに簡略に説明すれば、次のようになる。

 動物解放論は、動物園の展示物や実験動物、家畜などとして人類に奉仕し、犠牲となっている動物の権利を認めて、解放すべきというものだ。今回のサンドラに対する判決も、この論の延長上にあるものではないだろうか。

 ディープ・エコロジーは、人間の利益(自然資源確保など)や人類の存続(酸素や水供給など)のための自然保護・環境保全ではなく、自然・生物にはそれを超越した固有の、内在的な価値があり、存在する権利があるというものだ。すなわち、保全対象・必要性は人間の価値観で決めるべきではなく、あらゆるものが保全され、存続されるべきものということになる。

 自然の権利裁判(自然権訴訟)は、自然物(主として動物)が原告となり、その生息地などの開発の適否を争うもので、米国などで訴訟が始まった。日本でもアマミノクロウサギを原告とする奄美大島のゴルフ場開発反対運動の訴訟をはじめ、オオヒシクイの茨城県圏央道、ナキウサギの大雪山士幌高原道路などの開発に対する訴訟があるが、いずれも、当事者適格(原告となる資格)の点から却下されている。

 一方で、沖縄普天間基地移転事業では、米国での裁判でジュゴンが原告団の一員となっており、2008年には原告側勝訴の判決も出ており、その判決の行方に注視したい。

 ただし、ここでの「動物の権利」は、ペットなどのアニマル・ライツとは少々異なる。

 自然保護の必要性としては、食料、医薬品など人間生活に必要な資源(自然資源)としてのアプローチがわかりやすい。そして次には、酸素や水の提供など生存基盤としても重要だとするアプローチだ。

 しかし、これらはいずれも人間の側からの利己的・一方的な考えであり、前述のネスに言わせれば、シャロー(表面的な)・エコロジーであり、もっと根源的な思想(ディープ・エコロジー)が必要だということだ。

 生物多様性保全(自然保護)のための途上国援助なども、石油と同じように医薬品などの原材料を確保するための「見返りを求める援助」では、まさにシャロー・エコロジーということだ。(前回ブログ記事「見返りを求める援助 求めない援助」参照)

 欧米ではかつて、米国の科学史家リン・ホワイト・Jrが指摘するようにキリスト教思想の影響もあって、自然の支配者として自然の上位に君臨する考えが優位だった。

 一方日本では、「一寸の虫にも五分の魂」あるいは「山川草木悉皆成仏」などの言葉にも示されるように自然の一員として生活してきた長い体験がある。

 米国の環境思想家ロデリック・ナッシュが指摘する自然の支配者から自然の一員への変化を、日本では当の昔から実践してきたということだ。しかし、近年はそれも怪しくなってきた。

 私は、著作(『生物多様性と保護地域の国際関係 対立から共生へ』明石書店)で、これからの生物多様性のあり方として「三つの共生」を提唱し、その一つとして「種類を超えた共生」を提示した。すなわち、人類だけではなく、あらゆる生物との共生だが、実際の政策などの場面ではついつい“見返り”も考えてしまう・・・。まだまだ超越していない自分の姿がそこにある。

 インドネシア語(マレー語)で「森の人」を意味するオランウータン。その姿を見ていると、いつしか人間と同じ生活をするようになるのでは、とも思ってしまう。「猿の惑星」ではないけどね~

 【ブログ内関連記事】

オランウータンとの遭遇 エコツーリズム、リハビリ、ノアの方舟 -国立公園 人と自然(番外編8)グヌン・ルーサー国立公園(インドネシア)

見返りを求める援助 求めない援助

インドネシアの生物多様性と開発援助 -『生物多様性と保護地域の国際関係 対立から共生へ』出版3

熱帯林の消滅 -野生生物の宝庫・ボルネオ島と日本

対立を超えて -『生物多様性と保護地域の国際関係 対立から共生へ』出版4

インドネシアで蚊の絶滅について考える -生物多様性の倫理学

【拙著出版案内  重版決定!! 好評発売中】

生物多様性カバー (表).JPG世界は自然保護でなぜ対立するのか。スパイスの大航海時代から遺伝子組換えの現代までを見据えて、生物多様性や保護地域と私たちの生活をわかりやすく解説。
生物多様性の必要性や三つの共生なども。

