SSブログ
   国立公園 人と自然 ブログトップ
- | 次の30件

世界のフジヤマ、天下の険 箱根、そして踊子の伊豆 -国立公園 人と自然(10)富士箱根伊豆国立公園 [   国立公園 人と自然]

 日本の名峰、富士山(3776m)の登山シーズンは短い。7月と8月の2ヶ月間に、約30万人が頂上を目指す。短期間での利用者の集中は、様々な国立公園管理上の問題を引き起こしている。ゴミ問題は、一時期に比べるとずいぶん好転してきた。これも地元自治体を中心に長年実施されてきたクリーン作戦などの成果だろう。

 s-富士山(ススキ)2m.jpg現在の課題は、し尿問題だ。垂れ流しで岩肌に残ったトイレットペーパーが「白い川」と表現され、富士山のし尿問題の象徴となった。登山者がよく使用するポケットティッシュも最近では水溶性のものが出回ってきたが、それだけでは解決にはならない。し尿は生理現象で致し方ないが、その処理は電気などのエネルギーもなく、気温も低く分解が進まない山岳公園の共通の悩みでもある。富士山では微生物利用のバイオトイレなどの実証実験や利用者からトイレ管理費に協力をあおぐチップ制も始まっている。適正な利用のためのマイカー規制もさらに充実していく必要がある。山麓では、別荘地などの開発やオフロード車乗り入れによる植生破壊なども起きている。

 s-大涌谷0306.jpgかつて外国人による日本のイメージは、「フジヤマ」「ゲイシャ」だった。世界に名だたるこの富士山も、問題は山積だ。とかく競争し対立しがちだった静岡、山梨両県は、1998年11月に「富士山憲章」を制定し、富士山の保全に協力するようになった。以前、富士山を「世界自然遺産」にとの運動が起きたことがあった。結局は、日本で自然遺産を所管している環境省と林野庁が合同で設置(2003年)した検討会の審議では、富士山は自然遺産の候補にはならず、知床、小笠原諸島、琉球諸島が候補となった。しかし、富士山が信仰や芸術文化面で古来から日本人の精神形成や生活に大きな影響を与えてきたことは明らかだ。両県では現在、「世界文化遺産」登録を目指してこれらの遺産要件を検証している。自然遺産も文化遺産も、人間の勝手な分類だ。世界遺産条約には、最近になって「複合遺産」の分類もできたが、これもある意味では縄張り争いの結果だ。雄大な自然とそれによって育まれた文化の源である富士山の価値は、一面的には語ることはできない。

 「天下の険」と言われた箱根は、典型的な複式カルデラ地形で、箱根最高峰の神山(1438m)や駒ケ岳を中心に、金太郎伝説の金時山をはじめ明星ケ岳、明神ケ岳などの外輪山が取り囲む。外輪山に囲まれたカルデラ内には、芦ノ湖や仙石原湿原などの低地が広がる。また、火山地形のため、箱根七湯とも称される温泉も豊富だ。

 古来、特に鎌倉に幕府ができてからは、京と東国を結ぶ東海道はわが国の主要動線だった。江戸時代には箱根の関所が整備された。この関所跡は、かつて湖の山側に復元されていたが、現在では本来の場所、湖側に復元されている。江戸時代、東海道は参勤交代の大名行列や多くの旅人で賑わった。今でもかつての東海道名残の杉並木と石畳が残っていて、ハイキングコースにもなっている。東名高速道路ができた現在でも、箱根山中を通過する国道1号線は大動脈だ。そして、なによりも「箱根駅伝」のコースとして知っている人も多いだろう。

 s-s1-ケンペル・バーニー碑DSC04216_2.jpgこの東海道を通過した旅人の中に、ケンペル、ツェンベルク、シーボルトなど外国人博物学者がいた。彼らは、箱根で多くの動植物を採集し、シダの仲間のハコネグサやハコネサンショウウオなどを海外に紹介した。このほかにも、ハコネウツギやハコネザサなどハコネの名を冠した植物は多い。このたび国宝にもなった伊能忠敬の日本地図持ち出し事件(シーボルト事件)でも有名なシーボルトは、長崎から江戸参府の道中などで集めた動植物情報をもとに、日本植物誌、日本動物誌を著し、ヨーロッパに紹介した。彼が送った植物標本は、現在でもオランダのライデン国立植物学博物館に所蔵されている。シーボルトは、「プラントハンター」の一人でもあったといえよう。

 箱根はまた湯治の場であり、横浜に居留した外国人の観光の場でもあった。1878年(明治11年)には外国人専用の富士屋ホテルが開業し、87年(明治20年)には日本で最初の有料道路が開通している。現在では、温泉利用の旅館ホテル、別荘、ゴルフ場、美術館など多くの施設と、有料道路を始め、バス、登山電車、ケーブルカー、ロープウェー、遊覧船など様々な交通手段が集中している。首都圏の人々にとっては身近すぎて単なる観光地に過ぎない箱根だが、意外と自然が残っている。この箱根の自然に魅入った人たちがボランティアの自然解説活動を続けている。

 国立公園の区域は、その名のとおり富士山と箱根に加えて伊豆半島、伊豆諸島と広範囲にわたる。伊豆半島は、鎌倉幕府の祖、源頼朝が流された地であり、近年では川端康成の「伊豆の踊子」の舞台でもある。熱海、伊東なども大温泉地も抱える一方で、ひなびた漁村も点在している。一足早く咲く河津桜は、春を待ちわびた多くの観光客を引きつける。伊豆諸島は、御神火(火山)とアンコ・椿の伊豆大島をはじめ、火山噴火で壊滅的な打撃を受けた三宅島、流人の島としても知られた八丈島などの列島だ。これらの地域は、首都圏にも近く、年間1億人以上というわが国最大の利用者数を誇る国立公園だ。指定当初の「富士箱根国立公園」から、1955年の伊豆半島地域の編入により現在の名称に変更になり、さらに64年には国定公園だった伊豆諸島が編入されて現在に至っている。

 明治時代に来日したイギリス人貿易商バーニーは、箱根を愛し、芦ノ湖畔に別荘を構えた。そのバーニーは、同じく箱根の自然を称えたケンペルの「日本誌」(その後の来日西洋人の必読書といわれる)の序文を引用した碑を別荘敷地に建立した。そして、自ら「新旧両街道の会合するこの地点に立つ人よ、この光栄ある祖国をば更に美しく尊くして、卿等の子孫に伝えられよ」と碑文に記した。「富士箱根伊豆国立公園」は、私が現地勤務した数少ない公園の一つだ(所長として勤務した南関東地区自然保護事務所は、箱根に所在していた)。それだけに、愛着も一入だ。「世界遺産」として海外に認知されることも重要だが、まずは多くの日本人が、身近な自然や歴史の地域として、この富士・箱根・伊豆の地域を認識し、訪れて、誇りに思い、愛着を持つようになることが何よりも大切だろう。
 
1936年2月指定 121,714㌶
東京、神奈川、山梨、静岡にまたがる

 (写真上)富士山とススキ草原(東富士にて)
 (写真中)人でにぎわう大涌谷(箱根にて)
 (写真下)ケンペル・バーニー碑(箱根にて)

 (関連ブログ記事) 「国立公園 人と自然(7) 霧島屋久国立 -神話と龍馬の霧島、縄文杉の屋久島」、 「国立公園 人と自然(9) 吉野熊野国立公園 -原始信仰と世界遺産の原生林」、 「国立公園 人と自然(5) 知床国立公園 -知床旅情と世界遺産で急増した観光客」、 「国立公園 人と自然(2) 小笠原国立公園 -世界遺産候補になった東洋のガラパゴス、ペリーやジョン万次郎も訪れた島々」、 「生物資源をめぐる国際攻防 -コロンブスからバイテクまで」、 「富士山の麓で国立公園について講演


nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

サファリの王国と地域社会 -国立公園 人と自然(番外編3) クルーガー国立公園(南アフリカ共和国) [   国立公園 人と自然]

 ブログ記事「アバター 先住民社会と保護地域」では、南アフリカ共和国で開催された「第5回世界国立公園会議」(2003年)やその際に訪れた世界遺産「グレーター・セント・ルシア湿地公園」を紹介した。その南アフリカ共和国は、本年2010年には、サッカー・ワールドカップが開催されることでも知られている。そこで、今回の「国立公園 人と自然」では、番外編3として、南アフリカ共和国で最も古い国立公園「クルーガー国立公園」を取り上げることにする。

 クルーガー(Kruger)国立公園は、南アフリカ最初の国立公園で、モザンビークとの国境に沿って南北350kmに及ぶ広大な地域には、ゾウ、ライオン、サイ、バッファロー、ヒョウのいわゆるビッグ・ファイブをはじめ、シマウマ、キリン、チータ、インパラ、イボイノシシなど147種に上る哺乳類と507種の鳥類などの野生動物が生息している。クルーガーは、1898年に小規模な野生動物保護区として指定されたのが始まりで、正式に「国立公園」としての名称で国立公園局によって管理されるようになったのは1926年からである。s-クルーガー国立公園ゲートCIMG0290.jpg

 指定当時(1898年)は、ヨーロッパの植民地としての人種差別政策(アパルトヘイト)と、狭義の保護政策である米国型(いわゆる営造物型のこと:「『米国型国立公園』の誕生秘話」を参照)の保護地域として、先住の地域住民(黒人)は区域から追放され、植民地支配の白人がサファリ(狩猟・探検旅行)を楽しむ場所でもあった。唯一公園内に留まることが許された黒人は、低賃金のサファリ関連労働者のみだった。最近では、地域住民の利益と持続可能な資源利用を組み入れた保全についての新たな考え方により、先住民の地域社会と連携をとることに力点が置かれるようになってきた。土地も先住民社会に返還されるようになってきた。土地の返還に関しての極端な例であり、南アフリカで最も有名な例の一つとしては、公園北端のパフリ (Pafuri) 地域が挙げられる。マクレケ(Makuleke)部落の住民たち約3000人は、1969年に家を焼き払われ、銃によって強制的にそれまで住んでいた地域から追放された。その後、復帰主張が認められ、2万5000ヘクタールの土地が返還され、その土地は公園区域に編入された。返還協定では、農業や定住などは公園当局の許可なしにはできないことになっていて、保護と土地利用の両立が地域住民の責務ともなっている。

