タイガーマスク運動 -ランドセルと多様性 [ちょっとこだわる:民俗・文化・紀行・時事など]
伊達直人を名乗って児童施設にランドセルなどを贈る事例が、昨年のクリスマス以来全国各地で続いている。マスコミでは、これを名づけて「タイガーマスク運動」と呼ぶらしい。この“社会現象”については、さまざまな解説がなされている。これについてコメントするつもりもないが、“なんでも多様性”の本ブログとしては、やはり取り上げないわけにはいかない?
贈り物となったランドセルは、小学校新入生の象徴で、多くの親や祖父母は我が子(我が孫)がランドセルを背負った姿を目を細めて見る(あるいは思い浮かべる)。それだけに、経済的理由などによりランドセルが用意できない子供や親たちは落胆するだろうし、それだからこそ善意の贈り物となったのだろう。
ところで、このランドセルの起源は軍隊の背嚢(はいのう)らしい。兵隊が身の回りの小物などを入れて背負ったものだ。NHKドラマ「坂の上の雲」などにも登場するが、日清・日露戦争などの実写フォルムでも、背嚢を背負った兵隊の姿が映っている。なるほどと思う。軍人が背負うと小さく感じるし、実際小さくなくては戦闘行動に差し障る。しかし、ピカピカの1年生は、背中が隠れるくらいの大きなランドセルを背負う。これがまた愛らしく、親の喜びともなる。
そういえば、私が通った東京の公立中学校では、男子の詰襟学生服、女子のセーラー服が“制服”となっていた。都立高校でも制服があり、男子は相変わらずの詰襟服だったが、女子はブレザー型だった。この中学時代の制服は、まさに軍服そのものだ。軍服といっても、男子学生のものは戦闘服とは違い、通常勤務あるいは儀典などの際に着用するものだ。女子のセーラー服は、その名のとおり海軍の水兵が着るもので、昔懐かしいアニメのポパイ the sailor manも着用していた。
ランドセルといい、制服といい、周囲の皆が使用しているのに自分だけ異なるのは、日本人的には勇気が必要かもしれない。そこがタイガーマスク運動のアイテムとしてランドセルが選ばれた理由だろう。一方で、反抗期の象徴として、制服を拒否するまでのことはできなくとも、せめてズボンや上着の丈を変えたり、ルーズソックスなどの着こなしで、自己主張して抵抗しようとするのだろう。しかし結局は、その抵抗・反抗も、“流行”になったとたん色あせ、ちっとも少数派でもなく、何かの主張を表現するものでもなくなってしまう。
ランドセルにも、制服にも、それぞれ長所もあれば短所もある。大学の新入生などにディベートの練習も兼ねて自分の考えを発表してもらおうとするが、周りを気にしてかなかなか応じてくれない。人から遊離しないよう、周りの空気を読む訓練は積んできているのかもしれないが、自分の考えを表現することはどうも苦手のようだ。制服から解放された大学生なのだから、個性を確立してほしい。“画一性”と“多様性”。いつまでも、ブログの話題は尽きない。
(写真) 四半世紀前の我が家のランドセル
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