 本ブログ記事も多数掲載。豊富な写真は、すべて筆者の撮影。

 高橋進 著 『生物多様性と保護地域の国際関係 対立から共生へ』 明石書店刊 2014年3月

 目次、概要などは、アマゾン、紀伊国屋、丸善その他書店のWEBなどの本書案内をご参照ください。

 


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海辺のバーベキュー そのあとで [地球環境・環境倫理]

 うだるような暑さの続く毎日、夏休みに入ったこんな時には山や海に出かける人も多いだろう。居宅近くの海岸にも連日多くの人が押しかけ、お蔭で今年の海の家はホクホク顔だろう。
   s-海岸バーベキュー2DSC03452.jpg  s-海岸バーベキュー3DSC03455.jpg
      海岸でのバーベキュー           テント持込も多い

 最近は、海の家は利用しないで、仲間や家族でバーベキューを楽しむ人たちも多い。ギターやボンゴなどの楽器で盛り上がっているグループもある。日除けにテントを持ち込んでいるグループもある。そもそもバーベキューの道具も、登山の飯盒炊さんキャンプの頃と比べれば、ずいぶん改良され、大型になってきた。

 これも車で運搬できるからだろう。大量に食材も搬入できる分、バーベキューを楽しんだあとには大量の食べ残しやごみが出る。最近はマナーもよくなって、ゴミをそのまま放置するグループは少ない。ビニール袋に入れて片付ける。

 しかし、持ち帰るのは自分の車や自宅までではない。近くのゴミ箱までだ。かなり大型のゴミ箱だが、それでも入りきれないゴミは周囲に積み上げられている。
  s-海岸バーベキュー4DSC03457.jpg  s-海岸バーベキューゴミIMG_0137.jpg
   ゴミ持ち帰りを訴える市の看板    ゴミ箱に入りきらずに積み上げられたゴミ

 そのゴミは誰が片づけるのだろうか。ゴミ箱が設置されているのだから、当然誰かが片づけてくれるに違いない。そう、地元の自治体が住民の税金で処理しているのだ。

 各地の観光地では、観光客が出した大量ゴミを住民の税金で処理しなければならず、財政を圧迫している。地元も観光収入で潤うのだから、それくらいの負担は当然と考えることもできるが、観光との関わり(観光従事者数、観光収入などの地元に占める割合)の小さい地域では大変だ。

 バブルの時代には、風光明媚な高原地域や海岸地域にリゾートマンションが続々と建設された。マンション所有者は、週末に利用するだけだから住民登録せずに住民税も払わない。そんな外来者のために、ゴミ処理や上下水道の費用を住民が負担しなければならず、地元では悲鳴をあげたことがあった。神奈川県真鶴町などでは、景観保全と費用負担の軽減のため、「まちづくり条例」などでリゾートマンション建設を制限しようとしたこともある。

 国立公園でも、ゴミ問題は長年の課題だ。その典型が、このブログでも紹介した尾瀬や富士山などだ。s-ゴミ持ち帰り運動DSC00991.jpg(写真は、尾瀬のゴミ持ち帰り運動)

 山野に散らかるゴミのためにゴミ箱を増やしても、かえってその周辺にゴミが散乱したり、山奥のゴミ箱に溜まったゴミを麓に降ろすだけでも大変だ。そこで尾瀬などでは、ゴミ箱を撤去して、できれば家まで、少なくとも麓まで持ち帰ってもらう「ゴミ持ち帰り運動」が提唱されてきた。

 利用者は、ゴミをゴミ箱に捨てれば、それでおしまい。むしろ良いことをしたと満足する人もいるかもしれない。しかし、ゴミ箱に捨てられて、それで終わりではない。ゴミの回収や処分までも考えてほしい。

 このことは、国立公園や観光地のゴミだけではない。私たちの日常生活で生じるゴミや不用品も同様だ。かつて企業は作って売るだけで、ゴミとなった不用品の回収・処分は自治体任せ、結局は公共の税金を投入していたのだ。

