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お天道様が見ている -公と私の環境倫理 [地球環境・環境倫理]

 その昔、私が国立公園のレンジャー(管理官)をしていたときの話だ。場所は北海道、マリモで有名な阿寒湖である。北の大地の短い夏季シーズンの夕方、昼間の喧騒が嘘のような広い駐車場の中央にポツンと置かれている黒いものに目が行った。近寄ってみるとそれは靴であった。どうして真新しい靴が駐車場の真ん中に揃えて捨てられているのか、不思議だった。その後だいぶ経ってから、その理由らしきものに思い当たった。自家用車の車内をきれいに飾り、泥を持ち込まないように靴を脱いで乗る人が案外多い。そのまま車は走り去ってしまい、残されたのがどうやら駐車場に置かれていた靴の正体ではないかと。

 そこまで車内をきれいにする人に限って、信号待ちなどのときに、灰皿にたまった吸殻を窓から捨てたりする。そこには、公共用地だから誰かが掃除をしてくれるだろう、少しくらい捨てても自然にきれいになるだろう、といった甘えがあるのではないだろうか。確かに河川や森林には、汚排水やゴミなども分解する能力がある。ゴミの量が少なく、内容も紙など自然素材のものだけのうちは、自然の自浄作用だけでも十分だった。しかし今や量も質も自然の浄化能力を大きく上回っている。また、公衆道徳の欠如を嘆く人も多い。

 日本では欧米に比べて公徳心がないとよく言われる。欧米の家庭に比して庭や窓が塀によって道路と分断されている日本の家屋、かつて笑い話にもなった日本人観光客のホテル廊下でのステテコ姿など、空間意識や「公」と「私」そのものを巡る文化はずいぶん違う。この辺も、日本人の公徳心欠如の原因の一つかもしれない。しかし、日本人が昔から公徳心が欠如していたわけではないだろう。「お天道様が見ている」ことで他人の目がなくともやたらにゴミを捨てたりしなかった。一方、欧米でも自分勝手な人がいるのは確かだろう。

 地域社会に不可欠なゴミ焼却場。その必要性は誰もが理解するが、いざ自分の家の近隣に建設されるとなると反対する。欧米ではNIMBY(ニンビィ)というが、これは「自分の家の裏庭に来るのは反対」の意味の頭文字だ。四季折々の装いを見せ、町に潤いをもたらす並木や巨木も、その近くの住民にとっては日陰、落ち葉、害虫など迷惑な面もある。これも、総論賛成、各論反対の典型的な例だ。こうした公と私の問題や利己主義ともとれるような問題は、現在では単に公衆道徳の問題として片付けることはできない。恩恵を受ける広汎な地域社会の人々が、協働で落ち葉掃除などを分担することも必要だ。s-雑木林ゴミ看板.jpg

 春日部市など武蔵野の雑木林は、かつては薪炭林として利用されていた。それが生活の変化と共に薪炭林用途がなくなり、関心が薄れていった。関心がなくなると、ゴミなどが捨てられても誰も気にしない。河川や鎮守の森も同様だ。そこが散歩道として整備開放されて、地域の人々は自発的に清掃などを行うようになった例もある。自然環境保全には、現代流の新たな価値を付加して、地域の人々に関心と誇りを持ってもらうことが重要だ。

 (写真) 雑木林のゴミ捨て禁止看板(春日部市内で)

(この記事は、2005年2月 タウンねっと NO.12 に掲載されたものです。)

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