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お天道さまが見ている(2) -見ぬもの清し ポイ捨ての美学 [地球環境・環境倫理]

 朝の通勤時に、駅前で必ず目にするのがタバコ吸い殻のポイ捨てだ。最近は駅構内が禁煙なので、入場前に捨てるらしい。路上に捨てるのはさすがに気になるようだ。そこで、わざわざ急ぎ足を止めて、側溝のふたの穴に吸い殻を捨てている。ご本人は、「路上ポイ捨てではありませんよ。ちゃんときれいになるように捨てていますよ。」との意識のようだ。確かに側溝に入れば、路上からは見えない。一見、ゴミを屑かごに入れたのと同じで、きれいに片づけた気がする。

 s-ポイ捨て3306.jpgでも考えてほしい。道路側溝は、道路が冠水しないように、路上の雨水を集めて河川に放流するためのものだ。そこにタバコの吸い殻を捨てれば、そのまま河川に流れ出て行く。昔のようにタバコの葉と紙だけの両切りタバコの時代ならまだしも、今のタバコのフィルターはセルロース・アセテートと化成ポリマーというプラスチックの一種でできているから、分解するのに早くて1年、時には数年かかるという。そのフィルターによって、河川や海が汚れるだけではない。側溝が詰まれば、雨水の排水能力が低下して、集中豪雨の時などには洪水を引き起こすこともある。パリなど欧米の都市では、道路に定期的に水を流して落ち葉やゴミを側溝に洗い流す方式を見かけることがある。でも欧米の下水溝は、小説や映画の舞台としてもおなじみのドでかいものだ。

 同じような現象を国立公園レンジャーの勤務時代にもよく目にした。国立公園では、利用者の増加に伴うゴミ問題に対処するため、尾瀬や大雪山などをはじめ各地で「ゴミ持ち帰り運動」を始めた。それまではゴミ箱を増やすことに力を注いでいたのだが、かえってゴミ箱の周囲にゴミが散乱する。これは、観光客がきちんと中に入れずに、近くから投げ入れて失敗したものだ。また、カラスなどがせっかく入れたゴミをゴミ箱から引き出すこともある。ふたなどをつけて対策を講じるが、今度は人間の方がふたを開けてゴミを捨てるのを面倒くさがる。集落から離れたところでは、ゴミ箱に溜まったゴミを回収する手間(金額も)も大変だ。それなら、いっそのことゴミ箱は撤去して、利用者にゴミを持ち帰ってもらおう、ということで「ゴミ持ち帰り運動」が始まった。決して利用者にゴミ処理を押し付けるだけではない。その代りの徹底したゴミ拾いも必要だ。

 ところが、ゴミを持ちかえるのが面倒な人も多い。といって、きれいなゴミ一つない自然の中にゴミを捨てるのは、さすがに気が引ける。そこで、岩の割れ目や木の根の隙間に、ゴミを入れる人が後を絶たない。ちょっと見には、ゴミは散らかっていない。しかし、隙間に入れられたゴミは、後で回収するのも大変だ。プラスチック系のゴミが多いため、分解もせず残ったままだ。

 そういえば、南関東地区自然保護事務所(当時)所長として富士山のトイレ問題にかかわっていた時にも、こんなことがあった。富士山頂の汲み取りトイレのし尿垂れ流しが問題になり、地元関係者が実験的に汚物を麓に搬送することになった。そこで、荷物運搬用のブルドーザーにバキュームカーを積んで山頂まで上げて、汲み取り便所の汚物を吸引した。すると、度々バキュームのホースが詰まって、作業が中断した。何と吸引されたものには、菓子などのプラスチック袋や空き缶、ペットボトル、コンビニの弁当箱、さらにはビニール・レインコートから下着まで、ありとあらゆるものが出てきた。汲み取り便所も、ゴミ箱と同じと考えているらしい。

 確かに昔の汲み取り便所では、使用する紙も新聞紙や広告紙だった。生活用品が自然の素材に依拠していた時代には、便所に捨てても、あるいは路上や川に捨てても、すぐに分解してきれいになった。しかし今や時代が違う。それでも、なぜか意識は変わらない。年寄りが昔の生活習慣のままゴミをポイ捨てしているのでもない。昔の習慣など知らないはずの若い人たちも、同じような行動をしているのだ。大人の行動を見て育った結果だろうか。水洗便所になった今日でも、汲み取り便所の時代そのまま、吸い殻やガムをはじめ異物を流して、便所が詰まることが多発している。どこのトイレにも、「備え付けの紙以外は流さないでください」との貼り紙がある。家庭のトイレでは、異物を流すこともないだろうに。

 若者の行動といえば、もう一つ奇妙なことがある。飲み干した飲料水などの空き缶やペットボトルが、通りがかりの民家の塀の上などに置いてあるのをしばしば目にする。回収用のゴミ箱までは距離がある。といって、路上に捨てるのは気が引ける。そこで塀の上、ということだろうか。本人は、ゴミを散乱させずに、良い事でもしたと思っているのだろうか。でも、その空き缶やペットボトルを片付けるのは、結局は置かれた塀の民家の住人だ。つまり、ゴミ処理を他人に押し付けていることになる。

 人が少なく、生活に自然素材を使用していた時代には、「三尺流れれば水清し」の言葉のとおり、ポイ捨ても自然の浄化作用が解決してくれた。しかし、生活様式もずいぶん変わった。ことは、環境上の支障があるかどうかだけではない。視界にさえ入らなければ別に問題ではない、というのはおかしいと思う。いわば、臭いものにはふた、の考え方だ。おまけに、どうも本人は、「ポイ捨てはせずにちゃんと片付けた」とでも思っているようだ。むしろその意識のほうが問題だ。側溝に捨てられた吸い殻、岩の割れ目にねじ込まれた空き缶、塀の上に置かれたペットボトル、それらの行く末、あるいは誰がそれらを片付けるのか、そこまで思いを巡らせてほしい。ポイ捨てはポイ捨て。そこに”美学”などは存在しない。自分の家ではしないようなことは、公共の場でもしないでほしい。他人が見ていなくとも、お天道さまは見ている。ポイ捨てなどが昔の行動様式の名残なら、それはやめにして、「お天道さまは見ている」を復活してほしい。

 (写真) 側溝のポイ捨て吸い殻(通勤途上の駅前で)

 (関連ブログ記事) 「お天道さまが見ている -公と私の環境倫理」  「物質と便利さを求める若者気質と自己表明」 「環境都市宣言とグローカルについて考える -春日部市環境都市宣言発表セレモニー


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コメント 2

mimimomo

こんにちは^^
仰る通りですね。ポイ捨てしなければ良いだろう、と言う発想があるようですね。
先生に厳しい方がいて、道路上を車で徐行しながら生徒に注意をしておられました。その頃は生徒もお行儀が良くなりました。しかし年数が経つとまた乱れてきます。やはり親の行動が問題なんでしょうね。
by mimimomo (2015-07-06 11:57) 

staka

mimimomoさん
何事につけても、見えないということは、気にしない、あるいは気にならないということですね。
時には、ポイ捨てのように意識的に視界から外すこともありますが・・・
by staka (2015-07-06 16:19) 

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