 これが2000年代から、ビン・カンやペットボトルを対象とした「容器包装リサイクル法」や冷蔵庫、テレビなどの「家電リサイクル法」、さらには「自家用車リサイクル法」などが次々と施行され、製造から廃棄、処理まで企業は一貫して責任を持つ方針に変更された。企業の製造者責任であるとともに、私たち利用者・受益者負担でもある。

 安い電気として推進されてきた原子力発電も、核燃料の処分や発電所自体の廃炉などの費用を考えると、決して安い電気とは言えないだろう。ゴミ処理に目をつむり、企業負担ではなく、税金をあてにするのでは、かつての家電などと同じだ。

 最終的な廃棄物処理費用まで算定すると、決して安いものになならないと思う。それが結局は、利用者負担として跳ね返ってくるのだ。初めからわかっていたことではあるが。


 【ブログ内関連記事】
 
 「お天道様が見ている -公と私の環境倫理
 「お天道さまが見ている(2) -見ぬもの清し ポイ捨ての美学
 「やはり気になる『塀の上の空き缶』

 「自然保護の原点 古くて新しい憧れの国立公園 -国立公園 人と自然(19)尾瀬国立公園
 「富士山入山料 -国立公園の入園料と利用者数制限


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やはり気になる「塀の上の空き缶」 [地球環境・環境倫理]

 何度も見慣れた光景だが、やはり塀の上に整然と置かれた空き缶(あるいは紙パック)は気になる。先週、散歩に出た際にも目に留まり、このブログの子ブログ「人と自然 ぱあと2」でも取り上げた。その後も気になってしょうがないので、より読者の多い本ブログでも再度取り上げたい。

  s-飲み干し01220.jpg仕事柄、休日でも家で机に向かう時間が長くなる。そこで、気分転換とメタボ予防のために散歩に出かけた。その途中、またもや“あの光景”を見つけてしまったのだ。塀の上の飲み干した飲料水の紙パック。それも仲良く二つ並べて。

  以前からよく見かける光景で、気になっている。置いたご本人(おそらく、二人)は、ゴミを散らかさずに良いことをしたつもりなのだろう。でも、塀の上に置いてあってもゴミはゴミだ。誰かが片づけなければならない。結局は、処理の人任せに過ぎない。自分だけ良い気分になっても、責任を他者に転嫁しただけではないのか。

  歩きタバコの吸い殻を道路側溝に捨てるのも同じだ。ゴミ箱に捨てた気になっているが、結局は排水処理、あるいは海にまで負荷をかけることには違いない。

  自分の目の前のゴミにしか目が届かないのは、原発も同じでは? 「原子力発電が一番安上がり」とはいっても、それは使用済み核燃料の廃棄などの費用を考えない場合であり、ましてや事故は起きない前提だからその対策や損害賠償までは組み込まれていないことは、今や国民周知の事実だ。

 飲み干し飲料水の容器も原発も、結局自分で処分をせずに、他者に任せる点では同根だろう。距離的にも、時間的にも、近視眼でしか見ることができないということだ。散歩をしながら、考え込んでしまった。そして、1週間後までも気になって、こうしてブログにアップしている。

 「坂の上の雲」ならぬ、「塀の上のカン」はどうもいただけない。

 (写真)塀の上に置かれた飲み干し飲料水の紙パック

 (関連ブログ記事)
 「お天道様が見ている(2) -見ぬもの清し ポイ捨ての美学
 「お天道様が見ている -公と私の環境倫理


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インドネシアで蚊の絶滅について考える -生物多様性の倫理学 [地球環境・環境倫理]

 研究調査でインドネシアに滞在している。熱帯の夜、寝付かれない中で“少し真面目”に蚊を殺すことについて考えてみよう。

 熱帯途上国滞在で恐ろしいものの一つに伝染性疾患がある。赤痢、マラリア、デング熱などで九死に一生を得た人を何人も知っている。大げさではなく、本当に「九死に一生」なのだ。マラリア汚染地帯はインドネシアでもずいぶん少なくなってきたが、デング熱は首都ジャカルタでもしばしば流行する。マラリアもデング熱も、蚊の媒介によって広まる。地球温暖化の影響の一つに、こうした熱帯性の昆虫の生息域拡大に伴う熱帯伝染病の蔓延があげられるほどだ。そうでなくとも、蚊に刺されるのは不快なものだ。

 s-蚊取りラケットDSC00378.jpgそこで活躍するのが「蚊取りラケット」だ。ネットに蚊を捕らえて感電死させる代物だ。感電死などと生易しいものではなく、焼き殺す感じだ。最近は日本でも見かけるようになってきたが、15年前にインドネシアに赴任した際には、長年滞在していた日本人から教えてもらって重宝した。なんでもその人は、一時帰国の際にはお土産に持ち帰って喜ばれたそうだ。