 この背景には、農業や牧畜による収入よりもエコツーリズムによる収入のほうが多く、保全との両立に適しているとの認識があるようだ。観光客は、公園のゲートで入園料を支払って、ツアーバス、あるいは自家用車などで野生動物を観察する(ゲームドライブ)。前述のビッグ・ファイブと呼ばれる大型野生動物を見ることができれば最高だ。ゾウといっても、インドネシアのワイ・カンバス国立公園のように、飼育されたりはしていない。野生のアフリカゾウは、アジアゾウ(インドゾウ)よりも大型で、食事のためには大木を根からへし曲げるほどだ。テレビ画面や動物園では味わえないような迫力のある野生動物の姿には、車上からみるだけでも興奮する(今回のブログでは、通常2葉の写真掲載だが、奮発して動物写真を5葉掲載した)。夜のツアーは危険だが、レンジャーが案内するプログラムもある。ライトに照らされて目を光らせる樹上のヒョウ、川に群がるワニなど、スリル満点だ。こうした感動を求めて、先進国から多くの観光客が訪れる。その観光客の宿泊施設(キャンプ)は、外観は先住民部落風でも、ベッドのほか、シャワー、キッチンなども完備した立派なロッジだ。レストランや土産品店も備えている。エコツーリズムは、これら宿泊地でのベッドメーキング、料理賄い、そしてガイドや運転手、土産物の生産・販売など、地域社会に雇用の機会と多額の現金収入をもたらしている。

s-シマウマ0348m.jpgs-野生ゾウ群れ0352m.jpgs-キリン0384m.jpgs-インパラ0364m.jpgs-イボイノシシ0373m.jpg

  
 このように、かつての「サファリ」から「エコツーリズム」と名を変えた観光の恩恵に与る人々も多い。しかし一方で、人種差別政策が終わった現在でも、一般的な地域住民には公園利用が制限されているのが実情だ。その原因は、公園利用に必要な入園料支払いができない、あるいは猛獣除けのための自動車を所有できないといった経済的な理由からだ。これらの地域社会の住民たちは、公園当局のことを土地や野生生物、薬草など生物資源の強奪者とみなしている。

 (写真上)公園ゲート(クルーガー国立公園(南アフリカ)にて)
 (写真下:左上から順に)シマウマ、ゾウ、キリン、インパラ、イボイノシシ(いずれも、クルーガー国立公園(南アフリカ)にて)

 (関連ブログ記事)「アバター 先住民社会と保護地域」、「宮崎アニメ「もののけ姫」 人と自然」、「『米国型国立公園』の誕生秘話」、「エコツーリズムの誕生と国際開発援助」、「国立公園 人と自然(番外編1) ワイ・カンバス国立公園(インドネシア) -ゾウと人との共存を求めて


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

原始信仰と世界遺産の原生林 -国立公園 人と自然(9) 吉野熊野国立公園 [   国立公園 人と自然]

 京の都から南へおよそ100km、わが国最大の半島、紀伊半島は古代から信仰の地であった。急峻な山地と谷、そして深い森林に覆われた地は、神秘さだけではなく、都の華やかさに対して、何やらおどろおどろしささえ覚える。吉野熊野国立公園は、そんな国立公園だ。

 紀伊半島一帯は、もともとは「木の国」と呼ばれていたが、奈良時代に「紀伊の国」と改称されたといわれる。また、熊野の神は樹木を支配する神で、紀伊の国(木の国)の語源はここからとの説もある。いずれにしろ、紀伊半島は森林が豊富で、現在でも原生林が広がる。江戸時代の豪商、紀伊国屋文左衛門は、この紀伊半島の豊富な木材を江戸に卸して財を築いたといわれている。紀伊半島は、森林だけでなく、海岸美でも優れている。特に串本周辺はサンゴ礁も広がり、わが国最初(1970年)の海中公園地区の一つに指定されている。山が海に迫る南紀熊野灘沿岸は、南方浄土・補陀洛に向けて、二度と帰らぬ船出の場でもあった。さらに、源平合戦でも有名な熊野別当湛増らの熊野水軍や文左衛門などの海運業、近海捕鯨でも有名だ。世界的に議論されているわが国の捕鯨産業は、江戸時代前期に和田忠兵衛頼元によって始められた組織的捕鯨が起源といわれている。太地町の「くじらの博物館」では、鯨の骨格標本を目の当たりにして、その大きさに圧倒される。また、明治以降ブラジルやアメリカに移民として渡った人も多く、故国に錦を飾った人によるアメリカ村も形成されている。

 これら山岳と原生林、その間を縫う熊野川とその支流の北山川、十津川の河川渓谷、そして海岸が国立公園に指定されている。

 半島の一部は「大和の国」にも含まれる。大和の国吉野山は、平安時代から桜の名所として知られ、古今和歌集選歌をはじめ多くの和歌にも詠まれている。また、南北朝時代には、南朝方の中心地でもあった。その吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は、古くから金峯山の山岳霊場としても知られている。その中心は、修験道開祖の役行者(役小角)が刻んだとされる蔵王権現を本尊とする金峯山寺や大峯山寺だ。修験道の峰入り(奥駈け)は、これら吉野の山岳地帯を道場とするもので、断崖上から体を乗り出す「西の覗き」などの修行の場も点在している。

 s-那智の滝.jpg熊野山中にも、多くの神社仏閣が点在する。そのうちの熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社は、「熊野三山」と総称して呼ばれる。中でも、熊野本宮大社は、全国に三千以上あるという熊野神社の総本山として名高い。熊野権現の使いの三本足の烏、八咫烏(やたがらす)は、現在では日本サッカー協会のシンボルマークとしても知られている。また、那智の滝は日本一の高さ(133m)があり、滝そのものが信仰の対象となっている。この熊野三山などには、後白河上皇をはじめとする皇族の参詣も多かった。「伊勢に七度、熊野に三度、どちら欠けても片参り」といわれ、伊勢神宮と並んで参拝者が多く、多数の人々が行列をなして参詣する様子は「蟻の熊野詣」ともよばれるほどだった。

 吉野から熊野にかけての一帯、点在する社寺などを繋ぐ参詣道が「熊野古道」であり、周辺には史跡も多く、ハイキングコースへの復活が図られている。2004年7月には、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された。世界遺産には、文化遺産、自然遺産、複合遺産の3区分(カテゴリー)がある。それぞれの区分の登録基準に従って、ユネスコの世界遺産委員会において顕著で普遍的な価値があると認められたものが、世界遺産として登録される。「紀伊山地の霊場と参詣道」は、このうちの文化遺産だ。文化遺産とはいえ、単に社寺の建物だけでなく、信仰を育んだ那智原始林も、構成資産として登録されている。そもそも、自然崇拝から発生した信仰や宗教、それに伴う建造物などは、背景(景観的にも、文化的にも)となる自然を抜きにしては存在しえない。文化遺産とはいえ、自然と密接に結びついているものだ。紀伊山地の霊場も、急峻な山地と谷、それらを覆う深い森、さらに浄土へと連なる海があって、はじめて成立したものだろう。1972年に世界遺産条約(正式名「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」)がユネスコ総会で採択されるまで、文化遺産と自然遺産はそれぞれ別々に保護条約の作成検討が進んでいた。その名残もあって、文化遺産と自然遺産が区分けされ、最近(2005年)になってやっと複合遺産という区分が誕生した。私は個人的には、「紀伊山地の霊場と参詣道」は複合遺産がふさわしいと思っている。しかし実際のところ、条約実施事務や国内担当官庁(文化遺産は文化庁、自然遺産は環境省・林野庁)は、なかなか複合とは程遠い。

 s-大台ケ原大蛇ぐら.jpg古来から人々の信仰を集めてきた吉野熊野の原生林。その中でも紀伊半島中央部の三重県と奈良県の県境に位置する大台ケ原は、年間雨量5000mmの世界有数の多雨地帯で、広大なブナやトウヒの原生林はわが国でも貴重な森林のひとつだ。湿潤な林内はモスフォレスト(コケの森)とも呼ばれ、ツキノワグマ、カモシカやシカ(ニホンジカ)も生息している。しかし、この原生林も1960年代頃から乾燥化、コケの衰退、ミヤコザサの侵入、樹木の枯死などがめだってきた。どうやら周辺での森林伐採・人工林化、伊勢湾台風被害(1959年)、大台ケ原ドライブウェー開通(1961年)による利用者の増加などが原因とみられている。これにシカの増加による食害が追い討ちをかけたようだ。このため、環境省などでは自然再生のためのトウヒ林保全事業として、シカ防護柵や利用者による踏み荒らし防止の木道設置やシカの駆除コントロールなどを実施している。2002年の自然公園法改正によって設けられた「利用調整地区」にも、全国で最初に指定された。一方、シカ駆除などには反対の人々もいる。自然の推移に任せるべきか、人為影響による変化をどこまで阻止し元の自然に再生すべきか、論争は続く。

 森林伐採や観光開発などによる自然の改変に加え、最近では地球温暖化による動植物への影響も顕著になってきている。全国各地で荒れた自然を再生しようとの動きもあるが、そこでも同じような議論がある。維持管理あるいは再生すべき自然の姿やその手段について、多くの人の合意を得ることは大変難しい。古代の奥深い森を舞台にしたアニメ映画「もののけ姫」でも、森の精霊と人間との争いが描かれていた。古代の吉野熊野のように、人と自然とが一体となった信仰の世界では、これらの課題はどのように解決されただろうか。

