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天災島原大変とキリシタン弾圧の舞台、そして異文化の香り -国立公園 人と自然(3) 雲仙天草国立公園 [   国立公園 人と自然]

 わが国最初の国立公園の一つで、島原半島中央部の「雲仙地域」と、天草諸島の「天草地域」の2地域に分かれている。もともとは、わが国最初の県立公園(1911年指定)でもある雲仙地域が1934年に「雲仙国立公園」として指定されたが、その後1956年の天草地域の編入に際して現在の名称に変更された。1967年には天草五橋周辺も編入された。s-普賢岳0011.jpg

 雲仙地域は、普賢岳を中心とした雲仙火山群の山々と高原、湖沼などの地形で、活火山はあちこちに泥火山(マッドスポット)と温泉とを出現させている。特に、雲仙温泉には、雲仙地獄と呼ばれる大規模な噴気現象が見られる。火山高原に広がるミヤマキリシマは春には山腹を紅紫色に染め、ウンゼンツツジの名でも親しまれている。特に、池の原の群落は有名で、これと雲仙地獄周辺のシロドウダン群落(いずれもツツジの仲間)は国の天然記念物にも指定されている。森林や草原、さらに諏訪の池、白雲の池の水辺といった多様な環境では、多くの種類の野鳥も見ることができる。天草地域は八代海や有明海の沿岸で、特色ある海岸景観とトベラなどの暖帯性海岸植物やハクセンシオマネキなどの海の生物を見ることができる。

 雲仙温泉は長崎出島に程近く、明治の開港後には外国人の間に避暑地として知られるようになった。1913年には、わが国最初のパブリックコースである「雲仙ゴルフ場」が完成し、テニスコートなども整備されてリゾート地となっていった。現在の雲仙温泉では、山小屋風の警察駐在所をはじめ、観光協会やビジターセンターなどの公共建物は、それぞれ個性を発揮しながらも、全体として統一の取れた建物となっている。

 雲仙火山群の中心、普賢岳は、何度も噴火を繰り返している活火山で、そのたびに山の形状が変わったり、頂上が高くなったりしてきた。まるで生き物のようだ。1990年に始まった噴火については、ご記憶の方も多いだろう。溶岩ドームの成長とそれに伴う火砕流・土石流によって多くの人命が失われ、畑や住宅などへの被害が生じた。噴火の数年後に訪れた水無川の現場では、新築間もない家も2階部分まで土砂に埋もれて、かろうじて屋根が見えるだけであった。江戸時代の寛政4年(1792年)には、普賢岳の噴火と地震に伴って眉山が大崩壊し、有明海に注ぎ込んだ大量の土砂により津波が発生した。この土石流と津波によって、島原半島と対岸の肥後(熊本県)では一万人以上の人命が奪われた。「島原大変肥後迷惑」といわれ、現在に語り継がれている。s-雲仙地獄.jpg

 天草を地名としてよりは、むしろ人名として記憶している人も多いだろう。ご存知「天草四郎時貞」だ。弱冠16歳とも言われている彼は、飢饉や年貢に苦しむ百姓や浪人による一揆の総大将として戦った。この戦いは一揆というよりも、3万のキリシタンと12万余の幕府軍の戦いと捉えられることが多い。その後のキリシタン弾圧でも雲仙温泉は舞台となり、多くの信者が前述の地獄で熱湯を浴びせられるなどの改宗を迫る拷問を受け、殉教していったという。

 美しい雲仙や天草の自然も、時として牙を剥いたように人間に被害を与える。その自然を拷問などの手段に使う人間はもっと恐ろしい。しかし、大自然と悠久の時は、こうした悲しい出来事をもロマンと謎に満ちた歴史物語に変えてしまう。今日も、これらの物語に魅かれて、多くの人々が雲仙天草国立公園を訪れる。

1934年3月指定 28,279㌶
長崎、熊本、鹿児島にまたがる

 (写真上) 普賢岳の溶岩ドーム(平成新山)(新田峠自動車道路より)
 (写真下) 雲仙温泉地獄

 (関連ブログ記事)「意外と遅い?国立公園の誕生


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