 ところで、マラリアやデング熱の撲滅のためには、媒介する蚊の駆除が必要だが、人間の都合で絶滅させても良いものだろうか。“害虫”や“雑草”などは、人間が勝手に分類したものだ。害虫だろうと益虫だろうと、それぞれの生物は子孫を残そうと必死になって生きている。

 米国のリン・ホワイトJR.は、キリスト教聖書の創世記に自然・生物は神が人間のために創ったものと記されており、これが近代の自然破壊にもつながったと指摘している(「機械と神 -生態学的危機の歴史的根源」1972年みすず書房)。近年には、ディープ・エコロジー運動など、人類以外の生物種にもそれぞれ独自に、人類の生存や要求から独立して、繁栄する価値と権利を有する、とする考え方が台頭してきた。これを環境倫理学などでは「人間中心主義」から「生命中心主義」への移行としている。

 生物多様性の面からも、蚊の幼虫ボウフラはヤゴや稚魚の餌になるし、成虫もトンボ、鳥やヤモリ、カエルなどの餌になる。つまり、生態系を支えているのだ。生物資源利用の面からも、蚊の唾液に含まれる血液凝固を阻止する物質からは、脳卒中や脳梗塞のための抗血栓薬などが開発されているという。

 こうしてみると、いくら病原菌を媒介し、不快な思いをさせる蚊といえども、むやみに絶滅させるわけにはいかないのではと思い始める。日本では昔から「一寸の虫にも五分の魂」として小さな虫の生命力も認めている。あるいは仏教思想の影響で「悉皆成仏」などの言葉もある。

 「熱帯夜」自体は決して日本のように寝苦しくはないが、特に地方でのホテルや民家の宿泊では蚊の襲来に悩まされる。部屋の蚊を“絶滅”させるまでの間、このような思いを馳せていると寝不足になる。なにしろ、プアサ(断食)中は、人々は夜明け前から動き出す。(注:断食月中は、夜明けから日没までの間(厳密には宗教省が発表)は、一切の飲食ができないため、夜明け前に朝食をとるのだ。)

 (写真) 熱帯の夜の必需品(?)蚊取りラケット(下)と抱き枕(上)

 (関連ブログ記事) 「インドネシア通信事情 -ブログ未更新言い訳」、「インドネシアから帰国 -流れる時間」、「生物多様性国家戦略 -絵に描いた餅に終わらせないために」、「国際生物多様性年と名古屋COP10」、「インドネシア生物多様性プロジェクト1」、「生物資源をめぐる国際攻防 -コロンブスからバイテクまで
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お天道さまが見ている(2) -見ぬもの清し ポイ捨ての美学 [地球環境・環境倫理]

 朝の通勤時に、駅前で必ず目にするのがタバコ吸い殻のポイ捨てだ。最近は駅構内が禁煙なので、入場前に捨てるらしい。路上に捨てるのはさすがに気になるようだ。そこで、わざわざ急ぎ足を止めて、側溝のふたの穴に吸い殻を捨てている。ご本人は、「路上ポイ捨てではありませんよ。ちゃんときれいになるように捨てていますよ。」との意識のようだ。確かに側溝に入れば、路上からは見えない。一見、ゴミを屑かごに入れたのと同じで、きれいに片づけた気がする。

 s-ポイ捨て3306.jpgでも考えてほしい。道路側溝は、道路が冠水しないように、路上の雨水を集めて河川に放流するためのものだ。そこにタバコの吸い殻を捨てれば、そのまま河川に流れ出て行く。昔のようにタバコの葉と紙だけの両切りタバコの時代ならまだしも、今のタバコのフィルターはセルロース・アセテートと化成ポリマーというプラスチックの一種でできているから、分解するのに早くて1年、時には数年かかるという。そのフィルターによって、河川や海が汚れるだけではない。側溝が詰まれば、雨水の排水能力が低下して、集中豪雨の時などには洪水を引き起こすこともある。パリなど欧米の都市では、道路に定期的に水を流して落ち葉やゴミを側溝に洗い流す方式を見かけることがある。でも欧米の下水溝は、小説や映画の舞台としてもおなじみのドでかいものだ。