1936年2月指定 59,798㌶
三重、奈良、和歌山にまたがる

 (写真上)日本一の那智の滝
 (写真下)大台ケ原大蛇ぐら

 (関連ブログ記事)「国立公園 人と自然(8)伊勢志摩国立公園 -新年にふさわしい国立公園、旅の原型お伊勢参りと新婚メッカの真珠の里」(神社)、「国立公園 人と自然(7)霧島屋久国立公園 -神話と竜馬の霧島、縄文杉の屋久島」(世界遺産、巨樹、多雨)、「国立公園 人と自然(5)知床国立公園 -知床旅情と世界遺産で急増した観光客」(世界遺産)、「国立公園 人と自然(6)足摺宇和海国立公園 -黒潮洗うジョン万次郎のふるさと」(最初の海中公園)
nice!(3)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

テーブルマウンテンが林立する「失われた世界」 -国立公園 人と自然(番外編2) カナイマ国立公園(ベネズエラ) [   国立公園 人と自然]

 世界遺産、カナイマ(Canaima)国立公園は、南米ベネズエラのギアナ高地にある。そこはまた、イギリス人作家アーサー・コナン・ドイルの小説「失われた世界(The Lost World)」(1912年)の舞台としても知られている。1962年に指定された3万平方キロを超える面積の公園には、最高峰(標高2810m)のロライマ(Roraima)山をはじめとする2000m級のテーブルマウンテンと呼ばれる台形状の山地が密林の中に林立している。これらのテーブルマウンテンは、2億5千万年前に大地が激しい雨で削り出されて造り出されたもので、世界でも最も古い地層のひとつ17億年前の地質がむき出しになっている。この密林とテーブルマウンテンのカナイマ国立公園は、1994年に世界遺産に登録された。

 s-カナイマNP1.jpgそのひとつ、標高2560mのアウヤン・テプイ(Auyan Tepuy)(先住民の言葉で、悪魔の山の意)の頂上から流れ落ちるエンジェル(Angel)(スペイン語では、アンヘル)の滝は、世界最高の落差979mを誇る。流れ落ちた水は、あまりの落差のために滝壺まで届く前に霧となってあたりに飛び散ってしまう。また、切り立った崖によって隔離されたテーブルマウンテン上では、固有の生態系が形成されている。水かきがなく、泳ぐことも跳び跳ねることもできない体長4cmほどの原始的なカエル、オリオフリネラのように独自の進化を遂げたものも多い。ドイルはおそらくこのようなテーブルマウンテン探検の報告を聞いて、恐竜がいまだに生き続ける「失われた世界」を着想したのだろう。学生時代に級友たちと見たアメリカ映画「失われた世界」(1960年)の迫力満点の恐竜決闘シーン(実は、トカゲとワニに背びれなどを付けた特殊撮影という)は、定期試験が終わった解放感もあってか妙に記憶に残っている。

 私がこの公園を訪れたのは、20年近く前になる。カラカスで開催された「第4回世界国立公園・保護地域会議」に参加した際に、当時日本ではまだ馴染みの薄かったエコツーリズムを体験しようと思ったのがきっかけだ。双発プロペラ機DC3でアマゾン源流部の密林の上を飛んで降り立ったのは、空港というよりはただの広場だった。空港ターミナルも、茅葺きのあずまやだ。宿泊は、キャンプ・カナイマというロッジ群で、それぞれのロッジは地域の伝統的な建物デザインを模しているという。エコツーリズムのプログラムは、トレッキング、ボートでの川下り、滝壺巡りなど多彩だ。ガイドは、植物の名前とその資源としての利用法(薬草、食料、染料など)などを教えてくれる。有機物が多く茶褐色の川のカヌー下り、滝壺の横断はスリル満点だ。世界一のエンジェルの滝へのセスナでの観光飛行もある。私のときには、あいにくの雨模様で世界一の滝の全容を見ることはできなかったが。

 しかし、私が関心をもったのは、ロッジのベッドメーキングに来た地域住民だ。もともとは密林の中での狩猟採集と少しばかりの畑での作物で暮らしていたという。ところが貨幣経済社会になり現金も必要になったが、密林地域での産業は結局のところ観光しかない。観光といっても売り物は大自然。エコツーリズムは、その売り物を破壊しないような持続型の観光だ。そして、ガイド、車や船の運転手はもちろん、ベッドメーキングやレストランのコックなど、さまざまな職業が生まれ、地域に経済効果をもたらしてくれる。ある程度経済的に余裕のできた地域社会は、国立公園内の自然資源に頼る必要もなくなり、自然も保護される。つまり、エコツーリズムは、自然保護と地域社会との両立をめざすものでもある。s-インディオ子供(カナイマ).jpg

 最近は、日本を含め、世界各地でエコツーリズムが盛んだ。だが実際のところ、エコツーリズムが一種のブランド(商品名)となり、多数の観光客が参加している例も多い。持続型の観光ではなく、従来型のマス・ツーリズム(団体旅行などの観光)と変わりなく、自然への影響も懸念される。さらに、地域経済への波及効果もわずかながらの労働収入だけで、落とされた金銭の大半は中央あるいは国外資本が持ち出すことも多い。

 キャンプ・カナイマの夕方、ロッジの脇を流れる川の下流からカヌーがやってきた。当時の写真で確認したところ、そこには上半身裸の男性と少し穴のあいたTシャツを着た男性、それに赤ん坊を抱いた女性と二人の子供が乗船していた。おそらく家族で下流の町に買い出しに出かけた帰りだったのだろう。そして、ポリバケツのようなものも積まれていたのが、今でも印象に残っている。アマゾン源流の密林で、何世紀にもわたり森の資源を利用して生活してきた人々。彼らも今や「現代文明」と無縁の生活はできない。否が応でも生活の中にプラスチック製品も持ち込まざるをえない。あの人たちは、今はどんな生活をしているのだろうか。ロッジのベッドメーキングの母親についてきた子供の無垢な目が、私の脳裏に焼き付いている。

 (写真上)カナイマ湖とテーブルマウンテン
 (写真下)コテージのベッドメーキングの母親に着いてきた先住民の子供

 (関連ブログ記事)「エコツーリズムの誕生と国際開発援助」 「エコツーリズムと保全について考える」、「熱帯林の消滅 -野生生物の宝庫・ボルネオ島と日本」  「日本の国立公園は自然保護地域ではない? -多様な保護地域の分類」 「国立公園 人と自然(番外編1) ワイ・カンバス国立公園(インドネシア) ゾウと人との共存を求めて」 「国立公園 人と自然(7) 霧島屋久国立公園 -世界遺産の島の縄文杉とトイレ問題
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

新年にふさわしい国立公園、旅の原型お伊勢参りと新婚メッカの真珠の里 -国立公園 人と自然(8) 伊勢志摩国立公園 [   国立公園 人と自然]

 伊勢志摩国立公園は、実に新年にふさわしい公園だ。公園内には、初詣に多数が参拝する伊勢神宮や初日の出で有名な二見浦の夫婦岩がある。

 s-夫婦岩(伊勢志摩).jpg伊勢神宮は、五十鈴川にかかる宇治橋を渡った皇大神宮(内宮)と少し離れた山田原の豊受大神宮(外宮)などの総称だ。20年ごとに社殿を立て替える式年遷宮は、1300年の伝統を誇る。遷宮にはヒノキなど大量の木材を必要とする。その木材は、神宮後背の神宮林だけではなく、はるばる木曽の山からも運ばれてくるという。神宮林は5,500haもの面積を有し、ヒノキの樹林だけではなく、シイ、タブノキ、ヤブツバキなど照葉樹の自然林としても維持されている。そのため、トキワマンサクやジングウツツジなどの希少植も生育し、シカやサルなども生息する豊かな森となっている。

 江戸時代に日本中がこぞって参詣した「お伊勢参り(おかげ参り)」は、わが国の団体旅行の元祖といえるかもしれない。しかし、伊勢までの旅路には、多くの費用が必要だった。そこで、近隣の人々などで少しずつ金を出し合い、金がたまるとくじ引きなどで選ばれた代表者がお伊勢参りに出かけた。この伊勢講は、いわば現在の旅行積立貯金のような効果もあった。伊勢に到着すると、御師と呼ばれる人が参詣人を案内し、参拝や宿泊の世話をした。また、御師は全国各地に出かけて、札や暦を配って伊勢神宮の霊験を宣伝した。こちらは、現在の旅行営業所のセールスマンあるいはツアーコンダクターのようだ。伊勢講で近隣の代表として参詣した人が持ち帰った土産の数々は、いわば参詣の証拠品でもあり、後世の日本人が旅行先地名の明記された土産物を買うようになった原因でもある、と言う説もあるくらいだ。現在にも通ずるわが国の旅の原型を見る思いがする。

 夫婦岩は、その名前の故か、かつては新婚旅行のメッカとも言われるくらい多くのカップルが訪れた。この二見海岸から鳥羽湾や英虞湾にいたる海岸線は、わが国を代表するリアス式海岸の一つだ。リアス式海岸は、地盤沈下や海水面の上昇などで生じた地形で、起伏の大きい山地の稜線部が複雑に入り組んだ半島状や島嶼状に残ったものだ。その名は、スペインの北西部ガリア地方で入り組んだ海岸線の湾をリアと呼ぶことに由来していると言う。

 s-英虞湾(横山展望台より).jpg公園内のリアス式海岸の中でも英虞湾は、真珠養殖で名高い。複雑な入り江の湾内は波静かで、養殖などには適している。鳥羽出身の御木本幸吉は、英虞湾で真珠の養殖に取り組み、いく度かの失敗の後1893(明治26)年、遂にアコヤ貝から5粒の半円形の真珠を採り出すことに成功した。その後も研究を重ね、1905年には天然ものと変わらない真円真珠の養殖にも成功した。これにより真珠は日本の代表的な輸出産品となり、幸吉は「真珠王」と呼ばれるようになった。

 一般にはあまり知られていないことだが、この公園は第2次世界大戦後初めて指定された国立公園だ。当時は、政府の行政機構はまだ復活しておらず、連合軍総司令部(GHQ)の許可を得て指定された。戦前からいくつかあった公園候補地の中で、なぜ伊勢志摩が第1号となったか、その理由の詳細は今となってはわからない。しかし、景色のみならず、文化的にも極めて日本的なこの地域が、GHQの指導により戦後復活の第1号となったのは、実に興味深い。

1946年11月指定 55,544㌶
三重

 (写真上)初日の出で有名な二見浦・夫婦岩
 (写真下)真珠養殖で有名な英虞湾
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

神話と龍馬の霧島、縄文杉の屋久島 -国立公園 人と自然(7) 霧島屋久国立 [   国立公園 人と自然]

 西暦2000年代(00年代)の最後の年も、もうすぐ暮れようとしている。本年最後となる国立公園を巡る人と自然の物語は、神話や巨木の霧島屋久国立公園だ。

 霧島屋久国立公園は、1934(昭和9)年に指定されたわが国最初の国立公園の一つで、指定当初の名称は「霧島国立公園」だった。当時指定された地域は、天孫降臨の神話で名高い高千穂を含む「霧島地域」で、霧や霧氷が多いことからその名がついたといわれている。もともと火山活動により生じた地形で、20を超える山と火口湖など景色も雄大であり、登山にも親しまれている。学校で習った霧島火山帯の名を思い出す人も多いだろう。国立公園の名前よりもこちらの方が有名かもしれない、と思うのは国立公園関係者のひがみだろうか。火山地帯のため湯煙も豊富で、味わい深い温泉も多い。もう一つ霧島の名を広めたものに、ミヤマキリシマがある。ツツジの種類で、5月には阿蘇や雲仙など九州各地の火山をピンクの絨毯で埋め尽くす。色の変化もあり、他のツツジと交配した園芸品種も多い。また、霧島は、日本で最初の新婚旅行ともいわれる坂本龍馬とお龍が訪れた地でもある。新年からのNHKドラマの放映予定もあり、地元では観光客の増加を期待している。

 s-千尋滝.jpg最近では、本家の霧島よりも屋久島の方が有名になった感がある。「屋久島地域」は、桜島など当時から国定公園だった「錦江湾地域」とともに、1964年に霧島国立公園に編入された。その際に、名称も現在の「霧島屋久国立公園」に変更された。屋久島は「洋上アルプス」とも呼ばれ、海岸から九州最高峰の宮之浦岳(1935m)までの標高に沿った植物の変化(垂直分布)とそこに生息するヤクシカやヤクシマサルなど他に類を見ない自然は、以前から専門家の間では有名であった。海岸で露天風呂に入っている時に、山頂では雪が降っているということもよくあるという。また、林芙美子の小説「浮雲」で、月に35日雨が降ると描写されたように、雨量の多いことでも有名だ。登山でも水筒は必要ない。かつては、中東からの石油タンカーの帰路、屋久島の水を積んでいくという構想もあったようだ。

 一般の人には、屋久杉で有名だ。島に分布するスギでも、樹齢1000年以上のものだけが「屋久杉」を名乗ることが許され、それに満たないものは「小杉」と呼ばれる。特に老齢巨木やその切り株は、縄文杉、大王杉、翁杉、紀元杉、ウィルソン株など、それぞれ固有の名前で呼ばれている。成長が遅いためその材は堅牢で、密な年輪の美しさはそれだけで人々を魅了し、多くの木工工芸品が生産されている。江戸時代から伐採されており、伐採木の少なくなってきた近年では、江戸時代の伐採で残された根元の部分までも利用されている。

 この屋久島が一躍有名になったのは、なんと言っても1993年の世界遺産登録だろう。東北地方のブナ林で有名な白神山地とともに、世界遺産条約によるわが国初の自然遺産となった。その結果、屋久島は年間10万人以上が訪れる観光地となった。最も有名な縄文杉は、1966年に発見されたそうだが、私が最初に行った35年程前には訪問者もそれほど多くなく、宮之浦岳や永田岳などの登山の途中で立ち寄る場所だった。それが今では縄文杉見物が目的の観光客が激増し、片道5時間の難所にも関わらず、屋久島訪問者の9割が訪れるという。このため、根元が踏み固められて枯死の恐れがでてきた。現在では縄文杉、弥生杉など観光客の多いスギの周辺には、立ち入りできないように木道や柵が巡らされている。

 問題は、踏み固めだけではない。増加した観光客のし尿処理も課題だ。山中にひっそりとたたずむ縄文杉は、今や神社仏閣と同じような観光地と化し、トイレ、それも汲み取り式ではなく快適な水洗トイレを期待してくる訪問者も多い。片道5時間のアプローチは、当然生理現象を生じる。山小屋のトイレには長い列ができ、山中にはトイレットペーパーも散乱している。利用者の利便性や美観だけでなく、生態系に及ぼす影響も深刻だ。しかし、いくら水が豊富とはいえ、電気などの動力もなく、また建造物や排水管敷設による自然への影響も懸念される国立公園では、街中のような水洗トイレを造るわけにはいかない。汲み取り式便所にしても、溜まったし尿の汲み取り運搬は容易ではない。

 s-縄文スギ2.jpgこのようなトイレ(し尿処理)問題は、全国の山岳国立公園で発生している。山中のため、電気など動力の確保や処理水の確保ができない。また、高冷地で利用者数に波があるため、汚泥を分解するバクテリアがうまく働かない。そして何よりも建設中、建設後の周辺自然環境への影響と費用を含めた維持管理の困難さなど、それぞれ地域特有の条件と課題がある。とても、全国一律の特効薬はありそうもない。そもそも、街中の遊園地とは異なる自然公園で、どこまで利用者の便宜を図ればよいのかとの根本的な論議もある。全国の山岳公園では、汲み取りし尿のヘリコプター輸送、寒冷地でも有効なバクテリアによる分解処理(バイオトイレ)など、各地で試行錯誤が続いている。ここ屋久島でも、携帯トイレ(ドライブ用と同種のし尿を吸収固形化するもの)の配布・販売や使用の際の目隠しのためのブース設置などが始まった。それでも、使用済みの携帯トイレが麓まで持ち帰らずに投棄されたり、回収された大量の携帯トイレ固形物の処理など、検討課題は多い。一部では、利用者数の制限も検討の俎上に載っている。

 屋久島に続いて世界遺産に登録された知床でも、観光客の増加に伴う問題が浮上してきている。そして今再び、小笠原が世界自然遺産に追加されようとしている。不況下、そして地方の過疎化が進む現在、かつての国立公園指定陳情合戦と同様、観光客の増加を目当てにした世界遺産登録陳情合戦が始まっている。屋久島の世界遺産登録から15年。過疎化に悩んだ島にも、原始的な自然に魅せられて都会から移り住む人もいる。かつて、人二万、猿二万、鹿二万といわれたこの島で、人と自然の関係にどのような変化があったのか、検証が必要だ。

1934年3月指定 54,833ha
宮崎県、鹿児島県

 (写真上)雨量が豊富な屋久島の滝、千尋滝
 (写真下)35年前の縄文杉、立ち入り禁止柵は設置されていない

 (関連ブログ記事)「国立公園 人と自然2 小笠原国立公園」、「国立公園 人と自然5 知床国立公園」、「悠久の時そして林住期 -余暇と巨樹とを考える」、「日本一の巨樹の町で全国巨樹・巨木林の会会長に就任」、「自然の営みから学ぶ -人と自然の関係を見つめなおして」、「全国巨樹・巨木林の会と巨樹調査再考
nice!(4)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

黒潮洗うジョン万次郎のふるさと -国立公園 人と自然(6) 足摺宇和海国立公園 [   国立公園 人と自然]

 s-足摺岬.jpg四国の最南端、太平洋に突き出た足摺岬は60メートルの花崗岩の断崖で、その上に建つ白亜の灯台は有名だ。これに対して愛媛県の宇和海海岸は沈水海岸で、出入りが多く海岸線は変化に富んでいる。足摺宇和海国立公園は、この足摺岬を含む高知県から愛媛県の宇和海に至る一帯だ。もともと1955年には、足摺地区だけが海洋型の「足摺国定公園」として指定されていた。1972年の国立公園の指定は、いわば格上げである。その際に宇和海地区も追加されて、名称も現在の「足摺宇和海国立公園」となった。

 この公園では、足摺岬のツバキなど暖帯性の常緑広葉樹や海岸性植物、内陸部の篠山のシャクナゲ、アケボノツツジの群落や滑床渓谷の落葉広葉樹林といった変化に富む植物と鹿島の野生のシカとサルなどがみられる。篠山の樹齢100年を超えるアケボノツツジ群生地は、春ともなればその名のとおり一面が曙色に染まる。しかし、なんと言ってもこの公園を特徴付けているのは、ソラスズメダイやチョウチョウウオなど色とりどりの熱帯魚やサンゴなど海中生物だ。