 同じような現象を国立公園レンジャーの勤務時代にもよく目にした。国立公園では、利用者の増加に伴うゴミ問題に対処するため、尾瀬や大雪山などをはじめ各地で「ゴミ持ち帰り運動」を始めた。それまではゴミ箱を増やすことに力を注いでいたのだが、かえってゴミ箱の周囲にゴミが散乱する。これは、観光客がきちんと中に入れずに、近くから投げ入れて失敗したものだ。また、カラスなどがせっかく入れたゴミをゴミ箱から引き出すこともある。ふたなどをつけて対策を講じるが、今度は人間の方がふたを開けてゴミを捨てるのを面倒くさがる。集落から離れたところでは、ゴミ箱に溜まったゴミを回収する手間(金額も)も大変だ。それなら、いっそのことゴミ箱は撤去して、利用者にゴミを持ち帰ってもらおう、ということで「ゴミ持ち帰り運動」が始まった。決して利用者にゴミ処理を押し付けるだけではない。その代りの徹底したゴミ拾いも必要だ。

 ところが、ゴミを持ちかえるのが面倒な人も多い。といって、きれいなゴミ一つない自然の中にゴミを捨てるのは、さすがに気が引ける。そこで、岩の割れ目や木の根の隙間に、ゴミを入れる人が後を絶たない。ちょっと見には、ゴミは散らかっていない。しかし、隙間に入れられたゴミは、後で回収するのも大変だ。プラスチック系のゴミが多いため、分解もせず残ったままだ。

 そういえば、南関東地区自然保護事務所(当時)所長として富士山のトイレ問題にかかわっていた時にも、こんなことがあった。富士山頂の汲み取りトイレのし尿垂れ流しが問題になり、地元関係者が実験的に汚物を麓に搬送することになった。そこで、荷物運搬用のブルドーザーにバキュームカーを積んで山頂まで上げて、汲み取り便所の汚物を吸引した。すると、度々バキュームのホースが詰まって、作業が中断した。何と吸引されたものには、菓子などのプラスチック袋や空き缶、ペットボトル、コンビニの弁当箱、さらにはビニール・レインコートから下着まで、ありとあらゆるものが出てきた。汲み取り便所も、ゴミ箱と同じと考えているらしい。

 確かに昔の汲み取り便所では、使用する紙も新聞紙や広告紙だった。生活用品が自然の素材に依拠していた時代には、便所に捨てても、あるいは路上や川に捨てても、すぐに分解してきれいになった。しかし今や時代が違う。それでも、なぜか意識は変わらない。年寄りが昔の生活習慣のままゴミをポイ捨てしているのでもない。昔の習慣など知らないはずの若い人たちも、同じような行動をしているのだ。大人の行動を見て育った結果だろうか。水洗便所になった今日でも、汲み取り便所の時代そのまま、吸い殻やガムをはじめ異物を流して、便所が詰まることが多発している。どこのトイレにも、「備え付けの紙以外は流さないでください」との貼り紙がある。家庭のトイレでは、異物を流すこともないだろうに。

 若者の行動といえば、もう一つ奇妙なことがある。飲み干した飲料水などの空き缶やペットボトルが、通りがかりの民家の塀の上などに置いてあるのをしばしば目にする。回収用のゴミ箱までは距離がある。といって、路上に捨てるのは気が引ける。そこで塀の上、ということだろうか。本人は、ゴミを散乱させずに、良い事でもしたと思っているのだろうか。でも、その空き缶やペットボトルを片付けるのは、結局は置かれた塀の民家の住人だ。つまり、ゴミ処理を他人に押し付けていることになる。