 特に黒潮で洗われる竜串から見残し間の海中景観はすばらしく、国定公園時代の1970年7月には、わが国で最初の「海中公園」として指定されている。竜串や西海では、グラスボートによって手軽に海中景観を見ることができる。特に、海中展望塔は、その形状と海中へ下りていく感触で、SF映画(ちょっと古い表現かもしれない。今ではCGというべきか)の世界に引き込まれるようだ。かつては、展望塔前にはサンゴ細工などの屋台風の店が連なっていたが、現在では建物内に統合されてすっきりした。国立公園管理の上から、統合が指導された結果だ。しばらく前までどこの観光地にもあった団体観光客を呼び込む土産物屋と大衆食堂の姿は、今ではめっきり少なくなってきた。東南アジアなどの観光地でこうした光景を見ると、客引きの煩わしさもさることながら、何となく懐かしさが込み上げてくる。

 s-竜串海中展望塔.jpg昔の様子といえば、足摺岬一帯では、すれ違いもできないような細く、急こう配で曲がりくねった道路が多かった。まさに、winding road だ。それが“国道”と呼ばれていた。その中のひとつ、3ケタ国道の321号は、1987年には全線が改良され、「足摺サニーロード」として日本の道100選にも選定されるまでになった。国道321号から足摺岬に至る有料道路「足摺スカイライン」も、1995年には無料開放された。かつて、環境庁時代の国立公園管理の仕事やプライベートの四国遍路で訪れた記憶からは、まさに隔世の感がある。

 足摺岬には、前述の灯台のほか、四国霊場三十八番札所の金剛福寺、自殺の名所として岬を一躍有名にした田宮虎彦の文学碑、そして井伏鱒二の小説でも有名になったジョン万次郎の銅像などもある。

 万次郎は、1827年に足摺岬から程近い中浜村で生まれた。14歳の時、漁業中に遭難し、米国捕鯨船に救助された。米国で英語と高等教育を受け、航海士として世界を回り帰国した。鎖国の江戸時代、本来であれば死罪となるおそれもあったが、開国を迫られ、海外情報を求めていた幕府に逆に重用されることとなった。藩士に登用されてからは中浜姓を名乗り、中浜万次郎と呼ばれるようになった。1860(万延元)には、勝海舟などと共に咸臨丸に乗って再び米国へ渡った。この咸臨丸に幕府の通詞として乗船した万次郎は、小笠原に移り住むようになった欧米系の人々に対して、日本の領土宣言をしたこともある(ブログ 国立公園 人と自然(2)「小笠原国立公園 -世界遺産候補になった東洋のガラパゴス、ペリーやジョン万次郎も訪れた島々」)。万次郎の海外での見聞は、幕府の開国にも影響を与えたといわれる。明治維新後にも政府に重用され、日本最初の英語教師ともなった。万次郎はその一生を通じて、日米交流の架け橋となった。

 現在では、米国の経済的凋落や中国の台頭など、世界も大きく変化してきている。さらに、日米安保条約などに関連した密約の存在も明らかになり、沖縄の基地問題など日米間の課題も多く、新しい日米関係が模索されている。日米懸け橋の先鞭をつけた万次郎、その国民宿舎前に建つ銅像は、現在でも遠く太平洋のかなたにある米国を見据えている。

足摺宇和海国立公園 1972年11月指定 11,166㌶ 愛媛県、高知県

 (写真上)足摺岬灯台
 (写真下)竜串海中展望塔

 (関連ブログ記事)「小笠原国立公園 -世界遺産候補になった東洋のガラパゴス、ペリーやジョン万次郎も訪れた島々


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

知床旅情と世界遺産で急増した観光客 -国立公園 人と自然(5) 知床国立公園 [   国立公園 人と自然]

 「知床」は、アイヌ語の「シリエトク」で、「地の果て」を意味している。その名のとおり、知床半島は、北海道の東北端に位置する原始地域だ。半島の脊梁部には険しい火山連峰と深い原生林が、また海岸部では直立の海食崖にかかる滝が直接海に落ち込むなど、原始的な自然景観が特徴となっている。ヒグマ、エゾシカなどの大型獣や、シマフクロウ、クマゲラ、オジロワシ、オオワシなどの希少な大型鳥類も多く、また海域ではトド、アザラシなども見られる。冬季に接岸する流氷上でのんびりするトドやオジロワシの姿は、実に絵になる。最近では、これらの動植物を観察するエコツアーも盛んだ。知床国立公園の原始性の高さは、他の国立公園と比較した数字の上でも明らかである。たとえば、公園内の森林などの植物(植生)は、ほぼ100%が人の活動の影響を受けていない。また、最も保護の必要性が高い地域である特別保護地区は、60.9%を占め、ともにわが国の国立公園の中でも傑出している。

 s-知床岬2_2.jpgこの公園が指定されてまもない1970年、加藤登紀子が歌う「知床旅情」が大ヒットした。もともとは、ヒットの10年ほど前、戸川幸夫原作の「オホーツク老人」を映画化した「地の涯に生きるもの」のロケに来ていた主演の森繁久弥が、地元の人々の協力に感謝して作詞・作曲したものだという。小説や映画は知らなくとも、歌を知らない人はいないくらいで、当時の国鉄(現JR)のディスカバリー・ジャパンという観光キャンペーンとも相まって、多くの観光客やカニ族と呼ばれた若者たちを知床に惹きつけた。カニ族を知らない人のために解説すると、北海道各地を無銭旅行に近い形で、旅行する若者たちのことで、大きな横長のリュックサックを背負っていたため狭い通路ではまっすぐに歩けず、横になって進んだためにその名がついた。北海道各地の駅では、彼らの寝泊りのためにテント村まで用意して便宜を図った。貧しくとも、人情のあった時代の話だ。

 知床旅情のヒットから35年後、2005年7月に知床は日本で3番目の「世界自然遺産」に登録された。海と陸との食物連鎖を見ることのできる貴重な自然が評価されたものだ。それだけに、時に漁網への被害を与える海獣など海洋生態系の保全と漁業との両立も課題だ。また、世界遺産のネームバリューは大きく、登録を契機に観光客が急増した。最近では、増加したエゾシカによる植生への影響(食害)も深刻だ。さらに、観光客によるエゾシカへの餌付け、ヒグマと観光客との遭遇なども問題となっている。知床半島の先端まで到達する道路はなく、斜里町側からは中ほどの知床五湖までしか行けない。その手前には温泉がそのまま滝となって海まで流れ落ちるカムイワッカ湯の滝の露天風呂もある。半島先端の知床灯台を見るためには、観光遊覧船に乗るしかない。知床旅情のヒットや1980年の知床横断道路の開通、さらには世界遺産の登録により観光客が増加したため、知床五湖ではマイカー規制が実施されている。国立公園、国有林野、漁業、観光業など、複数の行政・自治体にもまたがる知床半島の世界遺産保全のために、多利用型統合的海域管理計画の策定(2007年)なども行われているが、まだまだ課題は多い。

 s-流氷(羅臼)_2.jpg北方四島のひとつ国後島を望む羅臼や反対側のウトロでは、サケの定置網漁が盛んだ。半島には途中までしか道路はなく、また地形も急峻なため、海岸沿いに点在する番屋と呼ばれる作業小屋まで漁船で通う。私も阿寒湖のレンジャー時代に番屋の一つに泊めてもらったことがある。その番屋でサケ尽くしの料理と酒に盛り上がった漁師たちからは、かつて豊漁の際には鮭御殿が建ち、札束を懐にして飛行機で東京銀座まで飲みに出かけたという話を聞かされた。そんな豪傑話も今は昔、船の高速化で使用されなくなった番屋は、荒れ果てるままである。戦後緊急開拓による原生林伐採、日本列島改造による離農開拓原野の買い占め、それらの保全と回復するための「知床100平方メートル運動」(ナショナルトラスト)、18年の歳月を費やした知床横断道路開通、国有林経営転換の契機ともなった国有林伐採問題などなど、日本の自然保護史上にとどめられるべき知床半島を舞台にした多くの出来事も、番屋と同様に時の移ろいとともに人々の記憶の彼方になりつつあるのは寂しい。

1964年6月指定 38,633㌶
北海道

 (写真上) 知床岬灯台(エゾシカの増加により、現在は植生も変化しているという)
 (写真下) 流氷(羅臼側)(画面では見にくいが、流氷上にはオオワシとオジロワシの群れ、遠方には国後島がかすかに見えるはず)


nice!(4)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

噴火とリゾートに揺れた野口英世の故郷 -国立公園 人と自然(4) 磐梯朝日国立公園 [   国立公園 人と自然]

 この公園は、東北地方の中部から南部にまたがり、出羽三山、朝日連峰、飯豊連峰、磐梯吾妻、猪苗代湖などの地域を含むわが国で3番目に大きな国立公園だ。ブナ林などの落葉広葉樹林にはツキノワグマ、カモシカ、ニホンザルなどが生息している。また那須火山帯に属しているため、各地に温泉も多い。

 出羽三山は、羽黒山、月山、湯殿山の総称で、開山以来1400年の歴史を有する信仰の山として名高い。多くの人々が参拝するが、開山以来女人禁制で、開山1400年祭の1993年にやっと解かれた。湯殿山周辺には即身仏、いわゆるミイラ仏も安置されている。一方、月山は夏スキーのメッカとしても有名だ。

 s-飯豊山(大日岳).jpg朝日連峰、飯豊連峰では、縦走の小屋泊まりには寝袋や食料の持参が必要だ。長いアプローチも相俟って、中部山岳などの山々に比べれば登山者はまだ少ない。稜線部はなだらかで、遅くまで残る雪は雪田や湿地となっていて、そこに生育する可憐な高山植物を楽しみながらのんびりとした山行が楽しめる。下山後の温泉もまた魅力だ。飯豊山の雪渓の氷にウィスキーボンボンを混ぜて仲間と食べたシャーベットのほろ苦い味は、懐かしい学生時代の思い出だ。

 裏磐梯に点在する200以上の湖沼群は、紅葉シーズンを始め、四季折々にその姿を変え、訪れる人々を楽しませる。中でも五色沼は、その名のとおり、毘沙門沼や赤沼、青沼などそれぞれの湖沼の水に含まれた成分と天気によって、コバルトブルーやエメラルドグリーンなど神秘的に色彩が変化する。これらの湖沼群は、磐梯山の大噴火によってできたものだ。1888年(明治21年)7月、千年の沈黙を破って、水蒸気爆発を起こした磐梯山は、当時、小磐梯山と呼ばれた山頂部を吹き飛ばした。磐梯山のあの独特の山容は、このときの名残だ。この噴火によって麓に流れ出た大量の土石や泥流により、五色沼、桧原湖、小野川湖、秋本湖などの堰止湖が誕生した。それだけではない、細野、雄子沢、秋元原などの部落は流れ出た土石の下に埋もれ、秋元原部落では12戸すべてが埋没して67名の行方不明者を出した。地域全体では、500名近い犠牲者が出たという。桧原湖ではこのときに水没した桧原本村の鳥居を今でも湖水中に見ることができる。

 この噴火は当時の大ニュースとなった。帝国大学(現、東京大学)は早速、関谷清景教授と菊地安助教授を調査に送った。また、読売新聞は、7月17日付で第1報を生々しく伝えるとともに、その後も噴火直後の被災地を独自調査した田中智学の「磐梯紀行」を30回に亘って連載し、8月7日に掲載された噴火直後の猪苗代湖の写真は、日本の新聞紙上初の報道写真ともいわれている。

s-桧原湖と磐梯山.jpg この地出身の有名人といえば、何といっても野口英世だろう。千円札にも肖像が載っているが、意外とその業績や子供時代のエピソードを知らない若い人が多い。私の子供時代には、映画や読み物でよくお目にかかったものだ。英世は、1876年(明治9年)に現在の猪苗代町に生まれた。1歳のときに囲炉裏に落ちて左手を大火傷した。映画で見た、火傷で付いてしまった指を小刀で切り離そうとする英世の姿を子供心にも鮮明に覚えている。成績は優秀で、周囲の人たちの募金により手術を受け、不自由ながらも左手は使えるようになった。それがきっかけで、医学を学ぶようになったという。米国留学などを経て、数々の病原体発見などの業績によって、多くの賞を授与された。残念ながら51歳の若さで、アフリカでの黄熱病研究中に感染して亡くなった。磐梯山の大噴火は、英世が11歳の時だから、きっとその目で直に見たに違いない。生家の猪苗代湖畔には、野口英世記念館が設立されている。東京都新宿区にも、野口英世記念会館が設立されている。小学生のころはその脇を通って通学したこともあり、私にとって英世は身近に感じる存在だ。

 以前に紹介した雲仙・普賢岳など、わが国では火山噴火による犠牲も大きい。磐梯山では、尊い犠牲を払いながらも大噴火によって生じた湖沼群景観は、その後の高速道路や新幹線の整備もあって、この地域を高原リゾート地に変えていった。噴火から100年後のバブル経済は全国的なリゾートブームを巻き起こしたが、磐梯山周辺でもスキー場やゴルフ場の開発などが始まった。しかしこれも、結局は土地の買占めと自然破壊の爪痕を残したに過ぎなかったというのでは余りにも犠牲が大きい。

磐梯朝日国立公園 1950年9月指定 186,404㌶ 山形、福島、新潟にまたがる

 (写真上)なだらかな稜線の連なる飯豊連峰大日岳
 (写真下)大噴火で山頂が吹き飛んだ独特の山容の磐梯山と噴火によってできた桧原湖

 (関連ブログ記事) 「雲仙天草国立公園 -天災島原大変とキリシタン弾圧の舞台、そして異文化の香り
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

ゾウと人との共存を求めて -国立公園 人と自然(番外編1) ワイ・カンバス国立公園(インドネシア) [   国立公園 人と自然]

 私は今、インドネシアのスマトラ島ランプン州に滞在中だ。昨年に続いて、マルガサリ(Margasari)村のマングローブ林再生プロジェクトについて、ランプン大学との共同研究をしている。この研究サイトの近くに、ワイ・カンバス(Way Kambas)国立公園がある。今回の「国立公園 人と自然」は、番外編としてワイ・カンバス国立公園を紹介する。s-飼育されるゾウの群れ0139.jpg

 ワイ・カンバス国立公園は、スマトラ島の南部、ランプン州の中部ランプン県と東ランプン県にまたがる。面積125,621haの公園内には熱帯雨林と広大な湿地が広がる。さらに河川や海岸には、鉄木、ニッパヤシ、マングローブ林などが見られる。これらは、希少な野生動物の生息地となっている。ここでは、70年以上に渡って自然が保護されてきたが、国立公園の候補地になったのは1991年3月で、実際に指定されたのは1997年3月だ。しかしこの国立公園指定までの間に、人口過剰のジャワ島からの移民などにより、公園地域の実に75%以上の熱帯林が伐採され、耕作地に変えられてしまった。それでも公園内には、湿地のハジロモリガモ、アジアヘビウを含む286種にも及ぶ多様な水鳥やイリエワニのほか、多くの希少野生動物が生息している。特にスマトラサイ、スマトラゾウ、スマトラタイガーが有名で、アカウアカリ(オマキザル)やギボン(テナガザル)なども生息している。

 中でもゾウは、この公園のシンボルだ。原生林の開拓に伴って生息地を追われたゾウの群れは、餌などを求めて村のバナナ畑などを荒らすようになった。時には住宅も襲い、倒壊させた。村人は野生の逆襲に恐れおののいた。こうしたゾウを単に駆除するのではなく、捕獲・訓練し、木材運搬や観光に利用して、有益性をアピールしようとの計画が持ち上がった。1985年にはインドネシアで最初のカランサリ(Karangsari)訓練センターが設立された。調教されたゾウの芸や背に揺られてジャングルを進むエコツアーは、多くの観光客を集めている。ゾウの訓練だけではなく、熱帯雨林の復元も試みられている。将来はゾウの野生復帰にも繋がるだろう。

 これは、ゾウと同様、生息地を狭められて集落にも出没し、家畜や時には人をも襲うようになったトラの保護にもなるにちがいない。トラは公園内に約40頭生息しているといわれている。かつては、バリ島やジャワ島にも生息していたが、現在ではインドネシア科学院(LIPI)のチビノン動物研究館(「インドネシア生物多様性保全プロジェクト1」参照)などに、世界でも数枚の毛皮を残すだけだ。s-ゾウの見張り小屋0180.jpgまた、公園内には世界で最初の野生サイの飼育施設もある。カナン(Kanan)川でのボートによるエコツアーでは、多くの水鳥やイリエワニなどのほか、運が良ければサイも見ることができるという。

 スマトラ島は、かつては生物多様性の宝庫だったが、熱帯林は伐採され、そこに生息する動物は絶滅が危惧されるまでになってしまった。海岸部のマングローブ林は薪炭材やエビ養殖池造成などのために伐採された。ここで養殖されたブラックタイガーなどのエビは、安くて手軽なエビの天ぷらやフライとして、日本の外食産業や家庭の食卓を飾っている。内陸部の熱帯雨林も木材供給のために伐採されて、高度経済成長期などに日本の寿命の短い一戸建て住宅建築に大量に使用されてきた。

 現在では、オイルパーム(アブラヤシ)のプランテーション造成などのための伐採が目立つ。特にスマトラ島中央部のジャンビ州では、熱帯林の伐採が急速に広がり、跡地を整理するための火入れによる森林火災も深刻だ。こうして生産されたヤシ油(パームオイル)は、スナック菓子・インスタントラーメンなど揚げ物などに使用される植物性油脂として、日本にも大量に輸入されている。最近では、健康志向で動物性油脂から植物性油脂へ、また環境配慮の石鹸の原料などとしても輸入が増加している。さらに、地球温暖化防止のためのバイオ燃料の原料ともなることから、ますますプランテーションが拡大され、熱帯林も消滅している。

 私たちが日本で何気なく過ごしている豊かな生活は、遠くインドネシアのスマトラ島でこれらの需要を生み、それによって外貨獲得のために熱帯林が破壊されているのだ。ゾウと地域住民との葛藤には、私たちも無関係ではない。ゾウと人との共存のために、私たちにも何ができるのか考えたい。

 (写真上) 訓練センターのゾウの群れ
 (写真下) ゾウの見張り櫓

 (関連ブログ記事)「インドネシアから帰国 -時間は流れる」 「南スマトラ調査」 「インドネシアの生物資源と生物多様性の保全」 「インドネシア生物多様性保全プロジェクト1」 「熱帯林の消滅


nice!(3)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

天災島原大変とキリシタン弾圧の舞台、そして異文化の香り -国立公園 人と自然(3) 雲仙天草国立公園 [   国立公園 人と自然]

 わが国最初の国立公園の一つで、島原半島中央部の「雲仙地域」と、天草諸島の「天草地域」の2地域に分かれている。もともとは、わが国最初の県立公園(1911年指定)でもある雲仙地域が1934年に「雲仙国立公園」として指定されたが、その後1956年の天草地域の編入に際して現在の名称に変更された。1967年には天草五橋周辺も編入された。s-普賢岳0011.jpg

 雲仙地域は、普賢岳を中心とした雲仙火山群の山々と高原、湖沼などの地形で、活火山はあちこちに泥火山(マッドスポット)と温泉とを出現させている。特に、雲仙温泉には、雲仙地獄と呼ばれる大規模な噴気現象が見られる。火山高原に広がるミヤマキリシマは春には山腹を紅紫色に染め、ウンゼンツツジの名でも親しまれている。特に、池の原の群落は有名で、これと雲仙地獄周辺のシロドウダン群落(いずれもツツジの仲間)は国の天然記念物にも指定されている。森林や草原、さらに諏訪の池、白雲の池の水辺といった多様な環境では、多くの種類の野鳥も見ることができる。天草地域は八代海や有明海の沿岸で、特色ある海岸景観とトベラなどの暖帯性海岸植物やハクセンシオマネキなどの海の生物を見ることができる。