 人が少なく、生活に自然素材を使用していた時代には、「三尺流れれば水清し」の言葉のとおり、ポイ捨ても自然の浄化作用が解決してくれた。しかし、生活様式もずいぶん変わった。ことは、環境上の支障があるかどうかだけではない。視界にさえ入らなければ別に問題ではない、というのはおかしいと思う。いわば、臭いものにはふた、の考え方だ。おまけに、どうも本人は、「ポイ捨てはせずにちゃんと片付けた」とでも思っているようだ。むしろその意識のほうが問題だ。側溝に捨てられた吸い殻、岩の割れ目にねじ込まれた空き缶、塀の上に置かれたペットボトル、それらの行く末、あるいは誰がそれらを片付けるのか、そこまで思いを巡らせてほしい。ポイ捨てはポイ捨て。そこに”美学”などは存在しない。自分の家ではしないようなことは、公共の場でもしないでほしい。他人が見ていなくとも、お天道さまは見ている。ポイ捨てなどが昔の行動様式の名残なら、それはやめにして、「お天道さまは見ている」を復活してほしい。

 (写真) 側溝のポイ捨て吸い殻(通勤途上の駅前で)

 (関連ブログ記事) 「お天道さまが見ている -公と私の環境倫理」  「物質と便利さを求める若者気質と自己表明」 「環境都市宣言とグローカルについて考える -春日部市環境都市宣言発表セレモニー


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環境都市宣言とグローカルについて考える -春日部市環境都市宣言発表セレモニー [地球環境・環境倫理]

 6月7日、春日部市の「環境都市宣言」発表セレモニーに出席した。地元の共栄大学で環境問題を講義していることから、市環境審議会会長を仰せつかっている。市長さん、市議会議長さんの挨拶のあと、審議会会長として挨拶をした。与えられた時間は10分程度。通常の挨拶よりは長めだが、宣言について解説するほどの時間はない。そこで、宣言の位置づけ、最近の環境問題の背景、宣言の要点など、ごく簡単に述べるにとどまった。

 今回の「環境都市宣言」など、多くの自治体で様々な宣言が発表されているが、それに安心してはいけない。宣言で環境問題が解決し、市内の環境が良くなるわけではない。むしろ、宣言は環境問題に取り組むスタートである。大学でのアンケートでも、世論調査でも、環境問題で一番の関心事は何と言っても、地球温暖化である。 現在、ポスト京都議定書に向けて各国で取り組み方を模索している。日本では、温室効果ガスの削減目標について経済派と環境派の対立と報道されているが、残念である。世界は、米国オバマ大統領のグリーンニューディール政策など、不況を乗り切る経済政策と環境対策の両立を目指している。日本では、すでにこれまで削減に努力をして、これ以上の削減は限界との意識が強い。それでも、つい先日(6月10日)、麻生首相が、それまでの経済界の要望(主張)を上回る温室効果ガスの削減目標を発表した。2020年までの排出量を05年比で15%削減(90年比で8%減)するというものだ。これは、多分に世界で環境問題のリーダーシップを取りたいという、政治的な背景からだろう。いずれにしろ、温暖化に真剣に対応しなければ、経済発展どころではなくなる恐れもある。

 地球環境問題は、どこか遠いところの問題ではなく、私たちにも直接関係ある問題だ。影響を受ける被害者であると同時に、加害者にもなり得るのだ。その意味では、国際社会でも、今や先進国だ、途上国だと、言い張っている段階ではないだろう。等しく、協力しなければならない。このことは、地球温暖化だけではない。これまで、このブログでも紹介してきたとおり、たとえば日本人が日常何気なく口にしているエビてんぷらやスナック菓子、あるいは住宅建材や紙パルプなどのために、東南アジアの熱帯林をはじめ、世界の森林、生物多様性が減少している(熱帯林の消滅)。