 雲仙温泉は長崎出島に程近く、明治の開港後には外国人の間に避暑地として知られるようになった。1913年には、わが国最初のパブリックコースである「雲仙ゴルフ場」が完成し、テニスコートなども整備されてリゾート地となっていった。現在の雲仙温泉では、山小屋風の警察駐在所をはじめ、観光協会やビジターセンターなどの公共建物は、それぞれ個性を発揮しながらも、全体として統一の取れた建物となっている。

 雲仙火山群の中心、普賢岳は、何度も噴火を繰り返している活火山で、そのたびに山の形状が変わったり、頂上が高くなったりしてきた。まるで生き物のようだ。1990年に始まった噴火については、ご記憶の方も多いだろう。溶岩ドームの成長とそれに伴う火砕流・土石流によって多くの人命が失われ、畑や住宅などへの被害が生じた。噴火の数年後に訪れた水無川の現場では、新築間もない家も2階部分まで土砂に埋もれて、かろうじて屋根が見えるだけであった。江戸時代の寛政4年(1792年)には、普賢岳の噴火と地震に伴って眉山が大崩壊し、有明海に注ぎ込んだ大量の土砂により津波が発生した。この土石流と津波によって、島原半島と対岸の肥後(熊本県)では一万人以上の人命が奪われた。「島原大変肥後迷惑」といわれ、現在に語り継がれている。s-雲仙地獄.jpg

 天草を地名としてよりは、むしろ人名として記憶している人も多いだろう。ご存知「天草四郎時貞」だ。弱冠16歳とも言われている彼は、飢饉や年貢に苦しむ百姓や浪人による一揆の総大将として戦った。この戦いは一揆というよりも、3万のキリシタンと12万余の幕府軍の戦いと捉えられることが多い。その後のキリシタン弾圧でも雲仙温泉は舞台となり、多くの信者が前述の地獄で熱湯を浴びせられるなどの改宗を迫る拷問を受け、殉教していったという。

 美しい雲仙や天草の自然も、時として牙を剥いたように人間に被害を与える。その自然を拷問などの手段に使う人間はもっと恐ろしい。しかし、大自然と悠久の時は、こうした悲しい出来事をもロマンと謎に満ちた歴史物語に変えてしまう。今日も、これらの物語に魅かれて、多くの人々が雲仙天草国立公園を訪れる。

1934年3月指定 28,279㌶
長崎、熊本、鹿児島にまたがる

 (写真上) 普賢岳の溶岩ドーム(平成新山)(新田峠自動車道路より)
 (写真下) 雲仙温泉地獄

 (関連ブログ記事)「意外と遅い?国立公園の誕生


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

世界遺産候補になった東洋のガラパゴス、ペリーやジョン万次郎も訪れた島々 -国立公園 人と自然(2) 小笠原国立公園 [   国立公園 人と自然]

 ビルに囲まれた東京竹芝桟橋を午前10時に発った船は、1000kmを航海して翌日の午前11時30分に父島に到着する。この間実に25時間以上の船旅、それも平穏な海原の場合だ。冬季の海が荒れた時には、30時間以上かかったこともあった。後で小笠原丸の船長と話す機会があったが、その航海では多くの人命を預かって胃の痛む思いだったという。

 小笠原諸島は、太平洋上に南北に連なる火山列島で、このうち北端の聟島列島から父島列島、母島列島と硫黄島列島の北硫黄島まで、30余の島々がわが国最小の国立公園となっている(南硫黄島は、原生自然環境保全地域)。s-南島P6290758.jpgこれらの島々は、日本政府により世界遺産の候補地としてユネスコに推薦されることが決定した(2009年7月)。大陸と一度も地続きになったことがない海洋島の生物は、人間の往来が始まる遥か昔から島に住み着き、悠久の時を経て独自の進化を遂げていた。この結果、植物ではムニンツツジ、ムニンノボタン、ムニンヒメツバキなど、動物ではオガサワラオオコウモリ、アカガシラカラスバト、ハハジマメグロ、オガサワラトンボなど、世界でも小笠原だけの種(固有種)も多い。植物では40%、陸産貝類のように移動性の小さい種では95%が固有種という。それゆえ小笠原諸島は、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれている。小笠原国立公園では、青い海を背景にした美しい風景とスキューバダイビングなどを楽しむことができる。季節によっては、イルカやクジラの観察も魅力だ。

  それだけではなく、太平洋戦争の影響を現在でも垣間見ることができる。島のあちこちには、砲台跡や沈船もある。激戦地の硫黄島のように地形が変わるほどの自然への直接影響はないが、今日まで間接的に影響を及ぼしているのがノヤギだ。戦況の激化に伴う住民の強制疎開の際に置き去りにされたものが、野生化した。このノヤギは、貴重な固有植物を含め、植物を根こそぎ食べ尽くしてしまう。このほか、薪炭材として導入された樹木のアカギも固有種との競合を引き起こしている。さらに、最近では物資に混入したりペットとして島に侵入したトカゲの一種グリーンアノールも、固有の昆虫などを食べ尽くす勢いだ。これらの外来生物(移入種)は、世界遺産登録を目前にした小笠原の自然保護の最大の課題となっている。

 そもそも、隔絶されたこの島々に人が往来するようになったのは、江戸時代末期で、欧米の捕鯨船などが立ち寄ったり、日本船が漂着したりしたのが始まりだ。1830年には欧米人とハワイ先住民約20名が定住するようになった。1853年には通商条約要求のため沖縄から下田に向けて航行中のペリーも父島に寄航したという。江戸幕府は、信州深志城主の小笠原貞頼が1593年に小笠原諸島を発見、上陸したと主張して日本領土を宣言、これが小笠原諸島の名称の由来となった。しかし残念ながら、小笠原貞頼の名は歴史上確認されていないという。1861年には咸臨丸も派遣され、当時の欧米出身の島民たちに日本領有を宣言した。このときの咸臨丸乗組員の墓は、現在も亜熱帯林の中にひっそりと残っている。

  この咸臨丸には、ジョン万次郎(中浜万次郎)も欧米系住民への通訳として乗り込んでいた。漁船の難破漂流から救出された万次郎は、長く米国で暮らし、航海術などを学んだ。帰国した万次郎は、その国際情報や語学力をかわれて、その後の日米和親条約締結や小笠原開拓調査にも参加した。この万次郎の進言と活躍がなければ、日米条約は結ばれず、小笠原諸島はペリーによって、沖縄とともに米国に占領されていたかもしれない。万次郎の情報が、日本を危機から救ったのである。s-咸臨丸乗り組員の墓App0015.jpg

 明治以降は、綿花やサトウキビの栽培製品化、ウミガメやその他の漁業などのため、最も近い島(といっても700km)八丈島からの入植者のほか、各地から人々が集まり、最盛期には7000人以上の住民がいた。しかし、第2次世界大戦の激化とともに、前述のとおり全住民は強制疎開させられ、ヤギが野生化する原因ともなった。

 米軍の占領下から日本に返還されて40年。在来島民、旧島民などと呼ばれている島の歴史を背負ってきた人々や最近移り住んできた人々(新島民)など、さまざまな住民の混在する小笠原では、これら住民間の融合が課題ともなっている。返還35周年の2003年には、これからの島づくりについての記念シンポジウムが島をあげて開催された。シンポジウムのパネリストとして私と同席した米国人海洋学者のジャック・モイヤーは、島の将来を熱く語り、夜のイベントでは陽気に音楽を奏でていたが、今はもうこの世にはいない。

 南島や母島の石門では、立ち入り規制など新たな保全対策も始まった。父島から程近い南島は、観光客の人気スポットの一つだ。なかでも、海とトンネルでつながった湖状の入り江「扇池」は、小笠原で一番とも評される美しい景色だ。しかし、多数の観光客の踏み付けによって、植生や貝の化石が破壊され、赤土が露出するなどの問題も生じている。このため、上陸には自然ガイドの案内が必要で、人数なども制限されている。

  南海の孤島であるがゆえの不便な生活。現代の多くの住民は、この生活に耐え、より安定した生活を求めている。一方で、ダイビングやホエールウォッチング、エコツーリズムなどの観光客や都会では味わえない豊かな自然と生活のリズムを求める人々も増えている。民宿の「思い出ノート」には、小笠原でのかけがえのない体験を賞賛する声が多く記されている。

 島の歴史を背負ってきた人々や最近移り住んできた人々などが混在している小笠原。ここではまた、人間の往来によって持ち込まれた動植物(移入種・外来生物)によって、固有の生態系の存続が脅かされている。このように人類を含む新旧さまざまな生物によって、固有生物の天国であった小笠原の自然も大きく変化してきた。世界遺産の候補地となった今、あらためて小笠原の自然と地域社会の今後の変化が注目される。

 世界遺産に登録されれば、観光客の増加も予想される。この際、島の暮らしをもっと便利に、豊かにしたいと考える地元の人も多いようだ。しかし、不便でも豊かな自然のある生活を島の魅力にはできないものだろうか。しょせん、「外来者」のたわ言かもしれないが。

小笠原国立公園 1972年10月指定 6,099㌶ 東京都

 *この記事は、筆者の「咸臨丸も立ち寄った島」(「日本の国立公園(上)」、山と渓谷社2007年刊)、「小笠原」(「素顔の国立公園」、共同通信社配信記事、山梨新聞、茨城新聞、神戸新聞ほか掲載)などをもとに書き下ろしました。

 (写真上)小笠原の絶景といわれる南島の扇池
 (写真下)咸臨丸乗組員の墓

 (関連ブログ)「主な講演」「自然と癒し」「繋がる時空、隔絶した時空」「物質と便利さを求める若者気質と自己表現


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

桂月の奥入瀬、幻の魚見たりの十和田湖、そして賢治の岩手山 -国立公園 人と自然(1) 十和田八幡平国立公園 [   国立公園 人と自然]

  紅葉で有名な十和田八幡平国立公園は、十和田湖、奥入瀬渓流や八甲田山の「十和田地域」と、岩手山、秋田駒ケ岳や八幡平の「八幡平地域」とに分かれている。s-八甲田山(睡蓮沼).jpg当初は「十和田国立公園」として指定されたが、20年後の1956年に八幡平地域が追加されて現在の名称となった。

 森林帯にはブナ林が広く分布し、亜高山帯にはオオシラビソ(アオモリトドマツ)などの針葉樹林も分布する。池沼も多く、高山植物の種類も多い。私は、ロープウェイもあり多数の観光客が訪れる北八甲田よりも、なんとなくひなびた南八甲田が好きだ。十和田湖御鼻部山から猿倉温泉までのなだらかな尾根に点在する池塘や雪田に咲き乱れる高山植物を眺めながらののんびり山行。なだらかゆえに、戦時中には陸軍の軍用道路が造られ、今でも石積みやレンガ造りの橋が残っている。八甲田で始めた高山植物の写真撮影だったが、今でも私のスライドボックスで鮮やかな姿を残している。八幡平にも、こうしたルートは多い。秋田駒ケ岳から乳頭山もその一つだが、秋田駒の斜面を一面のピンクに染めるコマクサは実に見事だ。

 十和田・八幡平の両地域とも火山地形からなり、二重カルデラの十和田湖を始め、コニーデ(成層火山)の八甲田大岳や岩手山、駒ヶ岳、アスピーテ(楯状火山)の八幡平、トロイデ(釣鐘状火山)の焼山など変化に富み、噴気、噴泥現象も多く、「火山の博物館」ともいわれている。このため酸ヶ湯(青森県)や玉川温泉(秋田県)のように目がしみるほどの強酸性温泉をはじめ、さまざまな効能をもった温泉も多い。入浴法も普通の湯船への入浴だけではなく、滝のような「打たせ湯」やスチームバス、オンドル形式など変化に富む。さすがにランプの湯や混浴は少なくなってきたが、現在でもひなびた湯治場の雰囲気を伝えていて、自炊をしながらの長逗留客も多い。

 その温泉のひとつ、八甲田山中の蔦温泉は、ブナの浴槽の底から湧き出る無色透明の温泉で、湯を透して見る肌は誰もが色白になる。周囲のブナ原生林には、蔦七沼と呼ばれる池沼が点在し、散策もできる。ここはまた、明治の文人、大町桂月が晩年を過ごしたところでもある。高知生まれの桂月は1908年に雑誌「太陽」の仕事で初めて十和田を訪れ、その後21年にも北海道旅行の帰途再び訪れた。宿の周りのブナ原生林と十和田湖、奥入瀬渓流を愛した桂月は、「住まば日の本、遊ばば十和田、歩けや奥入瀬三里半」と雑誌太陽に発表し、十和田を世に紹介した。かつてバスガイドが健在のころ、彼女らは必ずその句を口ずさんだものだ。実際、トチやカツラなどの生い茂る渓流には、カワセミ、アカショウビン、ヤマセミなど美しい鳥類も生息し、変化する流れや崖にかかる滝にはそれぞれ風雅な名がつけられている。歩いてみてはじめてそのすばらしさを実感できる。その十和田を愛した桂月は辞世の歌として「極楽へ越ゆる峠の一休み、蔦の出で湯に身をば清めて」を残し、蔦温泉の宿で息を引き取った。彼は、今も温泉宿近くのブナの古木の下に眠っている。

 十和田を有名にしたもう一人の男、和井内貞行を忘れるわけにはいかない。s-奥入瀬(秋).jpg1881年、十和田湖畔の小坂鉱山に赴任した貞行は、労働者の食事のために養魚を思いついた。当時は魚影も見えず死の湖といわれた十和田湖で全財産を投じて試行錯誤を繰り返した末、ついに支笏湖から導入したヒメマスが産卵のために岸辺に押し寄せるのを見たのは1905年の秋であった。その時の感動の言葉が「我幻の魚を見たり」で、教科書や映画にも取り上げられた。貞行は、ヒメマス養殖だけではなく、十和田の観光開発、そして国立公園指定にも尽力した。私が十和田湖畔の国立公園管理事務所に赴任したころ(1978年)には、生出(現在の和井内)に貞行が開業した「和井内ホテル」がまだ子孫によって存続経営されていたが、現在は廃業している。一方で、同じく貞行が起こした「和井内ヒメマスふ化場」は、その後、国、青森・秋田両県、十和田湖増殖漁業協同組合とその経営母体は代わり、施設は近代化されつつも、「十和田湖ふ化場」として現在に引き継がれている。

 国立公園指定といえば、八幡平地域の国立公園指定について「詩」で思いを語った有名人がいる。かの宮沢賢治その人だ。賢治は、「国立公園候補地に関する意見」と題する詩の中で、自分の文学を育んだ岩手山や小岩井牧場一帯について、

   いったいこゝをどういふわけで
   国立公園候補地に
   みんなが運動せんのですか
   いや可能性
   それは充分ありますよ

と、呼びかけている。まだ、国立公園制度が誕生(1931年)する前の1925年のことだ。

 大町桂月、和井内貞行、そして宮沢賢治、さらには国立公園指定15周年記念として1953年に十和田湖畔休屋の御前が浜に建てられた「乙女の像」の作者、高村光太郎などの有名人の名とともに、湖畔で仕事や食事を共にし、新米の私を育ててくれた多くの人々のことを、私は忘れることができない。

十和田八幡平国立公園 1936年2月指定 85,551㌶ 青森、岩手、秋田にまたがる

 (写真上) 夏の八甲田山(睡蓮沼)
 (写真下) 秋の十和田湖

 (関連ブログ) 「国立公園 人と自然(序)」「意外と遅い?国立公園の誕生


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

連載 国立公園 人と自然(序) 数少ない自慢、すべての国立公園訪問記 [   国立公園 人と自然]

 私は、かつて国立公園管理官(パークレンジャー)として勤務したことがある(「プロフィール」参照)。実際に国立公園の現場での勤務経験(公園内に居住)は、十和田(十和田八幡平国立公園)、阿寒湖(阿寒国立公園)、箱根(富士箱根伊豆国立公園)の3か所だけで、レンジャー仲間では少ない方だろう。それでも、現場での経験は、現在の私の研究活動の原資にもなっている。

 国立公園での生活は3か所だけだが、霞が関(環境省本省)での勤務の間に、国内はもちろん、海外でも数多くの国立公園・世界遺産など保護地域を訪れる機会を得た。わが国の国立公園は、現在29か所が指定されているが、そのすべてに、たとえ一瞬でも足を踏み入れたことがあるのは、私の数少ない自慢できることの一つと言ってもよい。s-国立公園配置図.jpg

 そこで、「国立公園 人と自然」と題して、29国立公園を順次紹介しようと思う。単なる国立公園の面積や自然の紹介ではなく、その公園の歴史や文化、あるいは国立公園と意外な結びつきのある人物などをできるだけ簡潔に、しかし魅力的に紹介していきたい。とは言っても、広大な公園全体をくまなく取り上げるわけにはいかない。私の興味ある地区に限定されることもある。また、前述のとおり必ずしも居住したわけでもなく、公園によっては通り一遍の紹介にとどまざるを得ないことを最初にお断りしておく。登場人物についても、生存者では差し支えある可能性もあり、歴史上の人物あるいはすでに故人となっている方を敬称を省略して取り上げさせていただくこととする。

 第1回として取り上げる予定は、私の初めての現場であった十和田八幡平国立公園だ。それはまた、東京の新宿(四谷)生まれ育ちの私にとって、生まれて初めて実家から離れての生活であり、新婚生活でもあった。それだけに仕事だけではなく、四季の移ろいを含め、私生活にも、多くの思い出がある。春の道路開通の八甲田雪の回廊から始まり、奥入瀬の新緑のトンネル、十和田湖湖水祭り、南北八甲田山のお花畑、有名な奥入瀬の紅葉、冬の住宅除雪作業など、その印象は未だに鮮明だ。

 その中でも不思議と頻繁に思い出されるのは、朝の目覚めだ。宿舎は、奥入瀬渓流沿いにあった。渓谷の夜明けは遅い。雨戸がなく、遮光カーテンもまだない時代では、遅い夜明けはそれなりに心地よかった。しかし、朝目覚めて今日は雨降りかと思うことが何度もあった。それは渓流の流れの音だった。渓流沿いでは3年間を過ごしたが、次の阿寒湖への転勤まで、たびたび「渓流の雨音」で目覚めることとなった。渓流の水音以外にも、キツツキ(アカゲラ)に起こされることもしばしばあった。外壁が板張りの宿舎で、そこにキツツキがやってきたのだ。林の中で、遠くから聞こえるキツツキのドラミングの音(キツツキが樹木をつついて、虫類をほじくりだす音)は、何やら軽やかだが、すぐ耳元となると話は違う。まさに、”ドラミング”なのだ。今となってはどれも、現場でしか体験できない懐かしい思い出だ。

 (図)国立公園の配置(環境省資料より作成)
 (関連ブログ)「プロフィール」「富士山の麓で国立公園について講演」「意外と遅い?国立公園の誕生」「『米国型国立公園』の誕生秘話」「日本の国立公園は自然保護地域ではない?


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問
- | 次の30件    国立公園 人と自然 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。