  春日部市環境都市宣言は、前文と3つの宣言からなる。宣言1は、自然との共生だ。春日部市は、首都圏のベッドタウンでもあるが、まだまだ田園地帯や雑木林も残っている。今の季節は、田に水がはられ、植えられて間もないイネの緑、そこに飛来するシラサギ、声を競うかのようなカエルなど、自然と生命の息吹を感じさせる。しかし、この自然や緑も、市内全域の緑地率は高くとも地域によっては低く、意識的に残す努力をしないと、気がつかないうちに消滅する恐れもある。宣言2は、低炭素社会。便利で快適な生活だが、これが地球温暖化などの原因となっていることも事実である。循環型社会だったと言われている江戸のまちの生活に戻るわけにはいかないが、つい最近まで多くの日本人が培ってきた「もったいない」の精神で、現代の生活様式を見直す必要はあるだろう。ノーベル平和賞を受賞(2004年)したワンガリ・マータイさんに言われるまでもないのではないだろうか。宣言3は、積極的な行動だ。行政、企業、市民が一体となって取り組むことが重要だ。環境問題の現状を知り、防止や改善のために、何ができるか、何をすべきかを一緒になって考え、行動することが必要だ。人任せにはできない。一人ひとりの行動参加が求められている。

 最近よく「グローカル」という言葉を耳にするようになった。これは、地球規模のグローバルと、地域のローカルの合成語だ。今や環境問題は、国際的な経済や政治を巻き込んだ、まさに地球規模の問題であると同時に、市民一人一人の協力がなければ解決できない地域の問題でもある。かつて頻繁に使用された、"Think globally, Act locally"の標語のとおりだ。「ちりも積もれば、山となる」という言葉もある。 一人ひとり、日常生活での積み重ねがいかに重要か。そして、私としては環境問題を考えた市民の行動に、ブログでも紹介した「お天道さまが見ている」を加えたい。


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お天道様が見ている -公と私の環境倫理 [地球環境・環境倫理]

 その昔、私が国立公園のレンジャー(管理官)をしていたときの話だ。場所は北海道、マリモで有名な阿寒湖である。北の大地の短い夏季シーズンの夕方、昼間の喧騒が嘘のような広い駐車場の中央にポツンと置かれている黒いものに目が行った。近寄ってみるとそれは靴であった。どうして真新しい靴が駐車場の真ん中に揃えて捨てられているのか、不思議だった。その後だいぶ経ってから、その理由らしきものに思い当たった。自家用車の車内をきれいに飾り、泥を持ち込まないように靴を脱いで乗る人が案外多い。そのまま車は走り去ってしまい、残されたのがどうやら駐車場に置かれていた靴の正体ではないかと。

 そこまで車内をきれいにする人に限って、信号待ちなどのときに、灰皿にたまった吸殻を窓から捨てたりする。そこには、公共用地だから誰かが掃除をしてくれるだろう、少しくらい捨てても自然にきれいになるだろう、といった甘えがあるのではないだろうか。確かに河川や森林には、汚排水やゴミなども分解する能力がある。ゴミの量が少なく、内容も紙など自然素材のものだけのうちは、自然の自浄作用だけでも十分だった。しかし今や量も質も自然の浄化能力を大きく上回っている。また、公衆道徳の欠如を嘆く人も多い。

 日本では欧米に比べて公徳心がないとよく言われる。欧米の家庭に比して庭や窓が塀によって道路と分断されている日本の家屋、かつて笑い話にもなった日本人観光客のホテル廊下でのステテコ姿など、空間意識や「公」と「私」そのものを巡る文化はずいぶん違う。この辺も、日本人の公徳心欠如の原因の一つかもしれない。しかし、日本人が昔から公徳心が欠如していたわけではないだろう。「お天道様が見ている」ことで他人の目がなくともやたらにゴミを捨てたりしなかった。一方、欧米でも自分勝手な人がいるのは確かだろう。

 地域社会に不可欠なゴミ焼却場。その必要性は誰もが理解するが、いざ自分の家の近隣に建設されるとなると反対する。欧米ではNIMBY(ニンビィ)というが、これは「自分の家の裏庭に来るのは反対」の意味の頭文字だ。四季折々の装いを見せ、町に潤いをもたらす並木や巨木も、その近くの住民にとっては日陰、落ち葉、害虫など迷惑な面もある。これも、総論賛成、各論反対の典型的な例だ。こうした公と私の問題や利己主義ともとれるような問題は、現在では単に公衆道徳の問題として片付けることはできない。恩恵を受ける広汎な地域社会の人々が、協働で落ち葉掃除などを分担することも必要だ。s-雑木林ゴミ看板.jpg

 春日部市など武蔵野の雑木林は、かつては薪炭林として利用されていた。それが生活の変化と共に薪炭林用途がなくなり、関心が薄れていった。関心がなくなると、ゴミなどが捨てられても誰も気にしない。河川や鎮守の森も同様だ。そこが散歩道として整備開放されて、地域の人々は自発的に清掃などを行うようになった例もある。自然環境保全には、現代流の新たな価値を付加して、地域の人々に関心と誇りを持ってもらうことが重要だ。

 (写真) 雑木林のゴミ捨て禁止看板(春日部市内で)

(この記事は、2005年2月 タウンねっと NO.12 に掲載されたものです。)

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地球温暖化防止をめぐる国際関係 [地球環境・環境倫理]

 最近は、毎年のように国内や世界各地で異常気象が相次いでいる。誰もが地球温暖化の影響を疑うに違いない。しかし、1997年に京都で採択された温暖化防止のための世界の取り決めである「京都議定書」は、今年(2008年)から発効したばかりというのにすでにその実現は絶望的だ。このため、2007年12月にインドネシアのバリ島で開催された地球変動枠組み条約第13回締約国会議(COP13)では、京都議定書に代わる2013年以降の温室効果ガス削減の枠組み作りのための「バリ・ロードマップ」が採択された。2008年7月開催予定の北海道洞爺湖サミットでも、環境問題、特に地球温暖化防止についての議論が中心になるようだ。福田首相の最近の演説でも、温室効果ガス削減方針、そのための国内での「環境税」導入などがニュースとしてたびたび登場してきた。今回はこの地球温暖化防止を巡る世界の動きが話題だ。

 これまでこのブログでは、食料や薬品の原材料(生物資源)を巡る世界各国の動き、特に先進国と発展途上国の対立-南北問題-や米国の一国主義、さらに何気ない私たちの生活が東南アジアなどの自然を破壊していることなどを取り上げた。実は地球温暖化問題においても、これと同じような構図がある。

 温暖化を防止するには、その原因となる二酸化炭素など温室効果ガスの排出を抑制する必要がある。つまり、自動車や冷暖房などの使用を控え、産業を含めた社会生活全体でのエネルギー消費を少なくすることが求められる。こうなると、途上国の国々は、温暖化防止のためにこれからの経済発展が抑制されるのではないかと疑心暗鬼になる。温暖化がこんなに進んだのは、先進諸国が工業化などを進めた結果なのに、そのつけを途上国に負わせるのはけしからん、というわけだ。s-風力発電風車群.jpg

 先進国でも産業経済への影響を考えて反対の声は根強い。米国ブッシュ大統領はついに、グローバル化を進める産業界の声に押されて、2001年に京都議定書からの離脱を宣言した。世界をリードしてきた米国が、「一抜けた」と去ってしまったショックは、欧州や日本など京都議定書を実現しようとしてきた国々を落胆させた。京都議定書の発効が危ぶまれるなか、米国と同様に仲間入りを渋ってきたロシアが2004年11月に議定書を批准して、やっと議定書が動き出して世界は少しホッとしている。

 日本国内でも事情は同じだ。京都議定書は、1997年に京都で開催された条約第3回締約国会議(COP3)で、日本が議長国となって決定した。その実現は日本の悲願だ。しかし、日本はそこで約束した温室効果ガス排出量などの基準をとっくにオーバーしてしまっている。二酸化炭素など温室効果ガスの原因となる石油などの消費抑制を目指した環境税にも、産業界などからの抵抗がある。最近の夏のような猛暑ではエアコンも必需品で、国民も大量エネルギー消費、大量廃棄型の便利で快適な生活からはなかなか抜け出せない。頭では分かっていても、なかなか行動には移せない。

 環境問題には、このように政治や経済が反映され、さらには国や地域の歴史文化も反映される。そこからは個人の生き様までも見えてくる。

 (写真) 温暖化防止にも一役買う風力発電の風車群(米国・カリフォルニアにて)

(この記事は、2005年1月 タウンねっと No.11 に掲載されたものを現在の情勢に合わせて修正加筆したものです)

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